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行きずりのタクシー運転手と、記憶から剥がれ落ちる女たち

「お客さん、どこから?」
東京から特急電車で1時間ほど離れた先の地方。
その町で一番大きな駅から乗った個人タクシーの車内で、
10歳ほど年上に見えるドライバーから話しかけられる。

「東京ですよ」
タクシーに乗った際に行き先を告げたイントネーションで、
東京から来たに違いないと期待していたようだ。
運転手が「待ってました」とばかりに東京の思い出話を始める。

「東京で働いてたんですよ、自分も」
「へぇ、どの辺で?」
「品川、日本橋、京橋…、
いろんなところにいましたね。
調理師だったんです」

こちらから触れもしていない職業の話が出たことで、
しばらくは会話が続くのだろうと覚悟するが、
時折「そうなんですか」と相づちを打ちつつも、
仕事のやりとりをしているiPhoneから目を離さない。

最近Uターンしてきたこと、
東京では調理師として働いていたが、コロナ禍で職を断念したこと
妻は介護の仕事に就いていたこと
休みが重なると新宿のバルト9で一緒に映画を楽しんだこと

運転手の話は途切れず続く。
迷いなく選ばれる言葉から、彼が東京から来た客向けに
数え切れないほど語ったであろう
エピソードトークであることがわかる。

目的地までは10分以上。
こちらも適当な相づちを打ちながら、
床に落ちていたゴミを拾うふりをして、相手の話を膨らませてみる。

「バルト9、僕もオールナイト上映に何度か行きましたよ」
「え、何をご覧になったんです?」
「んー、何だったかな。多分アクション系ですかね」

即興で話しているこちらの回答は歯切れも悪く、
話の着地点もぼんやりしている。
それでも会話は、新宿での思い出に関するものへと移っていく。

「新宿で一番思い出深い店」について触れると
偶然にもお互いの答えが同じイタリアンレストランだった。
顔を上げ、運転手の方を見る。

「よくデートで使ったんですよ。デザートが美味しくて」
その言葉にウソはないが、真実はもう少し奥にある。

本当の理由は、自分ではなく彼女がその店を気に入っていたからだ。

「甘いものがお好きなんですか?」と運転手が尋ねる。
そこでその経緯を話すと途中で話が途切れそうだったので、
「まあ、そうなんですよ」と軽く答えながら、
記憶の中でぼんやりした彼女の顔が浮かんでくるのを感じていた。

浮かぶ顔や身体はぼんやりとしていて、いつまで経っても細部は思い出せない。
レストランの昼光色の照明、ホテルの薄暗い青い照明、
いろんな色が彼女の顔や肌に重なるが、はっきりとはしない。

おもむろにiPhoneの写真アプリを開き、
指で画面を上下にスクロールして過去に遡っていく。

保存された写真が走馬灯のように過去を行き来するが、
彼女の写真は一枚もない。
別れた後に全て消してしまっていたのだ。

基本的に別れた相手のデータは、その都度全て消している。
なのに自分で消したことすら、今になって思い出す。
残っていたのはデザートの写真だけ。

こうして思い出さないよう手を打つ自分に、苦笑が漏れる。
そっと手のひらで口元を隠し、肘を窓に当てて、
運転手には表情が見えないようにやり過ごす。

やがて運転手が妻との思い出話に移る頃には、
こちらの表情も落ち着き目的地も近づいていた。

運転手は今日はこれで仕事はあがると言う。
「これから稼ぎ時じゃないんですか?」と何気なく尋ねると、
運転手は静かに首をわずかに傾ける。

「もうね、一生懸命働くのは止めたんですよ。
ちょっと前に奥さんが倒れてね。
ずっと働き詰めだったのを見てたもんだから、
頑張ったって身体壊したら元も子もないなと思って」

そう話したところでタクシーは目的地に着く。

会計を済ませて降りると、
ふと運転手の奥さんが今も存命なのか確認し忘れたことに気づく。
しかし、タクシーは既に走り去っていた。
きっとこの先も答えを知ることはないだろう。

話を中途半端に終わらせたのは、
お決まりのトークを得意とする運転手だった。

生きていると思い出せないままのことや、
答えがわからないままのことが増えていく。

自分にとって死ぬまで忘れたくない記憶や
絶対に知りたい結論とは何だろうか
そんなことを考えながら、訪問先のエントランスをくぐった。


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