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いわゆる「古絵葉書の年代推定の目安」とされる「私製葉書の体裁規定」変遷を官報で追ってみる

先日「日本の古本屋」メールマガジンに、国会図書館司書を長く勤められた調べモノの大家による連載記事「シリーズ本とエハガキ」の第一回として、「エハガキを買って集める歴史」が掲載されたのを拝読。

本自体を写したエハガキ、本屋開店の記念エハガキ、図書館開館記念エハガキ、ただ本を読んでいるだけの姿を写したエハガキなどなど、数千枚集まったので何回かにわけてちょっとみなさんに紹介しようと思う。

「2006年ごろ、本についてのエハガキを集めたら面白いだろうと気付いた。」でお始めになって、今や数千枚、って……

絵葉書のように、古くから蒐集趣味が世にひろまって市場が確立し、途方もなくマニアックな蒐集家が少なからずおられるような分野の資料に手を出すのは、書物などに較べると市価が割高の上、慾望にまかせて蒐め出せばキリがない世界だけに、お大尽でもない限りよほどしっかり自身のテーマを絞り込んで厳選するように心がけないと、底なしの泥沼にはまり込みかねない。

だから図版研では、見ればもちろん魅力は感じないわけではないのだが、収蔵対象としては基本的に避けてきた。海外の古絵葉書業者から何年か前、そのお店の特売期間中に国内で売っているよりも割安の、手彩色のものなど古手の日本風景写真のを少々まとめて買ったことがあるくらいだった。

『大正、阿佐ケ谷、高円寺。』別冊の制作と、それのための追加調査と資料蒐集を始めてから、掲載用図版の材料としての必要を感じて、ここ二年ばかり少しづつ調達するようになった。それでもせいぜい、百数十枚くらいしかないだろう。

史料図版として、ある程度は発行時期を絞りこむ必要があるが、そのほとんどは未使用のため、写っている風景や建物その他からは判断がつけづらい場合など、☝のメールマガジン記事でも指摘されているように、所謂「絵葉書年代推定の目安」とされる表書き面の体裁の違いに判断を頼ることになる。

ところがこの「目安」とされる体裁規定の変遷、これに言及している文献や資料のどれを覧ても、その説明が結構曖昧なのだ。「一応はこう変わったことになっているけれど、例外も少なくない」などと注意書きが添えられていたりする。逓信省が法令規則で縛っているからこそ判断基準になる筈……なのに、そこから外れる例がぞろぞろ見つかる、という話はどうも腑に落ちづらい。いったい、精確にはそれぞれがどのような決まりだったのだろうか

レファレンス共同データベース」にある岡山県立図書館のレファレンス事例絵葉書が印刷された年代を、表面から推定する方法を知りたい。

を覧ても、既刊出版物の記事にまとめられている情報が例示されているものの、その根拠法令の条文が示されたりはしていない

☝調べモノの御大のご記事に掲げられている「【表1-1】」がご自身のお調べになったご成果ではなく、紙モノコレクターのブログ記事を元にしておられる、というのは意外に思えたが、それくらいその手の情報がひと目でぱっとわかるようなどこにもまとめられていない、ということなのだろう。

実際、かなり頑張ってググってみても「ジャパンアーカイブス」に「郵便(大正7年)▷私製絵葉書の宛名書き通信欄の仕様変更(3分の1→2分の1)」として官報記事が紹介されているほかには、元となる条文を示しているところは見つけられなかった。

https://jaa2100.org/entry/detail/031777.html

しかし逆にいえば、「私製絵葉書の体裁変更」の法令のひとつが官報に載っているものならば、ほかも官報を探せば見つかる筈、ということになる。

今までまとめられたことのないテーマを調べてまとめてみる、というのには大いに興味を惹かれるので、早速国会図書館デジタルコレクション官報を漁りはじめた。

こーゆー風に、何か新しいネタに行き当たるたびにそちらへ興味が引っ張られて、今まで取り組んでいたことの方は疎かになるからこそ、制作中の本の完成見込みもどんどん後に延びてしまうワケだが、図版研の仕事はヒトのためでなくカネのためでなくひたすらに「面白さの追求」のためにやっているのだから、その辺はもうお諦めいただくよりほかない(無論、その成果がほかの方にもお愉しみいただけて、そのついでに多少の収益も上がるならばいうことなし☆ なのだが)。

明治三十三年、最初の私製葉書の体裁規程

まずは私製葉書が初めて認められた時の官報記事を覧てみよう。明治三十三年(1900年)九月一日附け第五千百五十一號二ページ目「省令」に載っている、同日附け遞信省令第四十二號だ。

