短編小説 | 罪と罰
(1)
7月初旬の酷暑の頃、ある日の夕暮れ。割崎(かつざき)というひとりの青年は、部屋を借りているアパートの門をふらりと出た。
母と妹を故郷に残し、上京して暮らしているが、学費を支払うのが精一杯であった。今日も部屋の中にある金目の物を質屋に入れようかどうか迷っていた。
しかし、カネがないときほど飲みたくなるものだ。割崎の足は自然と繁華街の飲み屋街のほうへ向かっていた。
きらびやかな飲み屋は高い。やむなく路地裏の安い飲み屋へ向かった。
「汚い店だ。しかし、安く飲めそうだ」
汚れたドアを開けて、飲み屋に入った。それなのに、店内に入っても誰も来ない。みすぼらしい格好をしているから、すぐに出ていくとでも思われたのだろう。
割崎は、場違いな感じがして、店の外に出ようとした。
「お兄さん、カネを持っていないのかい?オレと一緒に飲まないか?」
いかにも酔っぱらいのおじさんに呼び止められた。貧しそうだが、人は良さそうだ。
「はい、恥ずかしながらほとんどカネを持たずにやってきました。ビール一杯を飲もうとしましたが、居ずらくなって」
「まぁ、オレもカネは大して持っていないが、1日飲み明かすくらいのカネはあるから」
男は甘井と名乗った。市役所をクビになったばかりだという。
「ちょっとした出来心でな。役所のカネをチョロまかしたんだ。懲戒解雇でこの有り様さ。もちろん退職金なんて出ない。けどな、オレの娘は献身的だ。風俗で働いて父親のオレに小遣いをくれる。そのカネでオレは今日も飲んでいる」
「最低な父親だ」と割崎は思った。しかし、これも不景気のせいだ。こんな男を作り出した世の中が悪いのだ。
割崎は甘井と夜遅くまで飲んだ。話を聞いているうちに意気投合したのだった。
「おじさん、今日はありがとうございました」
(2)
いたたたた。頭が痛い。二日酔いのようだ。しかし、滞納している家賃を支払い期限が近づいている。今日こそ、質屋に行って換金しなければならない。
割崎は父親の形見の腕時計を持って質屋に向かった。腕時計とともに、懐にナイフを忍ばせて。。。
質屋に入ると、シラミのような老婆が出てきた。
「あぁ、またあんたか。今日は何を持ってきたんだい?」
「この腕時計です。ロレックスです」
「あんた、バッタものじゃないだろうね」
質屋の老婆は虫眼鏡を取り出して、割崎の時計を見ていった。
「確かにロレックスのようだね」
「どうです?5万くらいにはなりますよね?」
割崎はかなり控えめに言ったつもりだったが、老婆は嘲笑った。
「5万?あんた冗談がきついねぇ。こんな傷物はどんなに高く見積もったって、2万にもならないよ。ははは」
割崎は必死だった。
「よく見てください。もともと百万以上する時計なんですよ。今日、最低でも十万円くらいいただけないと家賃が払えず、立ち退かなければなりません」
「知らんがな。あんたの事情なんて。二万で納得できないなら、ほかへ行きな」
割崎はかっとなった。気がついた時には、持ってきたナイフで、老婆を刺していた。
「ひっ」という老婆の声を無視して割崎は老婆をめった刺しした。
割崎は老婆がおとなしくなったとき、ハッと我に返った。レジに残されたカネを無造作にポケットに突っ込んで、店から逃げようとした。そのときだった。老婆の娘がいつの間にか割崎をじっと見ていた。
割崎と目が合った娘は、口をパクパクさせていたが、声を失っているようだった。割崎は娘の心臓を突き刺した。娘は抵抗することすら出来ないまま、そのまま倒れこんだ。
割崎にとって、この第二の殺人は予期していないことだった。
(3)
どこをどう歩いてきたのか覚えていない。気がついたときには、アパートのベッドに寝ていた。とてつもない疲労感だ。いくら寝ても寝足りない。だが、さすがにこの酷暑だ。昼過ぎには、汗でびっしょりになって起きた。
割崎はハッとした。あろうことか、老婆と娘の返り血を浴びた服を着たままだった。
あわてて脱いだ。なんでこんなものを着たまま寝てしまったのだ?
平静を装っていたつもりだったが、動揺していたのかもしれない。
動揺?
正義のために人を殺すことは、そんなに悪いことなのか?
前途ある優秀なひとりの青年が生きるために、他人に害悪を及ぼすだけの、シラミのようなババアを殺すことが、なぜ犯罪になるのだろう?
