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日本語の図案文字はどこから来たのか 第四回

別の案件も併行して調べモノをしたり資料探索をしたり、はたまたカクテーシンコク書類どもとたたかったりしているうちに、そうでなくても短い二月がびゅーんと過ぎ去っていってしまった。

十時柳江の図案文字集に関してあらためて調べてみたところ、おもわぬ “発見” があったりして「もうちょい触れる」程度ではとてもおわりそうになくなってきてしまったのだが、せっかく乗りかかった舟だからこの際もうしばらくお付き合いいただきたい。

昭和初期の “ちょっと引っ掛かる” 図案文字集

さて、十時柳江その儘使へる繪と實用圖案文字』が大阪の弘文社から上梓されて二年半あまり後の昭和四年(1929年)十一月、東京の出版社から小型の図案文字集が刊行された。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

荻野光風誰にも出來る 圖案文字集とその描き方(誰にも出来る 図案文字集とその描き方)』という、函入り布装角背上製本だ。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

東京洋畫研究會(東京洋画研究会)」についてはちょこっと調べてみても情報が拾えなかったのだが、荻野光風は水彩画家 荻野康児としてその名を知られた人物らしい。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

奥附ではタイトルが「新らしい圖案文字集と描き方」になっている。発行者の富文館書店 片山春一については後ほど触れる。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)



 私達わたくしたちが美を喜び、醜を嫌ふことは人間共有の本能であつて、これはどんなかいじんでも、小兒でも、動物でも持つてゐるものである。これは意匠いしやうおいても當然とうぜん適應てきおうする言葉であつて、たれしも、みにくい、みづらい、字には目をくれやうともしない。美と實用とはほどきよがある樣に考へられるが、しかしうつくしいといふ事は必ずしも實用じつようと相反したものではない。美と實用じつようとはたがひたすつてゐなければならぬ性質せいしつのものである。故に、美を尊重そんてうして實用を妨害ばうがい(こゝでは讀みにくい)したならば、實用無視の誹りをけねばなるまい、それは目的もくてきと周圍の事情によつて考慮かうりよしなければならない問題もんだいである。
 ようは澤山のを持ち、その藝術化げいじゆつくわと、實用化には未だ大きならいを有してゐる。即ち羅馬文字においても意思表示にもちゐられる字體以外に意匠いしようされたる字體が幾百と知れず存在そんざいし、に於てもだい文字が寧ろ現代のかんの型式よりもはるかに藝術的又能率的げいじゆつてきまたのうりつてきであるのに私達は反省はんせいさせられる。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

 これからの私達わたくしたちの文字にたいする必然的ひつぜんてき慾望よくばうはその裝飾化さうしよくくわ意匠化であるといふ事をわすれてはいけない。印刷物いんさつぶつ又は廣告畫こうこくぐわに於ても裝飾文字のたすけを借りなければならないこと勿論もちろんの事である。
 外國ぐわいこくに比して日本の漢字及び裝飾圖案化そうしよくづあんくわの研究は實に今日のきうである。故に諸君は彼のろうに見る如きうつくしい裝飾化そうしよくくわを日本文字に於てもられるやうに研究努力してしい。この小著がその研究資料けんきゆうしれうの一端にでもなれば編者へんしや幸甚こうじんとするところである。
   一九二九年六月
                 著者識

標題に「誰にも出來る」と掲げられているとおり、商業図案に限らず日本語文字の図案化についてデザインレヴェルの底上げを目指して編纂されたものらしきことが、☝この序文から読みとれる。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

それなりの束幅がある本にもかかわらず、目次は二十ページまでしか載っていない。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

内題は「新らしい圖案文字集と其描き方」になっていて、表紙とも奥附ともまた異なる。

  圖案文字の必要
 あんと云ふのは模樣的に形付かたちづけられた文字のことである。
 人間の生活狀態が複雜ふくざつになればなる程、今迄いままでさうだにもしなかつた事が實用化じつようくわされて來る。文字もまたこの實用化が非常に急速的きゆうそくてき擴張かくちやうされつゝあるものゝの一つである。
 文字の建築けんちく應用おうようする時、壯麗にして正しきせんを以て構成こうせいされた文字はその建築物の偉觀ゐくわんを一そうふかめるものである。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