大藏省印刷局『官報』明治三十三年九月一日第五千百五十一號
一+二+三+七ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省令第四十二號
郵便規則左ノトホリアイサタ
    明治三十三年九月一日     遞信大臣 子爵芳川顯正
郵便規則
(中略)
第十八條 政府ノ發行スル通常葉書ト同一ノ寸法及紙質ニシテ之ト同一ノ位置ニ「郵便葉書」ノ文字ヲ印刷シカツコレト同額ノ郵便切手ヲ貼附シタル私製葉書ハ通常葉書ト
     私製葉書ニシテ前項規程ニ違反シタルモノハ第一種郵便物ト同一ノ取扱ヲ

(中略)
  附 則
第九十條 此ノ規則ハ明治三十三年十月一日ヨリ之ヲ施行ス
(下略)

(振り仮名は筆者による)

ここにいう「通常葉書」は、明治三十二年(1899年)三月二日附け第四千六百九十七號に載っている遞信省告示第六十六號にもあるように、同年二月二十八日附け法律第二十六號郵便條例改正で定められた郵便一錢五厘葉書を指す。「第一種郵便物」は信書を指し、その郵税は倍額の三錢だった。

大藏省印刷局『官報』明治三十二年三月二日第四千六百九十七號
二五+三八ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省告示第六十六號
今般法律第二十六號ヲ以テ本年四月一日ヨリ郵便稅中改正セラレタルモノコレアリツキ郵便差出人ハ特ニ左ノ事項ニ注意スヘシ
    明治三十二年三月二日      遞信大臣 子爵芳川顯正
一 郵便葉書ハ一葉一錢五厘ニ改メラレタルニ付從來ノ一錢葉書ヲ使用スルトキハ必ス五厘切手ヲ其表面稅額印面ノ下ニ補貼スヘシ
(中略)
三 第一種郵便物卽チ信書ハ目方四モンメ每ニ(四匁未滿亦同シ)三錢ノ郵便稅ヲ要スルヲ以テ四匁以下ハ何匁ニテモ三錢切手又ハ之ト同額ノ切手ヲ貼付スヘシ又四匁以上八匁迄ハ六錢、八匁以上十二匁迄ハ九錢、十二匁以上モ右ノ割合ニテ目方四匁迄ヲ增ス每ニ切手三錢ツヽヲ增貼スヘシ
(下略)

(振り仮名は筆者による)

実際の通常一錢五厘葉書の体裁は、公益財団法人日本郵趣協会長崎支部会報『長崎郵趣』144号記事「日本の葉書(1)」に、ほかの初期の官製葉書とともに図入りで紹介されていたので、そちらでご覧いただくことにしよう。☟2ページ目図版上段右側「菊・青枠はがき」というのがそれだろう。

施行を目前にした明治三十三年(1900年)九月十八日附け遞信省告示第三百五十九號にも、やはり「郵便葉書」と漢字で書かれている

大藏省印刷局『官報』明治三十三年九月十八日第五千百六十五號
二八一+二八三+二八四ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省告示第三百五十九號
郵便法郵便爲替法電信法郵便規則郵便爲替規則及電報規則實施ニ付左記事項ヲ注意スヘシ
    明治三十三年九月十八日      遞信大臣 子爵芳川顯正
     郵便ノ部
(中略)
一 私製葉書ニ政府ノ發行スル通常葉書ト同額ノ切手ヲ貼付シ郵便ニ差出ストキハ通常葉書ト同一ノ取扱ヲ爲ス
  私製葉書ハ通常葉書ト同一ノ寸法及紙質ニシテ之ト同一ノ位置ニ郵便葉書ノ文字ヲ印刷シ且ツ同額ノ郵便切手ヲ貼付シタルモノニ限ル此ノ條件ヲ缺クモノハ第一種郵便物ト同一ノ取扱ヲ爲スヘシ
  往復葉書封緘葉書ハ私製ヲ許サス
(下略)

