日本語の図案文字はどこから来たのか 第二回
矢島週一『圖案文字大觀』は、戦後になっても需要が衰えなかったらしく、引き続き刊行されていた。
ただしその版元は、戦前版を一貫して出しておられた彰文館書店ではない、いくつもの出版社名が挙がる。
図版研は、明治元年(1868年)〜昭和十六年(1941年)にだいたいの的を絞って図版資料を蒐めているので、基本的に戦後は守備範囲外なのだが、ものによっては比較のための参考資料として収蔵しているものもある。
『圖案文字大觀』についていえば、昭和二十八年(1953年)に『図案文字大辞典』と改題して、終戦後おそらく最も早い時期に覆刊されたヴァージョンとおもわれるもの
と、それから平成二十一年(2009年)にグラフィック社から、「第三刷」を底本となさったとして出された、(ほぼ)自由に利用できるillustrator形式ファイルのアウトラインデータを収めたディスクつきの『図案文字大観』
の二冊だけ架蔵している。
昭和二十年代の覆刻版『図案文字大辞典』
前者は書名を「大辞典」と称してはいるが、もちろん中身は辞書に変わっているわけではないから、「大字典」とした方がよかったのかもしれないww
そして☝本扉の題字に「増補改定」と添えてあるのは、「このタイトルの前のヴァージョンがある」という意味ではなくて「戦前の増訂版(の覆刻)」というお積もりのようだ。
☝武田と矢島の序文の順番が逆になっている。「斯界の有力者の序文を巻頭に据えて自著に箔をつける」とゆー文化が、早くもこのころにはすでに廃れてきていた、ということなのだろうww
☝発行者として奥附に載っている「創作図案社」の「竹之内米太郎」とは、昭和六年ごろにそれまでの「香蘭社書店」から「創作圖案刊行會」へ改称なさりつつも昭和二十年代前半ごろまでカット図案集などを刊行しておられた同名の方と同一人物だろう。
香蘭社に関して、『出版状況クロニクル』などでしられる小田光雄がご自身のブログ「出版・読書メモランダム」のほぼちょうど九年前のご記事「古本夜話320 香蘭社と木村萩村『自己の為めに精神修養』」
のはじめのところで、八木敏夫『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』(昭和五十六年 全国出版物卸商業協同組合)に次のような記事があることに言及しておられる。
ここに名の出てくる「八千代書院」は、戦前のものは見たことがないが昭和二十年代後半あたりから三十年代くらいにかけて「創作圖案刊行會」の刊行物を出しておられて、図版研でも収蔵したものがある。
ちなみに☟『図案文字大辞典』の「八千代書院」版をお持ちの方が二年ばかり前、その書影を Twitter で投稿しておられるのを見つけたので、ご参考までにお示ししておこう。
デザインは「創作図案社」版とまるっきりおんなじで、発行元名だけ挿げ替えたもののようだ(奥附は掲げておられないのでわからないけれども)。
というわけで、どうやらおんなじ出版社が名前を変えながらだいぶ長いこと続けておられたみたい、というのが見えてくる。
……などと話が横道に逸れっぱなしになっていると、企画書や研究計画書があるでなし、下書きもメモもなくいきなり note の編集画面に書きつけているこの連載記事の、本論に入らないうちに何を書こうとしていたのかわからなくなりそうだから、この辺で打ち切って次に進もう。
「創作圖案刊行會」については話の流れでいずれまた触れる機会があるし、ご希望がおありならばそのときに図版もまじえつつ、もう少しこまごましたことをお話しすることもできようから。
平成唯一の覆刻版『図案文字大観』CD-ROM付属
さて後者。最大の特徴は商用利用も可能な図案文字のアウトラインデータがついていることだが、著者名が「矢島週一」ではなくて「矢島周一」ご名義になっているのもこの本だけだとおもう。
あと、モノクロ単色刷りなのも多分唯一のヴァージョン。巻末索引の手前にあった装飾アルファベットは、各内扉の裏側に縮刷されている。