 ひとにとつては文字を讀むといふ事は一つのごとの樣なものである。どんな廣告こうこくにせよ、廣告でさへあればあたかもニユースペーパーの三面記事が萬人に興味きようみふかまれる如く多くの人がすゝんで讀んでれたならば大變たいへんがふのよい。廣告主にとつては結構な事であるが、そう注文ちうもんとほりにはゆかないもので、ひとは三面記事を讀むやうに熱心に廣告をんではくれない。何かしらほど興味きようみかんじたあいの外、讀まふとはしないものである。これは自分に何の關係くわんけいも興味も湧かないといふ處から讀むといふからけるためなのである。人間にんげんといふものは餘程退屈で困る場合の外、絕対ぜつたい興味きようみのない仕事にはをつけ樣としない。では何故に三めんさかんに讀まれ同面に同樣に印刷されてゐる廣告こうこくが讀まれ樣としないか、それはその廣告こうこくに何の興味もないからである。つまりその廣告こうこくがまづいからである。
 「廣告なんかんだつてなんにもならない。」と思はれるが爲にかへりみられないのである。
 そこで、くどくいろんなこときたてるよりも一みて何の廣告だと解る樣に、またんでもたいしてのかゝらないみじかいものにしようといふ傾向になつてた。どうしても短かく書けない廣告はせめて見出しだけでも人の注意を惹くものにし、内容に好奇心をいだかせやうつとめるやうになつて來てゐる。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

 しかししに極めてひとこゝろくように注意句を使ようしてもこれを讀まない人にはわからない。で書かれる以上、極く短い句、といつても六、七ないのものは少い、又六、七字位のものでないとただけで、まずともひとちうとらへ、內容を讀まふと云ふを起させるに充分じゆうぶんな好しんそゝるだけの力が伴はないものである。
 そこが讀ませる廣告こうこくのつらいところである。だからほど使ようする必要ひつえうな文字をうまくあんくわして人のちうやうにしなければならない。さて以上いじやうで廣告に於て文字がに重要な役目をするかお解りになつたことであらう、からすこし、文字といふものについて述べてみたいとおもふ。
 しよ(即ち文字)はゆびの運動による精神の表現であつてかくうつたへる一個の獨立どくりつした藝術である事はまでもない。
 私達わたくしたちが日々の新聞紙上に見る澤山たくさんの廣告の文字、又はウシンドウバツクのあん、或は店頭に揭げられたる看板類かんばんるゐ!各商店の包裝紙各種ポスター類にいたる迄、その程度の差こそあれ、すべて皆あんくわされたる形式をもつてゐないものはかいつてもよい程である。だからその使ようされてゐる範圍も殆どげんといつてもよい。それが原因げんいんして
 現代げんだいの樣に意匠化され、あんといふ一個の獨立した立派なをかち得る迄に至つたのである。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

を圖案する事——一つの直線ちよくせんと他の曲線の交錯、又は大小だいせう各種かくしゆの直線のみのがくてきな交はり、或ひは一てんくわくはい、如何によつてそのかたちうへに表現されて來るうつくしい調和、それ等を研究けんきゆうするのは非常に興味深く、又むづかしいものである。
 優婉なる曲線きよくせんわく、更にそのせんじやうに奏でられる餘韻、又は力強ちからつよき太き線の印象的魅力——それは凡て圖案する人によつて如何樣にでも變化へんくわるものである。
……

格調高くしようとなさったためか、持って回ったちょっとクセのある文章でなんだかわかったよーなわからないよーな……という感じww

要するに、…

  • 新聞紙上に広告を打つにしても、ただ文字だけならべてあっては読者にはなかなか興味を持ってはもらえない

  • だから、グラフィックデザインでまず注意を惹きつけ、肝腎の宣伝の中身へと引っ張り込む必要がある

  • ひと目で意味がつかめる六、七文字くらいの短いフレーズをデザイン化された文字で描くことによって、そうした効果が期待できる

  • 視覚に訴えるその効用が認められつつあるからこそ、図案文字がさまざまな場面で用いられ、確固たる地位を占めるようになってきた

  • それは伝統的な「書」が裡なる精神を視覚化する芸術アートであるのに対して、文字のヴィジュアル面での魅力により人目を惹きつけ、その意味するところをわからしめる技術アートなのである