……と思ったら、これのひとつ前の告示に私製葉書の「製式」として具体的な規定が図入りで書いてあった明治三十三年九月十七日附けの遞信省告示第三百五十八號。

『官報』明治三十三年九月十七日第五千百六十四號
二六五+二六六+二七七ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省告示第三百五十八號
本年九月遞信省令第四十二號郵便規則第十八私製葉書ノ製式ハ左ノ各項ニ依ルヘシ
    明治三十三年九月十七日     遞信大臣子爵吉川顯正
一 表面ニハ脫色セサル印肉ヲ以テ左式ノ如ク鮮明ニ印刷スヘシ
(図)
二 表面ニハ前項ノ外圖畫及文字ヲ印刷スヘカラス
   但シ政府發行ノ通常葉書ト同一ノ注意文ヲ左右ニ印刷シ若ハ輪廓ヲ設ルハ妨ケナシ
三 用紙ノ品質ハ堪力原料共ニ精良ニシテ政府發行ノ郵便葉書ト同質以上ノ製品ト認ムルモノニ限リ之ヲ同一紙質ト看做ス
四 用紙ノ量目ハ切手ヲ貼付シタルモノニシテ一枚五分以上六分以下ヲ以テ政府發行ノ通常葉書ト同一量目ト看做ス
五 用紙ノ寸法ハ縱四寸五分七厘以上四寸六分二厘以內橫二寸九分二厘以上二寸九分七厘以內ヲ以テ政府發行ノ通常葉書ト同一寸法ト看做ス

「堪力」というのは紙のコシ、折り曲げ強さのことを指しているのだろう。

表書き側のデザイン自由度についてはほぼなきに等しい(せいぜい飾り枠に凝るくらいの余地しかない)反面、裏側についてはなんの制約も設けられていないことがわかる。

大正初期の広告用装飾画の電胎銅版見本帖に☟こういう葉書用の枠が載っているのは前から気づいていたが、もしかすると当初は☝この製式の私製葉書を作るためのものだったのかもしれない。

靑山進行堂活版製造所『廣告用及裝飾畫の類 電氣銅版見本』大正二年六月調 乙號
四四八ページ

左右の「注意書」は、「此の表面には宿所姓名を限りしたたむべし」「宛名人の宿所は宛名よりも大書すべし」となっている。真ん中の円い掛け鏡の絵はもちろん関係なし。

そういえば☝この飾り枠上部の郵便葉書表示、「郵便はがき」と濁点がついている。

靑山進行堂活版製造所『廣告用及裝飾畫の類 電氣銅版見本』大正二年六月調 乙號
表紙

そして大きさや重さは、というとほとんど誤差の範囲……縦横ともに一・五ミリメートルくらい、目方も切手を貼りつけた状態で〇・三五グラムちょいしか官製葉書と違っちゃダメ、というのはなかなかのウルサさ。

なお用紙の「紙質」については、施行直後に補足説明の告示が出ている。

大藏省印刷局『官報』明治三十三年十月九日第五千百八十三號
一五三+一五四ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省告示第三百九十七號
明治三十三年九月遞信省令第四十二號郵便規則第十八條中通常葉書ノ紙質ニハ原料、紙色、堪力、量目、製法ノ五項ヲ包含ス
    明治三十三年十月九日      遞信大臣 子爵芳川顯正

これでさらに紙の漉き方にまで縛りが加わったことになる。

明治三十六年、「私製葉書製式規則」制定

明治三十六年(1904年)十二月十七日附け第六千百三十九號に「私製葉書製式規則」というのが載っているのに眼がとまった。表書き面の体裁が図解されている。

大藏省印刷局『官報』明治三十六年十二月十七日第六千百三十九號
四四一ページ(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省令第六十一號
私製葉書製式規則左ノ通相定メ本日ヨリ施行ス
    明治三十六年十二月十七日      遞信大臣 大浦兼武
   私製葉書製式規則
第一條 私製葉書ノ表面ニハ脫色セサル印肉ヲ以テ左式ノ如ク鮮明ニ印刷スヘシ
(図)
第二條 私製葉書ノ表面ニハ前條記載文句ノ他宛名ノ記入ヲ妨ケサル限リハ左ノ事項ヲ印刷スルコトヲ得
 一 郵便葉書ニ相當スル外國文字
 二 萬國郵便聯合ノ文字及之ニ相當スル外國文字
 三 政府發行ノ通常葉書ト同一ノ注意文又ハ貼付方ノ注意文
 四 發行所、賣捌店ノ所在名稱
 五 模様付輪廓但シ廣告文等或ル意味ヲナス文字ヲ用ウルコトヲ許サス
第三條 私製葉書用紙ノ品質ハ精良ニシテ靭力强ク且曲折ノ虞ナク政府發行ノ通常葉書ト同質以上ノモノタルコトヲ要ス
第四條 私製葉書用紙ノ重量及厚サハ政府發行ノ通常葉書モシクハ萬國郵便聯合葉書ヲ以テ其ノ標準トス
第五條 私製葉書用紙ノ寸法ハ縱四寸五分以上四寸七分以內橫二寸八分以上三寸以內ヲ以テ其ノ標準トス
第六條 私製葉書表面ノ紙色ハ白色又ハ白色類似ノイロアヒタルヘシ
第七條 私製葉書ノ裏面ニハ他ノ郵便物ニ汚斑ヲキタスカ如キチヤクシヨクヲナスコトヲ得ス
第八條 スカウキタシハ宛名ノ記入ニサマタケナク且第三條ノ主旨ニテイシヨクセサル限リハ之ヲ施スコトヲ得
第九條 外國郵便規則第二條ニ依リ調製シタル私製端書ハ之ヲ內國郵便ニモ使用スルコトヲ得
第十條 本規則ノ規程ニ違背シタル私製葉書ハ第一種郵便物ト同一ノ取扱ヲ爲ス
   附 則
第十一條 明治三十三年九月遞信省告示第三百五十八號及同年十月遞信省告示第三百九十七號ハ本規則施行ノ日ヨリ廃止ス