この本の図案文字アウトラインデータを実際に使ってみて改めて実感するのだが、普段漢字を手書きする機会が減っている現代の日本語ユーザにとって、「見つけたい文字が何画か?」というところでどうしてももたつく場面が少なくない。これはなかなかのストレスww せめて部首別画引き索引は追加していただきたかった。
目下準備中の覆刻版資料の標題向けフォントとして、本書を利用してみた。
底本が大正十五年の刊行なので、同年が初版の矢島週一『圖案文字大觀』の字体ならば時代の雰囲気が出るのでは、という考え。
しかし(この本の図案文字を拾って題字なりなんなり組んでご覧になった方は実感された向きもあろうが)、「当然あるだろう」と想定する意外な文字が、あるはずのところをいくら探してみてもみつからなかったりする。
☝の例でいえば、「阿」や「研」はどこにも載っていない。
それに、漢字と仮名文字とが必ずしもマッチするデザインのものばかりではないため、どうしてもエレメントを切り貼りして「捏造」せざるを得ない場面がある。「个」に由来するとされる文字「ケ」はカタカナで代用できそうだが、使おうとしている漢字フォントの雰囲気と合う仮名フォントがなければ、やはりユーザ側でなんとか拵えるしかない。
それに加えて、そもそもオリジナルの図案文字が相当の時間差で手描きされているため、別々のページから拾ってきた同じ(はずの)フォントの文字で文言を組んでみると、便化の仕方とかフィニッシュの出来具合とかが違っていて、部分的に手直ししたくなっちゃうことが少なからずある。
そんなわけで、たかだか十文字くらいを組むのにも結構な時間と手間と気力とエネルギーが費やされてしまいかねない。
ステキフォントが揃っている割には、「実際にこの本を利用して作っておられるな」と気づく例を目にした覚えがないのは、もしかするとそういう理由があるのかもしれない……。
とにかく、「誰でも楽してオシャレレトロモダンロゴがばんばん作れる」素材集というわけではなく、ある程度以上のデザインの伎倆とセンス、そしてこうした作業の「手慣れ」が買い手側に要求される気がする。
日本で初めての「圖案文字」という新語?
前回の記事
で特許庁意匠課『意匠制度120年の歩み』という本の中に、矢島週一『圖案文字大觀』刊行に関連して「初めて「図案文字」の語使用」という記事があるのについては「ちょっと註釈が必要」と書いた。
というのは、大正十四年(1925年)に出た別の描き文字の本に、すでに「圖案文字」という語が何ヶ所も出てくるからだ。
それが「描き文字考」1の p. 7
で川畑直道が
と紹介しておられる、藤原太一の『圖案化せる實用文字(図案化せる実用文字)』という本だ。
☝の奥附の右端に、「申込所 東京小石川大塚町二九 大日本工藝學會 振替東京五八六五四番」と書かれた紙が貼り付けてあるのにお気づきの方は、「その下はどうなっているんだろう……」というご興味を抱かれる向きもあるだろう。
照明に向けて透かしてみよう。
版元の「合資會社 大鐙閣」の名が読み取れる。
「發行所」として名が載せられていたものが、いつしか何らかのご事情でこんなことになったようだ。なおこの貼り紙がないものの写真も最近目にしたことはあるのだが、それがどこにあったのかはちょっと思い出せない。
そーゆー、本題と関係ないことはさておいて。
巻頭に、校閲者として名が載っている杉浦非水と、それから著者藤原太一ご本人の序文がある。そこに「圖案文字」という語が出てくるのだ。
はじめに杉浦非水「序」。
☝これは終いの方の一例だが、それよりも前にも出てくるから、どのように使われているかをご自身の眼でお確かめいただくとしよう。
つづいて藤原太一「集の初めに」。
……と、「圖案文字」の語が圏点つきで使われている。こちらも通しでご覧いただいておくとしよう。「文字を圖案する」と、「圖案」が動詞として使われている例も出てくることからして、「圖案文字=圖案された文字」というニュアンスを持たされていることが推しはかれる。
なお藤原太一の第二冊目の描き文字本『繪を配した圖案文字(絵を配した図案文字)』は、矢島の『圖案文字大觀』から少し後の大正十五年(1926年)六月に、同じく大鐙閣から初版が出ている。
