シュワシュワ
部屋がさわさわと明るくなってきている。でもまぶたの裏にはまだ、少しぱっとしないゲストハウスの色が阿蘇の風に揺れていて、霧の中の草の匂いがする。目が覚めてきているのはわかっていたけれど、目じりからぷくっと溢れていた涙があたたかくて、そのままちょっとだけ泣いた。
夢を見ていた。
いつかの桜の季節に、急に予約をとって出かけた宿泊所の、バルコニーに座ってた。向かい側には昔付き合っていた人が座っていた。そのちいさな旅行のことはとても穏やかで素敵な、でもすっかり忘れていた思い出だった。わたしも彼も、ゆっくり話をした。楽しかったことや、とても感謝していること、たくさんのキラキラしていた気持ち、ほんとうはしたかったこと、どれほどまっすぐ見ていたかということ、どれほど悔しかったかということ、なんで泣いたかということ。
あんまり長い夢ではなくて、霧がかかりがちな春の山の天気みたいに、顔はよく見えなかった。もうちゃんと覚えていないのかもしれない。わたしは、しっとりした小さい草はらに目をやりながら話していた。
遠くで駐輪場から自転車を出す音や、大家さんが犬に話しかける声がする。
もう朝かな。ああ、これ夢なんだな。
景色がどんどん霞んでいく中で、彼が体をこちらに向けて言った。
「ごめんね。とっても後悔しているよ。」
なんだか走馬灯みたいだった。浴衣を着て駅のベンチでじっと足のネイルを見ていたわたし、足が痛くて少し泣いたりしたわたし、真夜中のコンビニの明かりで少し安心したり、一生懸命自転車を漕いで背中を見ては寂しくなったこと、ごめんねが欲しかったたくさんのわたしが、シュワシュワになっていった。
「大丈夫。わたし今とっても幸せだし。」
部屋がさわさわと明るくなってきている。まだ目を閉じたまま、まぶたの裏にとてもとても好きな人の顔を映しながら、寝息を聞いている。目が覚めてきているのはわかっていたけれど。
夢で、よかったな。
目じりからぷくっと溢れてきた涙があたたかくて、たまに聞こえる変な寝言が幸せで、そのままちょっとだけ泣いた。