ニチカ
二値化したような世界を世間は求めたがる。
世間は灰色なのに、他人を白と黒にしたがる。
白と黒しか無かったら、自分の居場所が無くなるのに。
白と黒は陰陽太極図みたいなもので1つの輪になっている。正義と悪があるなら、正義の中に悪があって、悪の中に正義がある。そこは繋がっている世界だと思う。
黒に何色を垂らしても色は黒いまま。波立つ事のない感情と同じ。けど、白に勝手な色付けして黒にしようとしない方が良い。あなたが灰色はおろか、灰になるからだ。
そういえば最近、BARによく行く。
男性、女性問わず、何か抱えていたりする。
パブのような雰囲気からか、明るく、色んな人と話す。人間模様を見るとまではいかずだが、時折たまたま来た人と話していると、言いようのない気持ちになる。
最近は、感受性をどこかに忘れてしまっていた気がしていて、誰かの辛さに昔ほど共感する事は減っていたと思っていたけれど。気丈に振る舞うような人も、振る舞うからこそ傷ついていて。
みんな笑って、胸の内で泣いて。
そんな痛みに無性に悲しくなる。
そうゆう人を、ずっと励まして、たまには共感から激昂して。その人の記憶を想像して涙ぐんで。
人はどこかで誰かが自死すれば「どうして相談してくれなかった」と悔やむ。けれど、都会の忙しない中で、ハムスターの車輪で走り回るように幾ら稼いで人生設計が〜と生きる中においては、人間らしい生き方は煙のように薄く消えて、誰かを気にかける余裕なんて無くなる。
都会のそんな生き方が、先進的とされているような考えが嫌で。零れ落ちた人の心が、手のひらから砂のように流れていく。それが仕方ないんだと。仕方ないとか考える余裕すら無い。
人生の計画は途中で頓挫もするし、変更もする。コロナを迎えて世界が変わった時、写真は廃業だと真剣に考えた。だからフレキシブルに生き、人と人との関わりに重きを置いた方が長い目で見て有益だと思う。
震災があり、コロナ禍があり、その時だけは人との関わり合いの大切さを親身に感じた人達も、数年も過ぎると結局同じ資本主義思考に戻っていく。常にミクロで物事を見ていて、マクロで、太極で物を見ないのだから、何回でも同じ手法で騙せるのだと思う。
思い通りにならないという考えは計画性の無さでもあるかもしれないけれど。おそらくまた思い通りにならない出来事が来る。
白や黒だけの単純な世界ではなくて、グレーのグラデーションが夜明けの境い目のように広がっていて、それが自分達であって、自由であって、世界であると思えたら、必要な事は二値化した考えでは無いと思う。
モノクロ写真のグレーの使い方に、いつも重きを置いている。比重の問題だけれどね。