…というようなことがおっしゃりたいのではないかしらん。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

☟ここにいう別刷り「練習用紙」というのは、後でご覧に入れるが前ページ☝に「(挿繪參照)」として載せてある描き方見本のと同様の方眼紙だ。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

……
 漢字の形態けいたい構成こうせいする爲に結體法けつたいほふと云ふ方法がある。そのほふは先づ一定の輪廓りんかく即ち矩形、圓形正方形せいはうけいその他、或るあたへられたる輪廓內にその線及びてんを均等にはいする方法である。(挿繪參照)かくのごとくすれば文字はかならうつくしくえるものであるが、その他に文字を構成こうせいする線及びてんの内には、しゆとなりじうとなる部分も自ら備はるものであるから、その順序じゆんじよを誤らなくすることが肝心である。(練習用紙を別刷べつずりにしてろくしていたからそれによつて試みられたい。)つそのせんてんには運動うんどう表現へうげんのあるのを必要とする。運動うんどうあればこそ、そこにちからがあり、初めて文字に活氣が橫溢し人の心をとらへる事が出來るのであるから。これ等の方則はうそくは現代の圖案文字、活字くわつじ文字に流用されるものである。
……

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

……
 圖案文字を意匠するにもつとちうして工夫しなければならぬ事は、直線曲線のあつかかた如何いかんである あんおいて一本の線一個の點が如何に全體ぜんたい巧果かうくわに影響をきたすかは非常ひじやうなものである。此處に留意し、一本の線一てん勿論もちろんの事、些細の線の凹凸、かへしに至る迄充分に注意、考慮こうりよして意匠いしやうされたいものである。
 文字の重要な目的もくてきは讀み易く、かいし易く、どうに、認識の混亂をふせぐ事にある。故に文字の形を考案こうあんするに當つてすらすらと讀み易く、意匠する事と、しんがんを滿足せしめる樣に形をうつくしく、且珍らしく書く事との二つの條件じやうけん肝要かんえうである。
 やすくする方法のうちには文字に特長があればそれをどこ迄も發展はつてん助長せしめ、他のものと混同して讀みづらくなる樣なものはるだけ省略せうりやくする樣に工夫する事である。だからかんやう極端きよくたんに劃の複雜ふくざつなものはこの省略法をもちゐて讀み易い形にした方がよい。その方法ほうはふはなるべく略字を採用する事である。または一見して誰にでも快感くわいかんあたへる樣にふうしなければならない。しかし、めづらしくうつくしくするといふことばかりを念頭において實用にかないものを書かないやうに。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

美しいと云ふことはむやみに裝飾的さうしよくてきであるとか複雜であるとかふのではなく、却つて簡單かんたんであつてそのかかひ知れぬ、品格ひんかくがあるとことであるから。(引用者註:以上、ルビ含め原文ママ ただし縦書き用大返し記号は仮名に置き換えた)

ノンブルが振ってある最終丁 p. 142 ☟の後に、このような方眼紙を両面に刷ったページが五丁ついている。はじめの三ページばかり、ご旧蔵者が描きこんでおられる(右側のひらがな☟はあらかじめ印刷された見本)。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

さて、目次に含まれていない部分をご覧いただくとしよう。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

一見して、ここからがメインコンテンツであることが見てとれる。ノンブルもここから振り直されているのだが、これの目次は載っていない。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

「カタカナ」に引き続いて「ひらかな」。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

こんな風に、オリジナルとおもわれる仮名フォントが何種類も載っている。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

なかなかわるくないものもあるにはある…

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

…けれども、しかし「一見して誰にでも快感を與へる樣に工夫」されているはずが、正直なところバランスが全体的にあんまり巧く取れていないように感じられる。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

つづく「ALPHABETS」の途中から、なぜかいきなり色刷りではなくなってしまう。

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

そしてなし崩しに実例集に入っていくのだが、…

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

…ちょっと待て。☟この「商標図案」、どこかで見なかったか?

荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

……と気がついて、『その儘使へる繪と實用圖案文字』をあらためて引っ張り出してきた。

左:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

「そのまんま使っちゃった」図案文字集

やっぱりあったよ〜。

上:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
下:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

こまかいところがビミョ〜に違うが、これは明らかに十時柳江のお作の描き写しだろう。

左:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

……という目でみはじめると、あるわあるわ。

左:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

どこかでみたようなのがあるな、とはおもいつつも今まであんまり気にしていなかったのだが、…

左:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
左:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)

…あらためて双方ならべてみるとコピーだらけだ。

左:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
上:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
下:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

それもオリジナルよりも完成度が高いとかならばまだしも、どうもイマイチ見劣りがする。

上:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
下:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
上:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字』(昭和二年 弘文社)
下:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

こーゆー「その儘使」われ方は、十時も流石に想定してはおられなかったのではないかしらん。

ほかにもコピーされていた大正期の図案文字集

ぱらぱら眺めてみるに、どうやら引き写されているのはその儘使へる繪と實用圖案文字だけではないようだ。

気になりついでに、大正期に出された作例の載っている図案文字集も何冊か持ってきて対照してみよう。

まずは藤原太一圖案化せる實用文字』。

藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)

ある、ある。仮名書体のうちのいくつかは、この本から採られていた。

左:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

☝オリジナルの方もあんまり可読率の高くない仮名フォントだが、模写の方の「ひ」などはまず読めないww

左上:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
右下:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

☝裝飾は写していないが、形はほぼ同じ。「ヘ」の右側はうっかり切り込みをお忘れになったらしいw

上:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
下:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

☝☟藤原がコピーしたカナモジカイ書体のコピー。この独特なデザインは、やはり誰の目も惹くのだろう。

左:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

そういえば、余白に添えてある☝この花のカットも p. 85 にあったな(☝八枚前の画像参照)。

右上:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
左下:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
左上:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
右下:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
左:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
左:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

☟「明瞭に聽き得る」の「に」の変体仮名は古くさいとおもわれたのか、写されなかったようだ。

左:藤原太一+杉浦非水『図案化せる実用文字』(大正十四年 大鐙閣)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

次に、姉崎正廣(姉崎正広)『實用圖案文字と意匠(実用図案文字と意匠)』。

姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)

この本は近年、青幻社から『実用手描文字』というタイトルで文庫判の覆刻版が出ているので、ご存知の方もあるかとおもう。

姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)

版元の文英堂書店 益井俊二は、「大阪圖書出版協會」が「大阪圖書出版業組合」とその名を改めた大正九年(1920年)の九月に同組合への加入を認められていることが、昭和十一年(1936)に刊行された『大阪圖書出版業組合二十年史』の第三編「年次紀要」に出てくる(☟国会図書館利用者IDをお持ちでないとご覧いただけないが、可能な方はどうぞご参照を)。

大正九年
……
四月十日 臨時會を開き、石塚猪男藏、佃要三郎、柏原眞三郎の建議にかかる。本會の組織變更の件は滿場一致を以て可決確定し、大阪圖書出版業組合と改め直ちに規約の改正を付議し、改正規約の起草は委員付託となせり。
……
九月十日 左の加入を承認す
  三精堂 小西豬之助 東區久太郎町四丁目一五
  文英堂 益井 俊二 南區鹽町通四丁目一八
  玉文堂 三村直治郎 南區安堂寺橋通三丁目四八
……

余談だが、同じ年の七月二十三日附けで松要書店 松浦貞一もひと足先に加入している。とはいえよほどこの同業組合と肌が合わなかったのか、それから半年と経たない翌十年の一月二十日に早くも脱退となっている。

姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)

姉崎については、版元からしてもおそらくは大阪で活動なさっていた図案家なのだろうが、覆刻を企画された編集者氏が☟インタヴュー記事で語っておられるとおり全く知られていない。戦前の図案集では「編著者の情報がさっぱり摑めない」というのは実によくある話ではあるのだが……。