(振り仮名は筆者による)

第二條の三にある「貼付方ノ注意文」というのは☟こういうヤツ。「郵便切手はに貼付すべし」

靑山進行堂活版製造所『廣告用及裝飾畫の類 電氣銅版見本』大正二年六月調 乙號
四四七ページ

「萬國郵便聯合葉書」の体裁を採るものも私製葉書として同等に扱う、ということが書かれてあるが、この葉書とは具体的には明治三十一年のはじめに発行された「萬國郵便聯合四錢がき」に倣え、という意味と考えてよいだろう。

內閣官報局『官報』明治三十一年一月二十九日第四千三百七十號
二五七ページ(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省令第二號
キタル三月一日ヨリ萬國郵便聯合四錢カキ及同八錢往復端書ヲ發行ス其ノ見本ハ郵便局郵便受取所ニソナヘ置カシム照鑑ヲ要スルモノハツイテ觀ルヘシ
    明治三十一年一月二十九日
                遞信大臣 文學博士末松謙澄

(振り仮名は筆者による)

「見本は郵便局の受け付け窓口に置いてあるから見たい者はそこで見よ」ということで図解はしてくれていないので、日本郵趣協会長崎支部長崎郵趣』146号に載っている「日本の葉書(3)外信葉書」でご覧いただこう。

☝4ページ目左下の「うす墨連合」とあるものがそれらしい。

第九條に「外國郵便規則第二條ニ依リ調製シタル私製端書」云々、とあるのは、明治三十三年制定の条文を指すとみられる。その中身を見てみると…

大藏省印刷局『官報』明治三十三年九月十一日第五千百五十九號
百六十九+百七十ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省令第五十五號
外國郵便規則左ノ通相定ム
    明治三十三年九月十一日     遞信大臣 子爵芳川顯正
   外國郵便規則
第一條 外國ヘ發送スル郵便端書ハ政府發行ノ萬國郵便聯合端書、同往復端書ヲモチフヘシ
第二條 明治三十三年九月遞信省令第四十二號郵便規則第十八條ノ規定ヲ準用シテ政府發行ノ萬國郵便聯合端書ニ基キ作成セル私製端書ハ萬國郵便聯合端書ト看做ス
(中略)
   附 則
第二十三條 此ノ規則ハ明治三十三年十月一日ヨリ之ヲ施行ス
(下略)

(振り仮名は筆者による)

…ということで、ここにも私製葉書についての規定があったことが判明。

ということはつまり、少なくとも☝こういう絵葉書ならば明治三十三年九月から国内で売り出されていておかしくない、ということになる。蓮の花が盛りの時季の、東京は上野の不忍池しのばずいけ風景。

それはさておき、じつは「外國郵便規則」は「私製葉書製式規則」に先立つ明治三十五年(1902年)に改正されていて、その際条文がだいぶ増えているようだ。

大藏省印刷局『官報』明治三十五年十一月八日第五千八百五號
百二十一+百二十二ページ(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省令第五十二號
明治三十三年九月遞信省令第五十五號外國郵便規則左ノ通改正ス
    明治三十五年十一月八日     遞信大臣 子爵吉川顯正
   外國郵便規則
第一條 萬國郵便條約ニ依ル各種郵便物ナラヒニ價格表記信書及箱物交換約定ニ依ル信書及箱物ハ之ヲ外國郵便物ト總稱シ郵便局所ニ於テ之ヲ取扱フ但シ特ニ之ヲ取扱ハサルコトヲ告示シタル局所ハ此ノ限リニラス
第二條 左記ノ物件ヲ外國郵便禁制品トス
 一 郵便ニ關スル條約、約定及其ノ施行細則ニリ郵便物ト爲スコトヲ許ササル物件
 二 郵便ニ關スル法令ニ據リ郵便物ト爲スコトヲ禁シタル物件
 三 關稅及其ノ他ニ關スル法令ニ據リ輸出入ヲ禁シタル物件
 四 特ニ告示シタル物件
(中略)
第六條 外國ヘ發送スル郵便端書ハ政府發行ノ萬國郵便聯合端書、同往復端書ヲ用フヘシ
第七條 郵便規則第十八條ノ規定ヲ準用シテ政府發行ノ萬國郵便聯合端書ニ基キ作成セル私製端書ハ萬國郵便聯合端書ト看做ス
(中略)
    附 則
第三十三條 此ノ規則ハ明治三十五年十二月一日ヨリ之ヲ施行ス

(振り仮名は筆者による)

とすると、改正前の第一條よりも前に条文が五つ追加されているんだから、「私製葉書製式規則」第九條も「外國郵便規則第七條ニ依リ調製シタル私製端書」になっていないとマズいんじゃないの?