大阪で音楽CD販売店「ファルスタッフ」を経営しておられる藤原太一の令孫・藤原敦彦が☟ご自身のブログ「blogo di Falstafff」記事に、ご祖父から引き継がれた大鐙閣版両冊の外函(の部分)画像を掲げられている。
「祖父の著作の論評を発見!」 2011.10.07 Friday
http://falstafff.jugem.jp/?eid=93
流石に保存状態がよさそうだ。
「いずれここで中身を少し紹介させていただこうと思っております。」と書いておられるので永年「まだかな、まだかな」とおもってときおりチェックしたりしていた。
あるときご縁あって、こちらのお店から藤原太一ご旧蔵の資料を二点お譲りいただいた際、ちらと伺った(ちょうどそのとき具体的な出版企画お立ち上げのきっかけになるお話のとっかかりができたばかりのご様子だった)両冊覆刊のご構想が、後にマール社の覆刻版『大正タイポグラフィ』
として見事ふたたび世に出ることにつながったらしい。
しかしそのためか、ついに今にいたるまでこの描き文字集についてのご投稿がないのが残念……ご当人を直接ご存知の方が、いったいどのようにお書きになるのかがみてみたかったのに〜。
☟これは昭和になってから刊行された大阪の東光堂書店版。デザインは大鐙閣版とだいぶ違うようだ。
そしてどちらの描き文字集も東光堂書店版は、大鐙閣版にあった巻頭序文が割愛されている(のがすっごく残念)。だから、鍋井克之がこの本のためにお書きになったものは未見なのだった。
☟『大正タイポグラフィ』巻末には参考資料として藤原太一のプロフィールなどとともに、『圖案化せる實用文字』東光堂書店版と『繪を配した圖案文字』大鐙閣版の書影が掲載されている。
☟あわせて紹介されているお仕事集は、かなりの量をお身内で大切にしておられて、「これらを別途本にまとめたい」というご希望もおありだったように伺ったような憶えがあるのだが、そちらがその後どうなったのかはわからない。
なお「ファルスタッフ」ご店主は、藤原太一がテナー歌手の藤原義江とともに収まられた写真も、☟別のご記事で公開されている。
「「吾らがテナー」と吾が祖父」 2015.06.01 Monday
http://falstafff.jugem.jp/?eid=275
……とかいつまでもやっていると、またもや話があさっての方向へ転がっていってしまいそうなので、ここらで軌道修正軌道修正。
昭和五十五年(1970年)に日本デザイン小史編集同人編として出された『日本デザイン小史』
(とうの昔に絶版なので、☝借覧中の書影チラ見せ)
(☟発行所の下に捺してあるハンコは、版元の検印とかではなくて図書館の蔵印とおもわれる)
にお寄せになった「商業美術の今昔」という一文
の中の「図案文字の集成本を刊行」という章で、矢島周一ご自身は次のように回顧しておられる。
……と、まるで世紀の一大イヴェントたる日本図案界二巨頭「合議」の末に「圖案文字」という語が誕生したかのようなお書き振りなのだが、ではそのもう一方の当事者であるはずの武田五一はそれについて何か語っておられるのかというと、ちょっと探してみたくらいではどうもそういう文章は見当たらない……。
なお☝上に引用したとおり、矢島が『圖案化せる實用文字』に、ご自分のお仕事が「多く集録され」ている、と主張されているにもかかわらず、実際にご自身の作例をその証拠として呈示なさったりは全くしておられないため、それについてはご本人が昭和五十七年(1982年)に亡くなられていることもあり、いったいどれが氏の作品なのかは、もはや検証するすべがなさそうだ(グラフィック社版『図案文字大観』に謝辞を寄せておられる、大阪のぬいぐるみメーカー「千舟社」ご経営のご子息・矢島千船ならば、父上のお仕事をご幼少時から身近にご覧になっておられたろうから、お伺いしてみる手はまだ残されているかもしれないけれども……)。
ご制作当時、グラフィックデザイナーとしての受注先に対する秘密保持義務というものは、一世紀以上前の契約条項にも当然ながらあっただろうけれども、それをご自身の信念により何十年ものちまで愚直にまもりつづけておられたのかどうか……なんだかもったいない話のような気もする。