だからなかなか覆刊に到らないし、思い切って文化庁の裁定を受けて出そうとすれば手間暇も費用もかさむことになるため、オリジナルのような豪華な装幀にはできなくなってしまう。つくづく残念なことだ。

姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)

色箔と空押しとを併用した洒落た外装、外函も蓋のついたしっかりした造り、それに巻頭の鮮やかな色刷りページ、この版元に勢いがあったころの出版なのだろう。

姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)

さておき、中身を見くらべてみる。

左:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
左:荻野光風『誰にも出來る圖案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
左:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
左:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
左:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
左:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
左:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
左:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
左:姉崎正広『実用図案文字と意匠』(大正十五年 文英堂書店)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

今度は野澤秀雄(野沢秀雄)『文字ト畫ノ圖案化資料(文字ト画ノ図案化資料)』。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

☝先の三冊と異なり、☟これは版元が東京だ。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

大東書院 金子幸三郎についてはよくわからない。国会図書館デジタルコレクションで検索してみる

と、大正十五年から翌昭和二年にかけて高品位な本を何冊か出しておられるようだが、昭和四年以降に出てくる全く方向性の異なる出版社は、どうやら同名の別会社らしい。あるいは行き詰まって経営者が替わったのか……。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

☝奥附では標題の仮名がひらがな表記だ。

☟「はしがき」の自己紹介から、著者の野澤秀雄企業お抱えグラフィックデザイナだったことが知れる。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

  はしがき

 私は永年東京酒類問屋一木商店廣告部に囑託として居る關係上、かなり澤山に各方面の圖案に目を通し硏󠄀究を續けてゐる、時には中々立派な作品も見受けられるが、殊に大震後大小の商店が之れ等廣告圖案畫の必要を認め、競つてその應用化に苦心して居る事は事實である。
 私は常に、素人にでも描き得る廣告圖案の參考に代る可き書の未だ公にされて居らぬ事を甚だ遺憾に思ひ、何時か機を見て蒐集したる圖案畵を、一般の廣告圖案界へ參考として供したいと思つて居た。偶々中央圖案協會の方々の薦るがまゝに意を決し、斯くの如く出版の運びに至つたものである

中央圖案協會」というのは、大正八年(1919年)に催されたその第一回展覧会図録の巻頭言によれば、京都の図案家連が結成した団体だったらしい。野澤のお仕事は地方でも好評を得ていた、ということになろう。

それから一木商店昭和三年(1928年)の『人事興信錄』第八版によれば、当時知られた東京の酒類問屋だったようだ。

刊行時期からみて、☟ここにいう「他書の如く大家の閲や序を」うんぬん、というくだりは、おそらく前年にすでに出ていた藤原太一の『圖案化せる實用文字』が念頭におありだったのだろう。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

 特殊の商店においては、文案圖案家を招聘して居る、しかし之等の人を招くと云ふ事は經濟上においても並大抵の事ではなく又一寸した物を圖案家へ走ると云ふ事も中々厄介なものである、其際簡單に作り得られさうな又參考となるべきものを數ある中から選擇して推考して見た。
 勿論、本書はこれで萬全を期して居るとは思つて居ない、他書の如く大家の閲や序を乞はくとも唯本書の眞價を認めて呉れる識者があれば滿足である、猶幾分なりとこれを圖案廣告に應用されるならば編者としては望外の喜びである。

それから実はもうおひとり、☝☟ここにしかお名前が出て来ないのだが図案文字を担当された五味時雄という人物も関わっておられるようだ。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

 本書中、文字以外のものは何れも獨創の作品で未だ何處へも使用してゐない、又文字の部は五味時雄紙の手を殆ど煩した、忙しい中を本書の爲に好意を寄せられたことを深く感謝してゐる。
 本書の原稿としては最初に圖案畵に文字を配せしものを作成せし處、應用される圖案の範圍は廣い、限られたる文字を配すことは應用される一般の自由を束縛するものである、と云ふ中央圖案協會の注言に基き、考慮を重ねたる上斯く圖案畵には文字を配さなかつた、ウインドなりチラシなりに應用される向は隨意に文字を配されて廣く使用されんことを希ふ次第である。