……と思って後ろの巻号をちょっと繰ってみたが、探し方がわるいのかこれを訂正している「正誤」記事は見つけられなかった。ありゃま。

こまかいことはさておき、☝「日本の古本屋」メールマガジン記事に掲げられている絵葉書に見られる郵便局前の大行列を出現させたような、明治三十七八年戦役をきっかけとした大ブームにより日本人がこぞって絵葉書を求めたり蒐集趣味が出現したりするようになるまでは、国内ポストカード市場の大半をインバウンド客向けの「日本土産」や在留者が故国とのやり取りに使う需要が占めていて、「私製葉書製式規則」ができるよりも前、明治三十年代前半の日本製絵葉書のほとんどは「萬國郵便聯合端書」に準じた体裁のものだったのではないだろうか

明治三十五年(1902年)の「遞信省第十五年報摘要」では、私製葉書のことは「許可した」と極くあっさりと触れているだけ。

大藏省印刷局『官報』明治三十五年五月一日第五千六百四十四號
一+七+九ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

○遞信省第十五年報摘要(去月三十日ノ續)
(中略)
  通 信
槪況 通信事業ハ前年度來オホヒニ之カ擴張ヲ試ミ經費ノ許スカギリハ國運ノ伸暢文化ノ發達ニ隨伴センコトヲ期シ同年度ニ於テ發布セラレタル郵便法、鐵道船舶郵便法、郵便替爲法及電信法ハ本年度十月一日ヨリ實施シ之カ附帶ノ諸法規類モ亦漸次之ヲ制定施行シ通信ニ關スル法規ヲ整備シ以テ交通機關ノ運轉ヲシテ益〻敏活ナラシメタリ
通常郵便事業ハ今ヤスウ僻遠ノ地ニ至ルマテ其設備アラサルナキカ如シト雖モ社會ノ發達ハ益〻之カ增設ヲ促シ前年度末ニ比スレハ局所ハ三百五十三箇所ヲ增シテ四千八百十七箇所トリ線路(鐵道及水路ヲ含ム皆同シ)ハ五百十七里ヲ增シテ二千四百三十五里ト爲レリ而シテ又一方ニ於テハ郵便禁制品ノ種類ヲ改正シ特殊取扱及損害賠償ノ制ヲ定メ封緘葉書ヲ發行シ私製葉書ヲ許セリ
(下略)

(振り仮名は筆者による)

それにくらべると、五年後の明治四十年(1907年)に出された「遞信省第二十年報摘要」ではかなり詳しく報告されている。文中の「本年度」とは明治三十八年を指すようだ。

