一人遊びとあなた
わたしは、ひとりでごはん食べに行ったりお散歩したり、カフェを探し歩いたり、特に予定もなく電車にのってはじめての駅で降りてみたり、一人遊びを好むことが多いです。
わたしは、誰と何を語り合えたとしても、独りであるというのは事実だと、何度も確認しています。そして、これらはすべて、ひとつも悲しくない。
わたしが一人遊びを好んで動くのは、趣味が理由でもあるけれど、誰かといっしょに過ごすことを選べるからだと思います。声をかければ一緒にカメラを持って一日中お散歩と鼻歌を楽しめる友人がいるし、川遊びがしたいねと言うと、何人か誘って車出しましょうかと返ってくるような場所で生きています。そろそろお酒のみたくない?と聞くと、よっしゃ焼き鳥いこうや、と言われることを知っていて、今日はバイトが終わったら湖へいってベンチで絵を描こうかな、と思うのです。誰の誕生日も近くないのに、しばらく経ったからあの子に似合う新しいボタンが入荷しているかもしれないな、と、ひとりでプレゼント探しに一日を費やすことを選ぶのです。
ひとりでいる時間が多いのは、誰かといる時間がうっとうしいからではありません。もちろんひとりの時と誰かと過ごすときとでは心持ちは違うものだけど、大事にしてどちらも覚えていようと思っています。好きな人たちと一緒にいる時間は、例えば、膝の上の猫を撫でるときみたいに手のひらで覚えていて、木漏れ日を追うように網膜がおぼえていて、どの距離にいたのかは、その服が擦れる音や足音や息づかいを、耳が覚えようとします。そういうのを覚えていて、ひとりで外を歩くと、普段よりも日が照っていて足裏のアスファルトが温かいことや風の音がおもしろいことに気づきます。近くに体温と耳を傾けたい声がないからです。土の上の苔を、しゃがんで飽きるまで観察し、森だな、と吟味します。今どんな表情でわたしの話を聞いているのか、確認できる顔がないから。歩いた道のガードレールやパリパリ剥がれそうな樹皮をペタペタと触っていきます。次に触れる肌がないから。ひとりでいると、誰かといっしょにいるときに、自分の感覚をどのくらいその人に向けていたのかが、じっくりわかるようになる。その人がどのくらい近くにいるのか、もしくはちょっと離れようとしているのか、名前を呼ぶ声の質感や、向けられる視線にも敏感になれます。どちらもあって、味わうことを忘れずにいられました。
わたしはこういう、自分がとても贅沢であることをわかっていようと思っています。生まれてからずっと、耳を傾けたい声や今笑っているのかを確認したい顔がなかったら、一人遊びの時間はここまで魅力的じゃなかったんじゃないかな。わたしには、誰かといっしょにいる時間があるから、気ままに一人の時間を選べる。うわ、生意気なほどに贅沢ですね。どんなに心尽くして言葉尽くして話したとしても、結局触れられない部分がお互い必ずあって消えない寂しさを覚えるのは、いつかの日に朝まで話をして、深く分かり合おうとした相手がいたからです。涙が出るほど贅沢です。わたしたち、ひとりよがりじゃ寂しくもなれない。
普段はそんなに考えていません。一人遊びをして、あそこの珈琲屋さんは晴れていたら庭でも飲めるとか、好きそうな雑貨屋さんあるよとか、苔は結構森だよねとか、この前こういうこと考えたんだけど、とか、好きな人たちに話しているときに、じんわり肌でわかったりする。わたしは一人の時間を上手に楽しむ才能があるんじゃなくて、運良く選べるような場所にいるんだなあ、とか。
いやあ、おかげさまで。
急にいなくなったり、しないでね。