別の案件も併行して調べモノをしたり資料探索をしたり、はたまたカクテーシンコク書類どもとたたかったりしているうちに、そうでなくても短い二月がびゅーんと過ぎ去っていってしまった。
十時柳江の図案文字集に関してあらためて調べてみたところ、おもわぬ “発見” があったりして「もうちょい触れる」程度ではとてもおわりそうになくなってきてしまったのだが、せっかく乗りかかった舟だからこの際もうしばらくお付き合いいただきたい。
昭和初期の “ちょっと引っ掛かる” 図案文字集
さて、十時柳江『その儘使へる繪と實用圖案文字』が大阪の弘文社から上梓されて二年半あまり後の昭和四年(1929年)十一月、東京の出版社から小型の図案文字集が刊行された。
荻野光風『誰にも出來る 圖案文字集とその描き方(誰にも出来る 図案文字集とその描き方)』という、函入り布装角背上製本だ。
「東京洋畫研究會(東京洋画研究会)」についてはちょこっと調べてみても情報が拾えなかったのだが、荻野光風は水彩画家 荻野康児としてその名を知られた人物らしい。
奥附ではタイトルが「新らしい圖案文字集と描き方」になっている。発行者の富文館書店 片山春一については後ほど触れる。
標題に「誰にも出來る」と掲げられているとおり、商業図案に限らず日本語文字の図案化についてデザインレヴェルの底上げを目指して編纂されたものらしきことが、☝この序文から読みとれる。
それなりの束幅がある本にもかかわらず、目次は二十ページまでしか載っていない。
内題は「新らしい圖案文字集と其描き方」になっていて、表紙とも奥附ともまた異なる。
格調高くしようとなさったためか、持って回ったちょっとクセのある文章でなんだかわかったよーなわからないよーな……という感じww
要するに、…
新聞紙上に広告を打つにしても、ただ文字だけならべてあっては読者にはなかなか興味を持ってはもらえない
だから、グラフィックデザインでまず注意を惹きつけ、肝腎の宣伝の中身へと引っ張り込む必要がある
ひと目で意味がつかめる六、七文字くらいの短いフレーズをデザイン化された文字で描くことによって、そうした効果が期待できる
視覚に訴えるその効用が認められつつあるからこそ、図案文字がさまざまな場面で用いられ、確固たる地位を占めるようになってきた
それは伝統的な「書」が裡なる精神を視覚化する芸術であるのに対して、文字のヴィジュアル面での魅力により人目を惹きつけ、その意味するところをわからしめる技術なのである
…というようなことがおっしゃりたいのではないかしらん。
☟ここにいう別刷り「練習用紙」というのは、後でご覧に入れるが前ページ☝に「(挿繪參照)」として載せてある描き方見本のと同様の方眼紙だ。
ノンブルが振ってある最終丁 p. 142 ☟の後に、このような方眼紙を両面に刷ったページが五丁ついている。はじめの三ページばかり、ご旧蔵者が描きこんでおられる(右側のひらがな☟はあらかじめ印刷された見本)。
さて、目次に含まれていない部分をご覧いただくとしよう。
一見して、ここからがメインコンテンツであることが見てとれる。ノンブルもここから振り直されているのだが、これの目次は載っていない。
「カタカナ」に引き続いて「ひらかな」。
こんな風に、オリジナルとおもわれる仮名フォントが何種類も載っている。
なかなかわるくないものもあるにはある…
…けれども、しかし「一見して誰にでも快感を與へる樣に工夫」されているはずが、正直なところバランスが全体的にあんまり巧く取れていないように感じられる。
つづく「ALPHABETS」の途中から、なぜかいきなり色刷りではなくなってしまう。
そしてなし崩しに実例集に入っていくのだが、…
…ちょっと待て。☟この「商標図案」、どこかで見なかったか?