オレは間違った世の中を少しでもより良い社会にするために、シラミを潰しただけなのだ。
昼過ぎ、インターフォンがなった。
「郵便です。書留郵便です」
割崎は玄関へ向かった。
「サインください」
宛名を見ると、警察だった。
「えっ?もう?出頭要請か?バカな。店内には防犯カメラがないことは何度も確認していた。こんなに早く身元が割れるはずはない」
そう思いつつも、割崎はかなり動揺していた。
封を開けると免許証が出てきた。
あぁ、そういうことか。タイミングがタイミングなだけに、割崎は勘違いした。思わず苦笑いした。
(4)
割崎は返り血を浴びたシャツとズボンをゴミ袋に入れて押し入れの奥にしまいこんだ。
愚か者ならば、さっさと捨てるに違いない。容疑がかけられてもいないのに、迂闊に外に捨ててしまえば、逆効果だ。容疑がなければ、家の中まで警察官が住居に侵入することは出来ない。シャツ以外に割崎が老婆とその娘を殺害した証拠なんて何もないのだから。
割崎は、殺害後、外出することはなかった。暑い部屋の中で、ほとんど水だけを飲んで過ごした。
しかし、殺害から3日経った頃、家の中に引きこもっていては、逆に変に思われるかもしれない、と思った。
その時、不意に、この前いっしょに飲んだ甘井のことを思い出した。
会えるかどうかは分からない。しかし、気がついたときには、自然と足が路地裏の飲み屋のほうへ向いていた。
飲み屋へ向かう途中、割崎は救急車を目撃した。どうやら、中年男が車にひかれたらしい。
「どなたか、この男性のお知り合いの方はいらっしゃいませんか?」
救急隊員が大声で叫んでいた。
割崎はなにげなしに、担架に寝ている男の顔を見た。間違いようはない。彼が見た男は、甘井にほかならなかった。
割崎は叫んだ。
「その人は甘井さんです。市役所を辞めて、今は無職の方です。奥さまとお嬢さまがいらっしゃいます」
(5)
割崎は、甘井と同じ救急車に乗り込み、病院へ向かった。とりあえず、甘井の意識が回復するか、奥さまがお越しになるまで、甘井のそばに寄り添うことにした。
病院に着いて数時間後、甘井の意識が戻った。それとほぼ同じ時間に、甘井の、奥さまが病室へ駆けつけた。
「あぁ、ろくでなし。バチが当たったんだわ。いっそのこと、即死してくれれば良かったのに」
「奥さま、今は事故直後ですから。詳しい事情は存じませんが、一命を取り留めることができて、本当に良かったです」
割崎は奥さまに頭を下げて、病室から立ち去ろうとした。
「割崎さん、父がたいへんお世話になりました」
病室を出たとき、割崎は、甘井の娘さんと思われる女性に話しかけられた。菓子折りを手渡された。
「娘さんでいらっしゃいますか?僕は当たり前のことをしただけです。これは受け取れません」
「そうおっしゃらずに、受け取ってください。あなたのお陰で父は助かりました」
割崎は甘井の娘さんに会釈をして、病院をあとにした。彼女は甘井が飲み屋で言った通り、気立ての良い女性だった。こんな素敵な女性が、風俗をせざる世の中は、やはり間違っていると割崎は思った。
(6)
割崎は殺害後、ネット、新聞報道、テレビなどを見て、事件に関する捜査状況を探っていた。
殺害の翌日、「質屋で二人の女性が何者かによって殺害させた」と各種メディアで報道されたが、それ以外に続報が流れることはなかった。防犯カメラにも映っていない。目撃者もいない様子だった。割崎の事前の調査が功を奏したのだろう。
割崎はほくそ笑んだ。
「あんなシラミを潰したって、神様はちゃんとオレに味方している。当然の成り行きだったのだ。オレは自然の摂理に従ったに過ぎないのだ」
しかし、事件は思わぬ展開を見せた。数日後、警察官が割崎のもとを訪れた。割崎は任意同行された。
「私は警察からやってきた堀という者です。お時間がよろしければ、警察でお伺いしたいことがあります」
(7)
「割崎さん、あなたは、あの質屋で女性が二人殺害された事件はご存知ですよね?」
割崎は黙秘しつづけた。
「我々があなたに目をつけたのは、最近、法律ジャーナルに発表された論文を拝読したからなのです」
警察官は割崎に諭すように語りかけた。
「あなたの『殺人理論』によれば、人間は二種類に分けられるということでしたね。第一の部類の人間は、例えばニュートンやリュクルゴスのように、社会のルールを『踏み越える』権利がある。なぜなら、天才には真理を世に知らしめる責任があるからです。第二の部類の人間は、天才の発見した絶対的な真実を素直に受け入れて、それに従っていさえすればいい。それゆえに、第一の部類に属する人間は、ときに第二の人間を殺害することが許される。たしか、このような理論だと私は考えたのですが、間違いありませんか?」
「大筋では、間違いなさそうですが」と割崎は答えた。
「割崎さん、私もあなたの意見に賛同しているですよ。警察官なのにね。シラミのような人間は確かに実際にいますからね。しかしですね、もし、第二の部類の人間なのに、第一の人間であると勘違いした人間が現れたらどうしますか?別に第一の人間にだって、『私は第一の人間です!』という刻印が押されているわけじゃないでしょう?」
割崎は警察官が自分の論文を読んでくれたことに、喜びを覚えた。そして、警察官の質問に答えた。
「私の論文をお読みいただき、光栄です。あなたの質問に関してですが、第一の部類の人間は、実際に意味もなく人を殺すことはありません。無意味な殺害を企てるのは、常に第二の部類の人間なのです。第二の人間は愚かですから、自らの犯行を早晩人に話してしまうものなんですよ」
「そうでしょうね。第一の部類の人間は、優秀ですからね。たとえ犯罪を犯しても、完全犯罪になるでしょうね」
「全くその通りです。バカは逮捕されて、ベラベラ訊かれもしてないことを話すくらい愚かですから」
割崎は饒舌になっていることに気がつくことなく、警察官と話し始めた。
「割崎さん、どうやら私たちは勘違いしたようです。あなたは優秀です。おそらく、第一の部類の人間に属する。今日はたいへん失礼いたしました。お引き取りいただいて結構です」
割崎はそのまま帰宅することを許可された。
(8)
結局なんだったのだろう?
