エッセイ | 感じ方・受け取り方、梅か桜か。
梅の花を見るとき、それが梅だと分かるのは、季節によるところが大きい。
2月に花咲く木を見れば、すぐに「梅だ」と認識する。
同じものを5月に見たら、花をじっくり見る前に「桜だ🌸」と思ってしまうだろう。
そんなことを思ったのは、北海道では例年5月に梅の花が咲くことを知ったから。
私はまだ北海道に行ったことがない。5月の北海道で梅を見たとしたら、梅を見ても桜だと勘違いするに違いない。無意識のうちに、本州に住む自分の常識という色眼鏡でものごとを見てしまう。
人間を見るときも、桜や梅を見る時のように、自分の考え方のバイアスという色眼鏡を通して人を見ていることだろう。
同じことをされても人によって感じ方や受け取り方が違う。
医者から「安静にしてください」と言われたとする。
ある人は「安静」という言葉を文字通り受け取って、一人でトイレに行くこともしないだけでなく、寝返りもうたなくなるかもしれない。
ある人は起きあがって、ベッドに座り、同じ部屋の人と1日中しゃべり続けたり、仕事やネットをずっとしているかもしれない。激しい運動をしなければいいでしょうという感じで。
一概に偏見を持っていることが悪いとは思わない。それは、自分の目で見てきた経験が積み重なってきた結果だし、正しいか正しくないかの判断を他人にゆだねてばかりでは、日常生活は送れないから。
ただ、ふとした瞬間に、自分と他人とは違うものだということを思い出してみたい。
外見上自分と同じことをしていても、相手は自分と違う色眼鏡を通して物事を見ている。
心の中は、自分の心でもすべて自分に見えているわけではなく、他人の心ならなおさら見ることが難しい。
いっしょになったと思うときは、素直に一体感を感じていたい。しかし、相手の中に違和感を持ったなら、自分の殻にとじ込もって相手のことを判断するのではなく、相手に尋ねてみることは大切だろう。
どうせ相手のことは分かりっこないと思いつつ、分かるかもしれないという希望を持ちつつ。
みんな違う花を咲かせていてきれいだなぁ、って思えればいいんですけどね。触れてみないことには、人間は分からないから怪我をすることもあるかもしれないけど。きれいでも毒を持っているかもしれないし、美しくなくても薬かもしれないし。
でも、知ることは大切。対話が大切。人間の咲かせる花を見る場合にはとくに。