それはさておいて、そもそも『圖案文字大觀』のための序文に、本のタイトルも含め武田は「圖案文字」という語を全く使っておられないのだ。
「圖案文字」の語は避けるかのようにお使いにならず、どこまでも「新型の(美しい)文字」「新工夫の文字」と呼んでおられるかにも見える。
☝先に掲げた、杉浦非水が藤原太一の本に寄稿なさったかなり長くて熱のこもった文章と見較べてみると、ずいぶんとあっさりした印象を受ける。とはいえ、簡潔にして明瞭なメッセージを伝えてくれているところが流石だ。
今度は矢島周一ご自身の(☝藤原太一の「集の初めに」を意識なさったような、しかし意味がイマイチよくわからない)「栞りの初めに」と題された序文も読んでみると……
矢島は格調高くなさりたいためなのか、お書きになる文章が全体的に硬めの上、「意義を最も深刻に發輝助長させて」「人文の道化に寄與する」のような氏独特の言葉づかいをなさることが少なくなく、やや読みづらさを感じてしまう。
奇妙におもえるのは、なぜか「圖案文字」の前に二度も「所謂」をかぶせておられることだ。
「所謂」は「世にいうところの」という意味の語だから、これではちっとも「この日本ではじめての新語」には見えない。
むしろ、藤原が「すべて文字の意匠化といふものが今日斯くまでに發達し、またその實用化が斯くまでに一般的となつて」今では「圖案文字」という地位を堂々占めるようになった、と書いておられることと符合するようにすらおもえる。
もし当時から心底「私が敬愛する博士とともに話し合って決めた、今までにないことば」だという確信を持っておられたならば、こういう奥歯にモノのはさまったようなおっしゃりようはなさらないのではないかしらん。
「圖案文字」という語は武田五一からどうみられていたか?
ところで武田は、永年「圖案」という語と親しく向き合ってこられたとみられる。明けても暮れても寝ても覚めても常に頭の中にある、相当に馴染み深いことばだったことだろう。
「圖案」ということばについて語っておられる一例を、国会図書館デジタルコレクションで(利用者登録がお済みの方ならば)お読みになれる範囲で挙げれば、☟明治四十年(1907年)に刊行された京都圖案會雜誌部『京都圖案』誌第二卷第四號掲載の「圖案に就いて」という一文の中では、
と書いておられる。
それにそもそも当時のデザイン業界ではきっと、「圖案」という語自体が盛んに口端にのぼせられていたことだろうから、字体デザインを工夫する仕事にかかわっておられた誰もが「圖案文字」ということばを思いつく下地が十分にあったのではないか。
かたや、矢島が「圖案文字」とどちらを採るか迷われたらしい「意匠文字」という語については、☟明治三十年(1897年)の『印刷雜誌』第七卷第拾壹號の「活版及石版門」に「印刷ハ讀ム爲ニス意匠文字或ハ多色いんきノ爲ニアラス」なる、「紐育圖書倶樂部」における演説抄録が載っている
ことからしても、専門家のあいだでは二十世紀にならないうちから、すでにある程度使われていたとも想像される。
☝『日本デザイン小史』の「商業美術の今昔」冒頭で矢島自らが語っておられるところからして、ご自身が家業を継ぐべきお立場から高等専門教育を受けることを断念なさったことがしれるが、それゆえに日本図案教育界きってのトップエリートである武田とは、デザイン関連用語の使われ方についての知識の蓄積にも相当の開きがあったことだろう。
となれば、京都帝大の建築學教室を訪れて新著への序文を請う矢島から、そのタイトルに「圖案文字」「意匠文字」のいずれを採用したらよいか意見をもとめられて「ふむ、それは「圖案文字」がよろしかろう」のひと言で決着がついた「合議」だった可能性、これは否定できないのではないだろうか。
それに帝大の学士といえば、(漱石夏目金之助がそのために勤め先の長よりも好待遇をもって迎えられていた、というよくしられた逸話を引くまでもなく)当時の一般庶民にとっては「雲の上の存在」なのが普通だったろう。