警察には決定的な証拠は何もないようだな。お陰で捜査状況を把握できた。オレに対する容疑は、妄想の範疇のようだ。
割崎は活気づいた。普段より高いコンビニ弁当を食べながら、ビールを飲んだ。オレにも運が向いてきたようだな。
とはいえ、やはり今日は疲れた。一休みするか。
割崎がまさにこれから寝ようとした瞬間、インターフォンの音が部屋に響いた。
「こんな時間に誰だ?」
不思議に思いながら、玄関のドアを開けると、そこには甘井の娘が立っていた。
(9)
「夜分本当に申し訳ありません。どうしても割崎さんにお伝えしたいことがあって、無礼を承知で伺うことになりました」
甘井の娘は、涙を流しながらも、ハッキリした口調で言った。
「遅ればせながら、私は甘井千恵子と申します」
「千恵子さんですか。いいお名前ですね。汚い部屋ですが、お上がりください。お茶くらい用意しますから」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。用件をお伝えしたら、すぐに帰りますから」
割崎はしばらく忘れていた性欲が刺激されつつも、丁重に千恵子を部屋に招き入れた。
「割崎さん、とても申し上げにくいのですが、実は先日、父が亡くなりました」
「えっ?甘井さんが?お元気になられたのではなかったのですか?」
「はい、割崎さんが去ったあと、急変してしまって。そのまま帰らぬ人になりました」
割崎は言葉を失った。ちょっと前にいっしょに酒を飲んだばかりの甘井さんが亡くなるなんて。割崎は信じられない気持ちだった。
「お伝えしたかったのはそれだけです。葬儀はすでに済ませました。本当に父はあなたにお世話になりました。亡くなる直前ではありましたが、あなたとお酒を酌み交わしたことを、父は楽しそうに話していたんです。きっと、いい思い出を抱えながら、旅立つことができたと私は信じています。本当にありがとうございました」
千恵子はそういうと、割崎の部屋を出ていこうとした。とっさに割崎は千恵子の腕をつかみキスをした。千恵子は頷きながら、割崎に身をゆだねた。
(10)
目覚めたときには、すでに太陽が高くのぼっていた。割崎が起きる前に、千恵子はすでに部屋をあとにしていた。
テーブルの上には、千恵子のメッセージが置かれていた。
「割崎さん、あなたは本当に素敵な方です。私までたいへんお世話になりました。お陰さまで、私も父と同様にいい思い出ができました。本当にありがとうございます」
(11)
割崎は涙が出るほど、嬉しかった。
「千恵子さん、僕はあなたとは付き合ってはいけない人間なのです」
割崎はボサボサの髪を櫛でとかして、服を着替えた。そして、そのまま、ゆうべ訪れたばかりの警察署へ向かった。
(12)
「すみません。割崎という者です。昨日会った警察官の方にお会いしたいのですが」
女性警官は、ハッとした表情を見せたが、すぐに堀さんを呼んでくれた。
「あぁ、昨日はどうも、割崎さん。それで今日はどういったご用件で?」
「私は第二の部類の人間です。二人を殺したのは私です」
(13)
割崎の裁判はあっという間に結審した。割崎は何も包み隠さず、事件に関する秘密を暴露したからである。
また、甘井千恵子による証人尋問が功を奏したお陰もあって、二人の女性を殺した割には、実刑7年7ヶ月という寛大な判決がくだった。
千恵子は割崎が収監されている間、度々、割崎のもとを訪れた。
割崎は、何がいけなかったのか、理解することはなかった。
エピローグ
この後には、割崎の更生と、千恵子と彼の物語がつづくのかもしれない。しかし、私が聞いたのは、ここまでの話である。
続編があるのかもしれないが、この物語はここで終わった。
…おわり
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