         郊外の寓居にて
              著者識

☝結びに書かれている一節からして、この本は商業図案をそうやすやすとは専門家に外注できない会社や商店が、自力でショウウィンドウディスプレイや広告チラシなどをなんとかできるよう編まれたお手本兼素材集といえる。

「何れも獨創の作品で未だ何處へも使用してゐない」とある一方で、その前には「かなり澤山に各方面の圖案に目を通し硏󠄀究を續けてゐる」「何時か機を見て蒐集したる圖案畵を、一般の廣告圖案界へ參考として供したいと思つて居た」とも書いておられる。

これまでみてきたように、当時の日本図案界、特に商業図案においては勝れた他人様の作品をコピーして自身の作品を作る、いわゆる「二次創作」ばかりか、丸写しさえ当たり前のように行われていたとみられることから、ここにいう「獨創」が果たして今日のわれわれが考える「独創」と全く同じなのかどうかはわからない、ということになろうか。

この図案集の出版を後押しされた中央圖案協會の助言により、野澤ご自身の作品は当初原稿に配置してあった文字を消されたものもあるようだ。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

タイトルに「文字ト畫ノ……」と冠されている割には、どちらかといえば文字よりもデザイン画の占める分量が大きくなっているのはそのためなのかもしれない。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

点数は少ないが、荻野はこの図案集からも少し描き写しておられるようだ。

左:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
右:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
左:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

五味の手がけられた部分がどこなのかは明示されていないのでわからないが、☝☟このあたりの図案文字ばかりのページはそうなのかも。

左:荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
右:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

……と、ここまでご覧いただいておわかりのように『誰でも出來る圖案文字集とその描き方』は、中身の八割方がヒトサマの図案集からの描き写しオンパレードという、現代の感覚からすればおよそ「アリエナイ」本だった。

しかし、昭和初期にあっては物議を醸すどころか、大いに歓迎されちゃったらしい

その証拠に、昭和九年(1934年)には富永興文堂から、『初心者の爲に 新しき圖案文字の描き方(初心者の為に 新しき図案文字の描き方)』と標題を改めて再発されている。話のついでにここでご覧いただいておこう。

東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)
東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)

珍しいことに、だいぶ傷んではいるがオリジナルの硫酸紙がかかっている。外してみると、☟こんな感じ。やはり本体の保存状態がすこぶるよい。

東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)
東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)
東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)

編者は「東京洋畫硏󠄀究會」となっていて、理由はわからないが荻野の名は全くどこにも出てこない。内題は「初心者の爲に 圖案文字の描き方」になっている。

東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)

あとは色刷りページの刷り色が多少変わっているくらいで、中身は富文館版とまるっきりおんなじ。

東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)
東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)
東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)

出版文化人物事典』で弘文館 湯川松次郎の項をみていてたまたま気づいたのだが、発行者の富永龍之介湯川の義弟にあたるそう。

稲岡勝+日外アソシエーツ『出版文化人物事典——江戸から近現代出版人1600人』(2013年 日外アソシエーツ

新星出版社サイトのご創業百周年記念コンテンツをみてみたところ、富永興文堂はたしかに同社の前身のようだ。

ところで「巻末にどうしてわざわざ方眼紙をつけたのだろう」と考えていたのだが、もしかすると当時はセクションペーパーが気軽に手に入る地域ばかりではなかったのかも、と気がついた。

上:荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
下:東京洋画研究会『初心者の為に 新しき図案文字の描き方』(昭和九年 富永興文堂)

そして、こういう(コンテンツの質はそれほど高くなくてもいーから)気軽に使い倒せる図案集のたぐいは、おそらく全国の学校が必要としていた本にちがいない。教育現場では、今も昔も校内印刷物が大量に作られるからだ。

荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

図版研架蔵の『誰でも出來る圖案文字集とその描き方』ご旧蔵者は、どうやら今の福岡県久留米市にあった旧制中学にお勤めだったようだ。

富文館の豪華図案文字集

さて、富文館版の末尾には、同社の刊行目録がついているのだが、相当旺盛に出版活動を展開しておられたのだな〜、とちょっとびっくりしてしまう。

荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

荻野光風の肩書きが「東京洋畫研究會長」となっている本『誰にも出來る洋畫の描き方』がある。これが同社との付き合いのはじまりだったのかも。

荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)
荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