○遞信省第二十年報摘要(一昨二十日ノ續)
   郵便物
(中略)
取扱状況 內地局所ノ取扱 本年度ノ引受郵便物數及其前年度ニ對スル增加ノ狀況ハ左ノ如シ
(中略)
郵便物數ハ本年度ニ於テハ斯ク一割五分ノ好況ヲ呈シ最近十年間ニ於テハ三十三年度ノ一割九分一厘、前年度ノ一割八分八厘ヲ除キテ他ニ之ニ比スヘキモノアラサリキ
總數ニ於テハ此ノ如シト雖モ更ニ種別ニ就キテ觀ルトキハ彼此大ニ其ノオモムキコトニスルモノアリツ書狀(無料取扱ノモノヲ包含セス以下各種通常郵便物數皆之ニ倣フ)ハ一割七分四厘ノ增加ニシテ前年度ノ二割一分七厘ニ比スレハ其程度低カラサルニアラサレトモ是レ全ク前年度ノ增加異常ナリシニ因ルモノニシテ若シ同年度ヲ除クトキハ最近十年間ニ於テハ三十年度及三十三年度ニ於テ稍〻之ニ近キ成績ヲ得タルノミ要スルニ日露交戰ニ際シテ戰地ニ派遣セラレタル軍人軍屬等ニ對シ親戚故舊ヨリノ音信頻繁ナリシハ書狀郵便ヲ好況ナラシメシ主因タリ
次ニ葉書ハ之ヲ官製ト私製トニワカチテ叙述スルヲ便利トス私製葉書ハ三十三年十月一日ヨリ施行セル郵便規則第十八條ニ依リハシメテ之カ發行ヲ認メラレタルモノニシテ同年度ニ於テハ施行後ワヅカニ六箇月間ヲアマスノミナリシニ其郵便物トシテトリアツカハレタルモノ旣ニ千三百四十九万ニナンナントスルノ盛況ヲ見シカ三十四年度ニ於テハ千四百八十三万ニキスシテ前年度ニ比シ割合上非常ノ減退ヲキタシタリコエテ三十五年度ニ於テハ二千八十二万ト爲リ三十六年度ニハ二千百六十五万ト爲リシカ日露交戰以來繪葉書ヲ使用スル者トミニ增加シタルカタメ本省發行ノ戦役紀念繪葉書ト共ニ私製葉書ノ發行亦ハナハサカンニシテ三十七年度ニ於テハ三千百八十二万ニ激增シ本年度ニ於テハ更ニ進ミテ五千三百八万ヲ算シ前年度ニ比シテ實ニ七割二分二厘ノ增加ヲ呈シコト首段ニ揭記スルカ如シ
官製葉書ハ多少私製葉書ノ影響ヲ受ケサルニアラサレトモ亦一面ニ於テ交通思想ノ發達ニ伴ヒ自然各人ノ發信頻度ヲ頻繁ナラシムルカタメ是レ亦年々多少ノ增加ヲ呈セサルナク殊ニ前年度以來ハ戰役紀念繪葉書ノ發行アリ其他書狀ト同一ノ理由ヲ以テ戰地ニ發送セラルヽモノ多カリシカタメ同年度ニ於テ一割三分九厘ヲ增シ本年度ニ於テモ亦一割三分五厘ノ增進ヲ見タリ之ニ私製葉書を加フルトキハ本年度ニ於ケル葉書ノ增加ハ實ニ一割六分七厘ト爲リ最近十年間ニ於テハ三十三年度ノ一割九分五厘ニクノ成績ヲ擧ケタリ
(下略)

☝こんな風に、旧漢字片仮名混じり文語文で句読点も濁点も振られていない文章からデータを読み取るのはなかなか骨が折れるので、私製葉書の認可後六年間の郵便局取り扱い通数のところだけ表にしてみた。

年度(明治)| 年度(西暦)| 通数(万) |前年度比
    33 |   1900 |  1349 |    -
    34 |   1901 |  1483 |   0.548*
    35 |   1902 |  2082 |   1.404
    36 |   1903 |  2165 |   1.040
    37 |   1904 |  3812 |   1.761
    38 |   1905 |  5308 |   1.392
*明治三十三年度は十月〜三月の百八十二日間分のみのため、これを三百六十五日間に換算した年間推定通数により明治三十四年度分の前年度比を算出

こうして数字をならべてみると、日露戦争を挟んで明治三十六年から同三十八年までの間にほぼ倍増、だから差し出された私製葉書の数だけではそんなにものすごぉく増えた、という感じがイマイチ薄いのだが、これに「エハガキを買って集める趣味」の分も上積みされたからこそ「大ブーム」になったのだろう、と想像する。

なお、明治三十八年(1905年)六月三日附け第六千五百七十六號の「遞信省第十八年報摘要」には、どうして「郵便規則」とはまた別にわざわざ「私製葉書製式規則」を設けたのかが説明されている。

大藏省印刷局『官報』明治三十八年六月三日第六千五百七十六號
一二四+一三五+一三六ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