しかも武田五一はその有能さゆえに、お若いときからあれこれ任せられ、建築と工藝との両分野にまたがって八面六臂のご活躍をしておられたことが、そのご還暦を祝して企画されたお催しの一環として昭和八年(1934年)に刊行された武田博士還曆記念事業會『武田博士作品集』
に載っている「武田博士經歷」を眺めると見てとれる。
だいたい、二十八歳で東京帝大大學院三回生の年度を了えられたところでご退学+即日「任東京帝國大學工科大學助教授 叙高等官七等」とあるということは、建築学教育の指導者に事欠いていた当時、「武田君、院での硏󠄀究はもういーからさっさと教える方にまわってまわって」と、学校側からのたっての要請をお請けになってのことだろうから、その優秀ぶりがしのばれる。
文字ばかりのページがつづくとちょっとツラくなるので、ここでお目の保養に「マルホッフ式染色模様」をどうぞ。かわいい☆
「作品一覽表」をみると、矢島とのご交流があった大正年間、デザイン教育の開拓者として、そしてさまざまな機関やプロジェクトの要員として、おそらくは毎日のように何十人何百人を相手になさりつつ、そのかたわらでご自身の作品も各方面で精力的に制作されていたらしいことに圧倒される。
ここでまたちょこっとひと休み、☟ご自身で設計を手がけられた「武田邸」(昭和四年(1929年)築)の外観+書斎風景。まことに惜しいことに、一部を残して現存しないそうだ。
『日本デザイン小史』で矢島周一が
と二十歳ごろのことを振り返っておられるが、この文だけ見ればあたかも特別に親しく武田に私淑しておいでだったかのような印象を受ける。
けれどもその「距離」について、武田五一の側からは果たしてどう捉えられていただろうか。
請われるままにその第一著書の上梓を祝す序文を寄せられ、校閲者としての名をそこに掲げることを許されるからには、矢島に対し「前途有望な新進気鋭の若手図案家」と相応の評価をしておられたには違いないが、京都帝大工學部建築學教室に「還歷記念事業會」を立ち上げ、醵金を募って展覧会や出版事業などをなしとげられた「知人門下生その他」の埒外ではあったろう。
やはりその関係の重みには、較べものにならない落差があったのではないかしらん。
☝の「序」にいう『武田博士之橫顏』は、前年の昭和七年(1932年)にいち早く作られた冊子で、『武田博士作品集』外函にはこれも一緒に収めるためのスペースとして、この二冊分をあわせた背幅がとられている。
ただこの外函は、角背上製の重みのある作品集本体にいささか見合わない、かなりぺらぺらの板紙で造られているため、本を出し入れする際にこわしちゃわないかちょっとひやひやしてしまうww
実際、一度うっかり函の上に本体を乗っけたらあっさり背が縦にぐしゃっと折れ潰れてしまい、泣く泣く内側に板紙で補強材を入れて製本用セルロース糊で修繕する羽目になったwww
まぁもちろん、紙質が経年劣化していた所為もあるのだろうけれども……。
この本の巻頭に掲げられた「武田博士の近影」と題された肖像写真でご当人の和やかに寛がれたご表情を眼にするにつけ、これはやはりその能力の高さが支えてこられたお気持ちのゆとりによってつくりあげられたお顔なのだろうな、と感じる。
だからこそ、「学士様」などと尊大に振る舞われることもなく、矢島周一のような、たとい学はとぼしくとも見どころある若者にも親身に指導されたのだろう。矢島にしてみれば、武田とのご交流は人生を大きく変えることになる特筆すべきイヴェントだったに違いない。
とはいえ、少なくとも今まで書名には使われたことのない「圖案文字」という語について、武田がさきにもあとにも取り立てて語られることがなかったのは、『圖案文字大觀』出版準備にいそしむ矢島とのおやりとりが、多忙をきわめる図案界の先導者にしてみれば、単なる日常のひとコマに過ぎなかった、というのもあるのではないかな、と想像している。
ともかく、矢島週一『圖案文字大觀』が世の図案家やデザインを学ぶ者の歓呼をもって迎えられ、ロングセラーとしてその本が出しつづけられたからこそ、今なお大正〜昭和初期モダニズムデザインを象徴する描き文字の代名詞として「図案文字」が通用することにつながったのは間違いないだろう。