……と気がついて、『その儘使へる繪と實用圖案文字』をあらためて引っ張り出してきた。
「そのまんま使っちゃった」図案文字集
やっぱりあったよ〜。
こまかいところがビミョ〜に違うが、これは明らかに十時柳江のお作の描き写しだろう。
……という目でみはじめると、あるわあるわ。
どこかでみたようなのがあるな、とはおもいつつも今まであんまり気にしていなかったのだが、…
…あらためて双方ならべてみるとコピーだらけだ。
それもオリジナルよりも完成度が高いとかならばまだしも、どうもイマイチ見劣りがする。
こーゆー「その儘使」われ方は、十時も流石に想定してはおられなかったのではないかしらん。
ほかにもコピーされていた大正期の図案文字集
ぱらぱら眺めてみるに、どうやら引き写されているのは『その儘使へる繪と實用圖案文字』だけではないようだ。
気になりついでに、大正期に出された作例の載っている図案文字集も何冊か持ってきて対照してみよう。
まずは藤原太一『圖案化せる實用文字』。
ある、ある。仮名書体のうちのいくつかは、この本から採られていた。
☝オリジナルの方もあんまり可読率の高くない仮名フォントだが、模写の方の「ひ」などはまず読めないww
☝裝飾は写していないが、形はほぼ同じ。「ヘ」の右側はうっかり切り込みをお忘れになったらしいw
☝☟藤原がコピーしたカナモジカイ書体のコピー。この独特なデザインは、やはり誰の目も惹くのだろう。
そういえば、余白に添えてある☝この花のカットも p. 85 にあったな(☝八枚前の画像参照)。
☟「明瞭に聽き得る」の「に」の変体仮名は古くさいとおもわれたのか、写されなかったようだ。
次に、姉崎正廣(姉崎正広)『實用圖案文字と意匠(実用図案文字と意匠)』。
この本は近年、青幻社から『実用手描文字』というタイトルで文庫判の覆刻版が出ているので、ご存知の方もあるかとおもう。
版元の文英堂書店 益井俊二は、「大阪圖書出版協會」が「大阪圖書出版業組合」とその名を改めた大正九年(1920年)の九月に同組合への加入を認められていることが、昭和十一年(1936)に刊行された『大阪圖書出版業組合二十年史』の第三編「年次紀要」に出てくる(☟国会図書館利用者IDをお持ちでないとご覧いただけないが、可能な方はどうぞご参照を)。
余談だが、同じ年の七月二十三日附けで松要書店 松浦貞一もひと足先に加入している。とはいえよほどこの同業組合と肌が合わなかったのか、それから半年と経たない翌十年の一月二十日に早くも脱退となっている。
姉崎については、版元からしてもおそらくは大阪で活動なさっていた図案家なのだろうが、覆刻を企画された編集者氏が☟インタヴュー記事で語っておられるとおり全く知られていない。戦前の図案集では「編著者の情報がさっぱり摑めない」というのは実によくある話ではあるのだが……。
だからなかなか覆刊に到らないし、思い切って文化庁の裁定を受けて出そうとすれば手間暇も費用もかさむことになるため、オリジナルのような豪華な装幀にはできなくなってしまう。つくづく残念なことだ。
色箔と空押しとを併用した洒落た外装、外函も蓋のついたしっかりした造り、それに巻頭の鮮やかな色刷りページ、この版元に勢いがあったころの出版なのだろう。
さておき、中身を見くらべてみる。
今度は野澤秀雄(野沢秀雄)『文字ト畫ノ圖案化資料(文字ト画ノ図案化資料)』。
☝先の三冊と異なり、☟これは版元が東京だ。
大東書院 金子幸三郎についてはよくわからない。国会図書館デジタルコレクションで検索してみる
と、大正十五年から翌昭和二年にかけて高品位な本を何冊か出しておられるようだが、昭和四年以降に出てくる全く方向性の異なる出版社は、どうやら同名の別会社らしい。あるいは行き詰まって経営者が替わったのか……。
☝奥附では標題の仮名がひらがな表記だ。
☟「はしがき」の自己紹介から、著者の野澤秀雄は企業お抱えグラフィックデザイナだったことが知れる。
「中央圖案協會」というのは、大正八年(1919年)に催されたその第一回展覧会図録の巻頭言によれば、京都の図案家連が結成した団体だったらしい。野澤のお仕事は地方でも好評を得ていた、ということになろう。
それから一木商店は昭和三年(1928年)の『人事興信錄』第八版によれば、当時知られた東京の酒類問屋だったようだ。
刊行時期からみて、☟ここにいう「他書の如く大家の閲や序を」うんぬん、という件りは、おそらく前年にすでに出ていた藤原太一の『圖案化せる實用文字』が念頭におありだったのだろう。
それから実はもうおひとり、☝☟ここにしかお名前が出て来ないのだが図案文字を担当された五味時雄という人物も関わっておられるようだ。