○遞信省第十八年報摘要(去月三十日ノ續)
(中略)
郵便取扱上ノ施設 郵便ニ關スル料金ノ還付ハ郵便規則第八條ニ制限セラレタルヲ以テ郵便物ノ名宛變更又ハ取戻ハ郵便局所ノ過失ニ依リ其目的ヲ達スルコトアタハサリシ場合ト雖モ其取扱手數料金還付ノミチナク又成規ニ依リ差出シタル郵便物中郵便官署ニ於テ書留郵便物、小包郵便物若クハ價格表記郵便物ヲ亡失若クハ毀損シ又ハ郵便ニ依ル取立金ノ亡失シ若クハ其效力ヲウシナハシメタルトキハ損害ヲ賠償シタル場合ニ於テノミ其料金ヲ還付セシモ賠償權ヲ放棄シタル者ニ對シテハ郵便料金ヲ還付スルノ途ナクイヅレモ不備ヲ認メタルヲ以テ三十六年十月十七日ヨリ前者ニ在リテハ其手數料金ノ還付ヲ得セシメ後者ニ在リテハ賠償權ヲ放棄スルモホ其郵便料金ノ還付ヲ請求スルコトヲ得セシメタリ又私製葉書ハ日ヲ追ヒテ世人ノ嗜好ヲ增シ斬新ヲ競ヒ種々ノ意匠ヲコラシ大ニ美的發展ヲ企圖シツヽアリト雖モ之ニ關スル從來ノ規定狹隘嚴格ニ失シ此進運ニ伴ハサルキラヒアルニ因リ同日アラタニ私製葉書製式規則ヲ制定シ以テ社會ノ趨勢ニ適應セシムルト同時ニ規定ノ要件ヲ完備セサル私製葉書ヲ第一種郵便物ト同一ノ取扱ヲ爲セシ結果トシテ料金ノ未納又ハ不足ノ場合ニ在リテモ第一種郵便物トシテノ不納料金ヲ徵收シ來リシヲ改メ第二種郵便物トシテノ不納料金ヲ徵收スルコトヽセリ然ルニ料金印面ヲ汚斑シタル郵便葉書ハ之ト同額ノ郵便切手ヲ貼付シテ郵便葉書タル效力ヲ有セシムルニ因リ貼付切手ニ未納又ハ不足アルトキハ第一種郵便物ニ對スル料金不納額ノ二倍ヲ徵收セサルヘカラス斯クテハ前記私製葉書ノ取扱ト權衡ヲ得サルニ因リ此場合ニ於テモ郵便葉書トシテノ不納額ノ二倍ヲ徵收スルコトヽセリ
(下略)

つまり、美麗斬新なデザインの絵葉書を工夫をこらして作ろう、という世の中の動きが強まってきたにもかかわらず、それまでの規定がやかまし過ぎてその妨げになっているので、これをゆるめてもっと自由にさせるとともに、郵便料金の未納・不足の場合の追徴額も引き下げることで私製葉書の発展を後押ししよう、という意図が遞信省にあったことが読み取れる。

 明治三十三年と明治三十六年とで、私製葉書の「製式」規定がどのように変わったのか、ここで改めて項目ごとにくらべてみることにしよう。

明治三十三年製式→明治三十六年製式(註:メートル法換算は近似値)

【表面】
印刷品質  色の消えないインクで鮮明に→同
要表示1  見本通り上部中央に「郵便はかき」→同
要表示2  看本通り上部左角に縦22.73mm横19.70mmの切手貼付欄
      (内側に注意文)→上部左角に切手貼付欄
任意追加  1官製葉書と同じ左右の注意文→宛名記入の妨げにならない
      2飾り罫           範囲に限り:
      3その他の図や文字は一切不可 1「郵便葉書」を意味する
                     外国文
                     2「萬國郵便聯合」および
                     これを意味する外国文
                     3官製葉書と同じ左右の
                     注意文および切手貼付欄
                     の注意文
                     4発行所・発売店の所在地
                     ・名称
                     5広告文など意味のある
                     文字列を含まない飾り罫

【裏面】
      何らの規定なし→色移りしてほかの郵便物を汚すような着色
              は不可

【用紙】
用紙品質  原料・コシの強さ・抄紙法が官製葉書と同等以上の高品質な
      もの→官製葉書と同等以上の高品質でコシが強く折れ曲がる
      おそれのないもの
用紙色   官製葉書と同じ→白色またはそれに近い色味
透かし絵・ 規定(……というか多分想定そのものが)なし→宛名記入の
浮き出し  妨げにならず折れ曲がりなどのおそれがない限りは可
大きさ   縦138.48〜139.00×横88.48〜90.00m→縦136.36〜142.42
      ×横84.85〜90.91
重さ    切手を貼りつけた状態で1.88〜2.25g→官製葉書または萬國
      郵便聯合葉書と同等程度
厚さ    規定なし→官製葉書または萬國郵便聯合葉書と同等程度

【その他】
      規定なし(外信用私製葉書は外信専用)→外國郵便規則の規定
      によって作られた私製葉書は内国用にも使用可

中には当初想定していなかった問題がしゆつたいして規制が増えている部分もないことはないが、なるほどたしかにかなりいろいろ認められるように変わっている。この「私製葉書製式規則」制定が、絵葉書大流行をもたらす環境をあらかじめ整えていた、とも捉えられる。