このように、実用書中心にざくざく本を作っておられたようだ。そのほとんどが三六判・四六判・ポケット形・コンサイス形とあんまり大きくない判型ばかりなのだが、ひとつだけ四六倍判のものがあったのにお気づきになったろうか。

荻野光風『誰にも出来る図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)

そう、荻野光風がネタ本になさったもののひとつ、野澤秀雄の図案文字集を富文館でも出しておられたのだ。値段も同社のラインナップの中では図抜けて高い。

現物は、というと富文館お得意の「誰にも出來る」シリーズにはなっておらず、タイトルロゴは元版と同じものが使われている。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

オリジナルの大東書院版のみならず姉崎正廣の図案文字集も意識したかのような、かなりリキの入った装幀になっている。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

☝外函の裏側には、「荻野光風先生著」の「誰にも出來る」シリーズ広告が載せられてはいるけれども。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

☝本扉は蔵版の書店名だけ挿し換えてあるが、野澤ご本人の手によるものか全く違和感なく描かれている。

野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

奥附も、別刷りの貼り込みにこそなっていないが、元版の雰囲気を引き継いでいる。富文館書店の「」の字が「」で組んであるのは、本扉に合わせたのだろうか……もしそうだとすれば、かなりの気の遣いようにおもえる。

上:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
下:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

海原をいく帆船をあしらった、洒落たデザインの見返しや、…

左:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
右:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

…出版社が替わると割愛されてしまい勝ちな序文もそっくり元のまま。

左:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
右:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

大東書院版は無光沢マツトな塗工紙だが、富文館書店版はざらっとした手触わりの非塗工紙を使っているので、特に多色刷りページでは風合いにやや違いがあるが、どちらもいい感じ☆

上:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
下:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

ただし富文館版の方は経年で、対面ページへのインクの移りがやや気になるところがある。

上:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
下:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)
上:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
下:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

富文館版の本文紙は、大東書院版よりもかなり嵩高だ。

上:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)
下:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)

だから十時柳江その儘使へる繪と實用圖案文字近代文藝社版のように、両面刷りだったものを片面刷りに仕様変更したため元版に倍する丁数になっているわけでもないにもかかわらず、こんなに束幅に差があるのだった。

左:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(大正十五年 大東書院)
右:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)

この富文館書店については、大正元年(1912年)に東京書籍商組合が出した『東京書籍商組合史及組合員槪歷』に出てくるが、これは先代の片山與三吉についての紹介だ。

片山春一は初代と同郷で、仕事ぶりを認められて養子に入り、大正十二年に跡を嗣がれたことが、昭和十年(1935年)九月に新聞之新聞社が公刊された『全國書籍商總覽』昭和十年版の「東京府 名鑑篇」に載っている…

…のだが、国会図書館の送信サービスでないとみられないから、「片山春一」の項を書き起こしておこう。

富文館
 片山春一

【住】神田區鍛冶町一丁目六【電】神田三三八〇【振】東京二四七九二
氏は明治二十八年京都府亀岡町に生る。志を立てゝ十六歲の時上京、富田文陽堂に入りて二十七歲まで十二年間の久しきに亘り精勤、資性實直にして忍耐強く、加ふるに商才に長けたるを初代店主片山氏に見込まれ、同店に養嗣子として迎へらる、而して大震災後業務一切を引受け先代に代りて經營の衝に當る、初代與三郎氏は現主と同じく明治十五年九月十五日京都府南桑田郡亀岡町の舊松平藩士の家に生る、姓は富田なりしも幼にして片山家の養子となり農を業とせしが、同三十三年十月出京し、其後富文館と號して出版に着手す、されど未だ店舗を有するに至らず、明治四十三年九月獨立し、神田區千代田町一三に於て書籍仲介業を始め、業容大となれるにより四十五年三月現在地に移轉し、爾來出版及び書籍仲介を倂營して遂に今日の確固たる業礎を築き、現主も亦銳意業務の隆昌に努め、始め合資會社たりしを昭和六年株式會社に組織を變更し、その取締役に就任、社業の圓滑なる進展を期しつゝあり。

