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Le Pianiste 第1章 ①

(前話)

第1章 コンクール ①

 表向き、那古野とイタリアの音楽文化交流と発展を謳っている協会がある。仲間内では「和伊太(なごいた)の会」と呼ばれているが、正式には「那古野・伊太利亜協会」という名称のようだ。
 あたかも「イタリア」という国と関係のあるようなネーミングだが、これは話を大きく盛っているだけ。一種の印象操作のようなもの。平たく言えば、見栄っぱり。実際には南部の都市、ナポリと少し交流があるだけだ。
 また、協会ヽヽなんてものも名ばかりで、その実態は、那古野市近郊の某市にあるT大学の杉本正志教授と、那古野ピアノ技術専門学校の波多野光照理事長を中心とした、音楽仲間の集まりなのだ。単なる仲間内で作ったサークル活動のようなもの……つまり、任意団体に過ぎない。
 残念なことに、いつの間にか私もゲスト会員として「和伊太の会」に登録されていたのだ。「知らない間に」ではあるが、どのみち断れない事情もあり、「やむを得ず」でもある。ただ、会員になってしまったことにより、外から眺めているだけではぼんやりとしか見えていなかったことが、クッキリと見えるようになった。警察の潜入捜査って重要なんだな……と思ったものだ。
 明確になったことは、この組織の中で皆んなが使っている「音楽仲間」という単語は、本人達の意図とは裏腹に、音楽愛好家ヽヽヽヽヽという意味合いはものすごく薄いことだ。実質は、「音楽をビジネスや社会的ステータスに上手く利用している仲間」と表現した方が、的を射ているだろう。私の言葉で換言するなら、この会の中身は「イヤなヤツ」だらけなのだ。

 そんな「和伊太の会」が主催するメインのイヴェントが、不定期で開催されるピアノコンクールらしい。ただ、それ以外にも愛好家ヽヽヽグループらしく、時々ピアノを使ったイベントは行われていた。要するに、その際のピアノのメンテを格安で請負わせる為に、私は後述する諸事情も重なって、渋々ながら会員になってしまったのだ。
 さて、コンクールに話に戻そう。那古野・伊太利亜協会が主催しているピアノコンクールは、どうやらナポリと那古野で交互に開催されているそうだ。それだけでも異質な形態ではあるが、もっと特異な点は、同じ主催者による同じネーミングのコンクールなのに、コンセプトが全く違うことだ。実質的には、二種類のピアノコンクールを(気まぐれで)運営している、と言った方がいいだろう。
 イタリアの若手ピアニストを対象に行われる「ナポリ大会」で優勝したピアニストは、協会により日本に招聘され、那古野を中心に演奏の場を幾つか提供される。つまり、優勝すると日本への演奏ツアーが準備されるのだ。
 一方、日本の若手ピアニストを対象にした那古野大会で優勝した場合は、一年間ナポリに音楽留学が出来るのだ。そして、ナポリ楽派を継承しているとされるナポリ音楽院の名誉教授、カルロ・ベルトゥッチ氏に師事し、ナポリ奏法が伝承され、ナポリを代表するピアノ商「ProssimoPiano社」のコンサートホールにて、ソロリサイタルを開催してもらえるのだ。

 この協会の名誉会長には、当時、世界でも最高レベルの実力と実績、人気、知名度を誇る、巨匠ピアニストのアルド・チッコリーニ(※)が就いているのだが、実質的な役割のない、文字通りの名誉職だ。
 ナポリ側の代表はアントニオ・デ・ロッシ氏で、上記したProssimoPiano社の社長である。また、那古野での代表は杉本正志、事務局は那古野ピアノ技術専門学校内に置かれていた。
 ちなみに、今更だが私のことを少し話しておこう。私は高校を卒業後にT大学に入学し、杉本教授の元で音楽美学を学んだ経験がある。もちろん、音楽美学という学部や学科なんてなく、一般教養の講義の一つとして受講しただけだ。なので、専門的に杉本の元で学んだわけではない。
 しかし、杉本は私が所属していた大学の管弦楽団の顧問でもあった。と言っても、当初は百人近くも在籍する団員の一人に過ぎなかったのだが、三回生になると私は団長に任命されたのだ。必然的に顧問とは顔を合わせる機会も増え、そこそこ密に連絡を取り合う必要もあり、それなりに可愛がってもらうようになったのだ。
 そして、大学卒業後は兼ねてからの夢であったピアノ調律師になる道を選んだ。決断が遅過ぎて、既に専門学校の入試は終わっていたが、杉本教授の口利きで、那古野ピアノ技術専門学校に試験免除で入学させてもらえることになったのだ。
 当時は、杉本教授と波多野理事長が蜜月関係にあることを知らなかったので、単純に杉本教授はすごいなぁ、ぐらいにしか思わなかった。もちろん、ものすごく感謝もした。
 更に、専門学校卒業後は、今度は波多野理事長の紹介で、ナポリのProssimoPiano社に就職することになった。そして、渡伊後の半年ぐらいは、アントニオ・デ・ロッシ氏の自宅にホームステイしていたのだ。
 前述した「諸事情」とは、要する人間関係だ。幸か不幸か……いや、八割方は不幸なのだろうが、「和伊太の会」の主要人物には、不本意ながらもとてもお世話になってきたことは否めないのだ。