英文解説のついた「日本土産」仕様の絵葉書。新橋越しに望む東京の目貫き通り、銀座往来風景。左手に博品館の時計塔が目立っている。

明治四十年、郵便規則改正

明治四十年(1907年)三月二十八日附け第七千百二十號に、「遞信省令第六號」として明治三十三年郵便規則の改正令が掲載された。

大藏省印刷局『官報』明治四十年三月二十八日第七千百二十號
六八一+六八二-ページ(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省令第六號
明治三十三年九月遞信省令第四十二號郵便規則中左ノ通改正シ來四月一日ヨリ之ヲ施行ス
本令施行ノ際從前ノ規定ニ依リ引受ケタル小包郵便物ニシテ價格表記ニアラサルモノハ書留小包郵便物トシテ之カ取扱ヲ爲ス
    明治四十年三月二十八日      遞信大臣 山縣伊三郎
(中略)
第十五條 郵便葉書ハ其ノ表面ニ左ノ事項ニ限リ之ヲ記載スルコトヲ得
 一 差出人及受取人ノ宿所氏名、身分、職業及商標其ノ他ノ稱號等
 二 日付及要用、至急、貴酬等ノ慣用語
 三 郵便繪葉書ノ表面ニ左式ノ如ク下部三分ノ一以內ニ線條ヲカクスルトキハ其ノ線內ニ通信文等
(図)

 郵便葉書ハ原形ノ儘使用シ契約書、委任狀若クハ受領證トサムカタメ收入印紙ヲ裏面ニ貼付スル場合ヲ除クノ外何等ノ物品ト雖モ添附スルヲ得ス
 前二項ノ規定二違反シタル郵便葉書ハ第一種郵便物ト同一ノ取扱ヲ爲ス
(下略)

(振り仮名は筆者による)

この時に「私製葉書製式規則」が同時に改正されて通信欄が設けられたワケではないようだから、この第十五條の三の「線條」というのは飾り罫の一種として扱われているのだろう。

施行日直前の明治四十年三月三十日附け告示として出された、この規則改正の要約もここで紹介しておこう。

大藏省印刷局『官報』明治四十四年三月三十日第七千百二十二號
七八〇+七八一+七八二ページ(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

遞信省告示第二百十四號
來四月一日ヨリ郵便法及郵便規則中改正施行ニ付左記事項ヲ注意スヘシ
    明治四十年三月三十日       遞信大臣 山縣伊三郎
     通常郵便ノ部
(中略)
三 從來郵便葉書ノ表面ハ通信文ノ記載ヲ許サスモシ之ヲ記載シタルトキハ書狀トシテ取扱ヒ來リタル郵便繪葉書ニ限リ其ノ表面ノ三分ノ一以內ニ線條ヲ畫スルトキハ其ノ線內ニ通信文ノ記載ヲ爲シ得ルコトトセリ
(下略)

(振り仮名は筆者による)

云われて改めて気づくのは、このいわゆる「通信欄」は明治四十年郵便規則改正より前にはいっさい認められていなかったワケではなく、ただ通常郵便料金の適用外になるから、信書相当の郵税を支払いさえすれば差し出しても撥ねられない決まりだった、ということだ(その程度で倍額払うなんてばからしいから、実行なさる方はあんまりおられなかったろうけれどもww)。

架蔵の絵葉書から、「線條」の実例をいくつかご覧いただこう。

天橋立風景。これの「郵便葉書」表示は濁点つきの「郵便ハガキ」+五ヶ国語表記。いわゆる「通信欄」の罫線はシンプルな破線だが、真ん中に「MADE IN JAPAN」と入っている。

明石海岸風景。「郵便はかき」は楷書体、そして十三もの諸外国語でも書いてあって盛り沢山。罫線は表罫+「MADE IN JAPAN」、片方の端に発行業者の商標と思われる、「上」×四+「田」を組み合わせたようなマークがついているが、店名も所在地も書かれていないのでどこのかは不明(調べていないだけ、ともいう)。

思いっきり浮き出し(エンボス)加工を施したバラの絵葉書。東京市芝區の鳥居商店製。商標だけでなく、「郵便はかき」一文字づつにも♡の枠をつけたりして可愛さ満点。罫線はシンプルに親子罫。この辺になると、もう大正期のものだろうか。

大正三年(1914年)の開業当時と思しき、見るからに真新しい院線東京驛の建物。空も駅前も広いっっっ! 周囲のジャマモノが何一つなくて、じつに清々しい☆

写真周りに浮き出しの枠がついているのもシャレている。「郵便はかき」は崩し字+変体仮名にデザイン文字のフランス文添え、切手貼付欄も郵便切手のヒンジを模した形+波千鳥の模様。東京圖案印刷社出版部の浪華屋名義(だから澪標印が添えてあるのだろう)。その下の罫線はブル罫。

それほど丹念には調べていないから、あるいは見落としや間違いもあろう。己れで気づいたりご指摘をいただいたりして、追々追加訂正の考え。

その前に、カクテーシンコクをさっさとやっつけてしまわないと……

つづく。

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