黄いろのトマトとカタツムリ
(本文約1,000文字)
金色に輝く小さなトマト。兄妹にとっては宝石のような価値があるが、大人にとっては単なる「黄いろのトマト」に過ぎない。
もちろん、それは金貨ではない。金貨の代わりにもならない。
ある日、兄妹の街にサーカスの一団がやってきた。
サーカス小屋の前まで来た二人。中に入るには、「黄金のカケラ」が必要らしい。皆んな、黄金のカケラを番人に渡しているのが見えた。
兄は、畑に金色のトマトがなっていることを思い出し、大急ぎで取りに帰った。妹の分も合わせ、四つの「黄金」を持ってきたが、番人に投げ返され、怒鳴られ、周りの大人達にも笑われ……兄妹は泣きながら帰るのだ。
きっと、怖くて惨めで悲しくて悔しかっただろう。「かあいそう」な二人だ。
この悲しく残酷な物語は、宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品だ。生前未発表作で、少なくとも原稿用紙一枚分以上が紛失している上、未完成の作品だ。なので、兄妹の両親の存在など、不確かな部分もあるのだが、物語の根底にあるテーマは十分に伝わるだろう。
子供の純粋さ、子供ならではの価値観、現実の経済や社会の厳しさ、幼さゆえの無知……「かあいそう」な二人だが、厳しい見方をするならば、これも生きていく為の通過儀礼なのかもしれない。
同時に、近くに大人のいない子供達の不遇は、あまりにも悲しい。近くに寄り添ってくれる大人がいれば、兄妹は悲しむことや傷付くことから回避出来たのかもしれない。
同じことを学ぶにしても、こんなに傷付く学び方なんてしなくてもいいはず。
※
その昔、ホテルのパーティ会場での仕事が入った。裏方スタッフの一人に過ぎないが、TPOは無視出来ない。いつもよりは服装にも気を遣い、メイクもアイラインに薄っすらとラメを入れてみたり、軽くハイライトを入れてみたり……まぁ、目立たない程度に、いつもよりはほんの少し華やかに見える程度に「変身」したつもりだ。
仕事が終わると、その足で会場から直接息子を保育園に迎えに行った。いつもと少し違う雰囲気の私を見て、当時五歳の息子は言った。
「ママ、なんか今日キラキラして綺麗! カタツムリみたい!」
嬉しくないけど「ありがとう」と言い、面白くないけど私は微笑んだ。息子も笑っていた。
「でも、カタツムリより蝶々とか熱帯魚の方が嬉しいかな」と、そっと息子に言い聞かせた。
(了)
宮沢賢治著『黄いろのトマト』は、青空文庫で公開されています。