☝結びに書かれている一節からして、この本は商業図案をそうやすやすとは専門家に外注できない会社や商店が、自力でショウウィンドウディスプレイや広告チラシなどをなんとかできるよう編まれたお手本兼素材集といえる。
「何れも獨創の作品で未だ何處へも使用してゐない」とある一方で、その前には「かなり澤山に各方面の圖案に目を通し硏󠄀究を續けてゐる」「何時か機を見て蒐集したる圖案畵を、一般の廣告圖案界へ參考として供したいと思つて居た」とも書いておられる。
これまでみてきたように、当時の日本図案界、特に商業図案においては勝れた他人様の作品をコピーして自身の作品を作る、いわゆる「二次創作」ばかりか、丸写しさえ当たり前のように行われていたとみられることから、ここにいう「獨創」が果たして今日のわれわれが考える「独創」と全く同じなのかどうかはわからない、ということになろうか。
この図案集の出版を後押しされた中央圖案協會の助言により、野澤ご自身の作品は当初原稿に配置してあった文字を消されたものもあるようだ。
タイトルに「文字ト畫ノ……」と冠されている割には、どちらかといえば文字よりもデザイン画の占める分量が大きくなっているのはそのためなのかもしれない。
点数は少ないが、荻野はこの図案集からも少し描き写しておられるようだ。
五味の手がけられた部分がどこなのかは明示されていないのでわからないが、☝☟このあたりの図案文字ばかりのページはそうなのかも。
……と、ここまでご覧いただいておわかりのように『誰でも出來る圖案文字集とその描き方』は、中身の八割方がヒトサマの図案集からの描き写しオンパレードという、現代の感覚からすればおよそ「アリエナイ」本だった。
しかし、昭和初期にあっては物議を醸すどころか、大いに歓迎されちゃったらしい。
その証拠に、昭和九年(1934年)には富永興文堂から、『初心者の爲に 新しき圖案文字の描き方(初心者の為に 新しき図案文字の描き方)』と標題を改めて再発されている。話のついでにここでご覧いただいておこう。
珍しいことに、だいぶ傷んではいるがオリジナルの硫酸紙がかかっている。外してみると、☟こんな感じ。やはり本体の保存状態がすこぶるよい。
編者は「東京洋畫硏󠄀究會」となっていて、理由はわからないが荻野の名は全くどこにも出てこない。内題は「初心者の爲に 圖案文字の描き方」になっている。
あとは色刷りページの刷り色が多少変わっているくらいで、中身は富文館版とまるっきりおんなじ。
『出版文化人物事典』で弘文館 湯川松次郎の項をみていてたまたま気づいたのだが、発行者の富永龍之介は湯川の義弟にあたるそう。
新星出版社サイトのご創業百周年記念コンテンツをみてみたところ、富永興文堂はたしかに同社の前身のようだ。
ところで「巻末にどうしてわざわざ方眼紙をつけたのだろう」と考えていたのだが、もしかすると当時はセクションペーパーが気軽に手に入る地域ばかりではなかったのかも、と気がついた。
そして、こういう(コンテンツの質はそれほど高くなくてもいーから)気軽に使い倒せる図案集のたぐいは、おそらく全国の学校が必要としていた本にちがいない。教育現場では、今も昔も校内印刷物が大量に作られるからだ。
図版研架蔵の『誰でも出來る圖案文字集とその描き方』ご旧蔵者は、どうやら今の福岡県久留米市にあった旧制中学にお勤めだったようだ。
富文館の豪華図案文字集
さて、富文館版の末尾には、同社の刊行目録がついているのだが、相当旺盛に出版活動を展開しておられたのだな〜、とちょっとびっくりしてしまう。
☝荻野光風の肩書きが「東京洋畫研究會長」となっている本『誰にも出來る洋畫の描き方』がある。これが同社との付き合いのはじまりだったのかも。
このように、実用書中心にざくざく本を作っておられたようだ。そのほとんどが三六判・四六判・ポケット形・コンサイス形とあんまり大きくない判型ばかりなのだが、ひとつだけ四六倍判のものがあったのにお気づきになったろうか。
そう、荻野光風がネタ本になさったもののひとつ、野澤秀雄の図案文字集を富文館でも出しておられたのだ。値段も同社のラインナップの中では図抜けて高い。
現物は、というと富文館お得意の「誰にも出來る」シリーズにはなっておらず、タイトルロゴは元版と同じものが使われている。
オリジナルの大東書院版のみならず姉崎正廣の図案文字集も意識したかのような、かなり力の入った装幀になっている。
☝外函の裏側には、「荻野光風先生著」の「誰にも出來る」シリーズ広告が載せられてはいるけれども。
☝本扉は蔵版の書店名だけ挿し換えてあるが、野澤ご本人の手によるものか全く違和感なく描かれている。
奥附も、別刷りの貼り込みにこそなっていないが、元版の雰囲気を引き継いでいる。富文館書店の「富」の字が「冨」で組んであるのは、本扉に合わせたのだろうか……もしそうだとすれば、かなりの気の遣いようにおもえる。