だから、前回の記事で紹介した「意匠制度120年史年表」で、大正十五年の『圖案文字大觀』刊行に関連して「初めて「図案文字」の語使用」とあるのは、「あくまで書名についての話」という解釈がいちばんしっくりくるだろうとおもうのだ。
最後に気づいちゃった余計な話(あくまで情報提供として……)
前回記事の「矢島週一『圖案文字大觀』の「増訂版」と「増補版」」章
で、「装丁家・大貫伸樹の装丁挿絵探検隊」のご記事「「これはすごい!」と叫びたい『図案文字大観』」に紹介されている昭和三年增訂五版と、それから図版研架蔵の昭和四年增訂六版とは中身はどうやら同じらしい、というお話をした。
それから今回の記事のはじめのところで、グラフィック社版は「第三刷」を元になさった、と紹介した。巻頭の☟「編集部より」に、そういうお断わり書きがある。
しかし、戦前版には(昭和二十年代の創作図案社版もそうだが)奥附に何刷なのかは書かれていないので、この「第三刷」とおっしゃるのがいったいどの版なのかわからない。昭和二年(1927年)の「第三版」は未見なので断言はできないにしても、おそらくは初版と同じくアラビヤ数字とアルファベットとに章が分かれているはずだから、それも考えづらい。
だが、巻末に☝底本の奥附とおもわれるものが(ローマ字数字章最後の大きな装飾アルファベットが各章内扉の裏面に移ってあぶれた尾題がここに持ってきてあったり、検印欄に外函の写真が貼り付けてあったり、と少々改変されてはいるものの)掲載されている。
つまり、実際には昭和三年(增訂)五版が「保存状態が最も良好だった」ために「制作原本」として採用されたとみてよいだろう、とおもわれる……よね?
もしそうならば、本文の中身は☝『図案文字大辞典』と(内扉とかのデザインを除いて)全くおんなじはず……。
しかし、仮名文字章の最初である p. 293 の写真を見較べてみると、これが違うのだ。增訂六版は☟これ。
一方、グラフィック社版『図案文字大観』の方は、☟増補版
をグレースケールで刷ったもののようにみえる。
とすると增訂五版と六版とでは、実はまたもや中身が違うのか??? という疑問が湧いてきてしまう。
そういえば、大貫伸樹はご記事に五版の本文も一部載せておられた、というのを思い出して早速見直してみると、幸いに p. 382〜383 の仮名文字章見開きがある。
ここを比較してみようそうしよう。
……ということで、「第三刷」の謎は結局よくわからないまんまww
グラフィック社版の装丁を担当なさった大貫は五版と十一版とをお持ちだそうだから、おそらくはそれを底本に関係者の皆さまがベストのカタチを追求なさった結果こうなったのだろう、と想像しておくとしよう。
以上は、今回の記事のために資料写真を撮っている途中で「むむっ!?」と気づくまで、図版研でも今まで誰もまっっっったく気にしていなかったことなのだが、一旦気づいちゃったからにはあくまで「好字家」の皆さまへの情報提供として、ということで。
ちなみに図版研では、大正十五年初版がかわいいので一番人気だ。
グラフィック社版は惜しいことにすでに新刊は手に入らなくなってしまっているようだが、もしいつかどこかでまた『圖案文字大觀』覆刊のご企画が立ち上がるものならば是非、初版をベースに増訂版と増補版とのいいとこ取りをした「ベスト版」か、マシマシ全部載せの「完璧版」(しかも商用利用可のアウトラインデータつき)をご検討いただきたいものだ(な〜んて、自らやろうとはおもわないので好き勝手なことをならべてみる)。
次回は数ある大正〜昭和初期の描き文字本(図版研は「これはお買い得!」「これは相場からしてまぁまぁそんなところだろう」「これは重要なヤツだから少々高いけれどやむを得まい……」のどれかに当てはまるものに限る、という資料調達方針だから、もちろんあれもこれも所蔵しているわけではないが)を俯瞰しつつ、矢島週一『圖案文字大觀』の位置づけを考えてみようかと。
(2024年7月3日追記)ありがたくも、矢島のご係累の方から懇切なコメントを頂戴した。システム上お返事を差し上げることができずもどかしい限りだが、記事をおたのしみいただけたようで何より。