ということで、ここに書かれているように代が替わったあとの業績が順風満帆だったことを、『誰にも出來る圖案文字集とその描き方』巻末の出版目録は裏付けるものだろうし、勢いに乗っておられる時だからこそ☝このような豪華な装幀造本の図案集もお出しになれたのだろう。

富文館の「相盛り」図案文字集

実はもう一冊、富文館昭和五年(1930年)にお出しになった図案文字集がある。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

繪と文字の圖案化資料(絵と文字の図案化資料)』という四六判の、かなり分厚い本だ。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

ご旧蔵者がだいぶご愛用だったとみえて、函は破れてバラけ背がなくなっているわ、本体は標題が読み取れないほど背が崩れて表紙は取れちゃっているわ、とズダボロだったが、ちゃんと資料として使える程度に補修した。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

これが荻野光風野澤秀雄の「共編」ということになっている。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

☝奥附ではタイトルが「新しい圖案の描き方とその資料」、そして著者は表紙や本扉とは反対に野澤の方が先で、荻野は本名になっている。合資会社になってから移転しているようだが、その際同時に社名から「書店」を外したのだろうか。

で、これの中身だが…

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

…どうやら野澤の『文字ト畫ノ圖案化資料』と…

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

荻野の『誰にも出來る圖案文字集とその描き方』、そしてもう一冊…

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

…(多分、だが)目録に載っている『誰にも出來る新しい圖案の描き方』をあわせりにしたらしき、別の意味でゴーカな図案資料集なのだ。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

このあたり☝☟、荻野光風の『新しい圖案の描き方』から引っ張ってきたんじゃないかな〜、と想像(同書は架蔵していないので未確認)。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

どっかで見たよーな一筆描きが載っている……ww☝

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

でもって、このあたりから野澤のが雑じりだす。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

元は多色刷りだったページも、お構いなしにモノクロに……。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

で、『圖案文字集とその描き方』も出てきて、あとは取り合わせがめちゃくちゃに。

野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

上:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)
下:野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

オマケに☝☟天地逆さまになっているページもあったりして、著者ご本人が「共編」なさったとはとてもおもえない(少なくとも野澤秀雄にお話が行っているとは考えづらい)。

右上:野沢秀雄『文字ト画ノ図案化資料』(昭和四年 冨文館書店)
左下:野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)

外装からして、タイトルロゴは「の」と「化資料」の四文字を除いて十時の図案文字集の題字コピーにしかみえないし、せっかく添えてあるデザイン画にしてもなぜか外函のは表紙と逆さまになっている。なんだよこれテキトーな仕事だな〜(でも、「化資料」は結構巧く描けているwww)。

上:野沢秀雄+荻野光風(健児)『絵と文字の図案化資料』(昭和五年 富文館)
下:十時柳江『その侭使へる絵と実用図案文字(昭和二年 弘文社)

しかし、こまかいこと気にしないユーザにしてみれば、当時の代表的な図案家によるグラフィックデザインのお手本が曲がりなりにもマシマシ全部載せになっているハンディな一冊本なのだから、めちゃくちゃコスパ高い好資料☆ という評価になっても不思議はない。なにしろ、三冊買えば六円五十銭のところが、この本ならばたったの二円五十銭で済むのだし。

そして実際よく売れちゃったらしく、古書市場に出ているのを何度かみたことがある。

いやはや、鷹揚とゆーか暢気とゆーか、出しちゃったモン勝ちとゆーか油断も隙もあったもんじゃないとゆーか……現代人の感覚からすれば開いた口が塞がらないが、かつてはこんなトンデモ図案集が絵の専門家の手で作られ、しかもマトモな出版社から出ていた、そしておそらくなんらの疑問も持たれずに人々に受け入れられ、ひろく活用されていた、という「歴史的事実」を知っておくのも大切ではないかとおもう。

次回は十時柳江の「その後」と関係がありそうな図案集を取り上げる予定。


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