海原をいく帆船をあしらった、洒落たデザインの見返しや、…
…出版社が替わると割愛されてしまい勝ちな序文もそっくり元のまま。
大東書院版は無光沢な塗工紙だが、富文館書店版はざらっとした手触わりの非塗工紙を使っているので、特に多色刷りページでは風合いにやや違いがあるが、どちらもいい感じ☆
ただし富文館版の方は経年で、対面ページへのインクの移りがやや気になるところがある。
富文館版の本文紙は、大東書院版よりもかなり嵩高だ。
だから十時柳江『その儘使へる繪と實用圖案文字』近代文藝社版のように、両面刷りだったものを片面刷りに仕様変更したため元版に倍する丁数になっているわけでもないにもかかわらず、こんなに束幅に差があるのだった。
この富文館書店については、大正元年(1912年)に東京書籍商組合が出した『東京書籍商組合史及組合員槪歷』に出てくるが、これは先代の片山與三吉についての紹介だ。
片山春一は初代と同郷で、仕事ぶりを認められて養子に入り、大正十二年に跡を嗣がれたことが、昭和十年(1935年)九月に新聞之新聞社が公刊された『全國書籍商總覽』昭和十年版の「東京府 名鑑篇」に載っている…
…のだが、国会図書館の送信サービスでないとみられないから、「片山春一」の項を書き起こしておこう。
ということで、ここに書かれているように代が替わったあとの業績が順風満帆だったことを、『誰にも出來る圖案文字集とその描き方』巻末の出版目録は裏付けるものだろうし、勢いに乗っておられる時だからこそ☝このような豪華な装幀造本の図案集もお出しになれたのだろう。
富文館の「相盛り」図案文字集
実はもう一冊、富文館が昭和五年(1930年)にお出しになった図案文字集がある。
『繪と文字の圖案化資料(絵と文字の図案化資料)』という四六判の、かなり分厚い本だ。
ご旧蔵者がだいぶご愛用だったとみえて、函は破れてバラけ背がなくなっているわ、本体は標題が読み取れないほど背が崩れて表紙は取れちゃっているわ、とズダボロだったが、ちゃんと資料として使える程度に補修した。
これが荻野光風+野澤秀雄の「共編」ということになっている。
☝奥附ではタイトルが「新しい圖案の描き方とその資料」、そして著者は表紙や本扉とは反対に野澤の方が先で、荻野は本名になっている。合資会社になってから移転しているようだが、その際同時に社名から「書店」を外したのだろうか。
で、これの中身だが…
…どうやら野澤の『文字ト畫ノ圖案化資料』と…
…荻野の『誰にも出來る圖案文字集とその描き方』、そしてもう一冊…
…(多分、だが)目録に載っている『誰にも出來る新しい圖案の描き方』を相盛りにしたらしき、別の意味でゴーカな図案資料集なのだ。
このあたり☝☟、荻野光風の『新しい圖案の描き方』から引っ張ってきたんじゃないかな〜、と想像(同書は架蔵していないので未確認)。
どっかで見たよーな一筆描きが載っている……ww☝
でもって、このあたりから野澤のが雑じりだす。
元は多色刷りだったページも、お構いなしにモノクロに……。
で、『圖案文字集とその描き方』も出てきて、あとは取り合わせがめちゃくちゃに。
オマケに☝☟天地逆さまになっているページもあったりして、著者ご本人が「共編」なさったとはとてもおもえない(少なくとも野澤秀雄にお話が行っているとは考えづらい)。
外装からして、タイトルロゴは「の」と「化資料」の四文字を除いて十時の図案文字集の題字コピーにしかみえないし、せっかく添えてあるデザイン画にしてもなぜか外函のは表紙と逆さまになっている。なんだよこれテキトーな仕事だな〜(でも、「化資料」は結構巧く描けているwww)。
しかし、こまかいこと気にしないユーザにしてみれば、当時の代表的な図案家によるグラフィックデザインのお手本が曲がりなりにもマシマシ全部載せになっているハンディな一冊本なのだから、めちゃくちゃコスパ高い好資料☆ という評価になっても不思議はない。なにしろ、三冊買えば六円五十銭のところが、この本ならばたったの二円五十銭で済むのだし。
そして実際よく売れちゃったらしく、古書市場に出ているのを何度かみたことがある。
いやはや、鷹揚とゆーか暢気とゆーか、出しちゃったモン勝ちとゆーか油断も隙もあったもんじゃないとゆーか……現代人の感覚からすれば開いた口が塞がらないが、かつてはこんなトンデモ図案集が絵の専門家の手で作られ、しかもマトモな出版社から出ていた、そしておそらくなんらの疑問も持たれずに人々に受け入れられ、ひろく活用されていた、という「歴史的事実」を知っておくのも大切ではないかとおもう。
次回は十時柳江の「その後」と関係がありそうな図案集を取り上げる予定。