 さて、二〇〇四年の年末から二〇〇五年の年始に掛けて、ニコロージ兄弟というデュオ・ピアニストが那古野ピアノ技術専門学校の招聘で来日することになった。メインの目的は、学校創立三十周年を記念した大晦日のコンサートだ。
 年末の風物詩とも言える、ベートーヴェンの名曲、交響曲第九番ニ短調「合唱付き」(いわゆる「第九」)を、リストが二台のピアノ用に編曲した作品があるらしい。もっとも、第九のピアノ版は他にも多々あるそうだが、ベートーヴェンオリジナルの複雑なオーケストレーションを、ピアノだけで忠実に再現することは不可能に近いだろう。
 しかし、リストの二台のピアノによる編曲は素晴らしい完成度と評価されていた。合唱パーツも含め、全楽章のトランスクリプション(楽曲を他の楽器に書き直すこと)に成功したのだ。二楽章の印象的なティンパニすら、ピアノだけで見事に表現されているのだ。
 その分、演奏の難易度はものすごく高い。なので、録音はまだしも、やり直しの利かない実際の演奏会では、滅多に取り上げられることがない曲だ。この二台ピアノ版の難曲を、ニコロージ兄弟は得意としていた。いや、この曲を演奏会のレパートリーとして取り組んでいる、世界唯一のデュオピアニストと言っても過言ではない。
 年末年始を挟んだ約二週間の滞在中、私はニコロージ兄弟のマネージャーとして、通訳兼運転手として、また本職の調律師として、ずっと帯同することになった。
 仕事そのものは波多野理事長からの依頼であり、いつもは彼から依頼される仕事は警戒心しか持たないのだが、ニコロージ兄弟とはナポリ時代からの付き合いでもあり、友人だとも思っていたので、私としては珍しく積極的に受託したのだ。

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(※)アルド・チッコリーニは、1925年ナポリ生まれの名ピアニスト。1949年のロン=ティボー国際コンクールで優勝、1969年にフランスに帰化した。世界的なサティブームの火付け役でもあり、ドビュッシーの全曲録音を始め、主にフランス音楽に注力し、亡くなる直前まで演奏活動を行っていた。2015年2月1日、パリ郊外の自宅にて89歳で永眠。

(以下は小説と関係のないエッセイのようなお話です)

個人的な思い出になりますが、在伊中は、勤めていた会社の社長とチッコリーニが旧知の仲だったこともあり、何度もチッコリーニとお会いする機会がありました。
まだまだ元気で、シャイで優しいお爺ちゃんって印象でした。
いつも「カリーナ!」と言って力強く抱きしめてくれました。
(彼は◯イなのですけど🤫)
「カリーナ」は直訳すると可愛いって意味ですけど、それは小さい女の子に向けて使う場合でして、大人の私に向かって言う場合は、多分ですが「おチビちゃん」みたいな、少し茶化したニュアンスだと思います。
ただ、ピアノへの要求はとても厳しく、毎回ダメ出しの連続で、おそらく一度もご満足いただいたことはないと思います。
それでも、きっちりフォローしてくださる優しさもあり、「前回よりずっと良いよ」とか、「そのまま努力を続けなさい。間違いなく良い方向を向いている」など、本音かどうかは分かりませんが、私が自信を喪失しないようにいつも褒めて終わらせてくれました。

あと、技術以外でも「イタリア語が上手く話せなくてすみません」と言った時、彼は「君の言葉は技術だよ。世界共通語なんだ。イタリア語より技術を学びなさい」と言ってくださいました。
本当に優しい方でした。

帰国して数年が経ってからのこと、東京でリサイタルがあるとのことで聴きにいきました。
数年ぶりの再会で、その時は、もう80歳を超えていたチッコリーニですが、快く楽屋に迎え入れてくださり、「カリーナ、来てくれたんだね、ありがとう!」といつものように抱きしめてくれました。
でも、その力があまりにも弱々しくて、すごく切なくなりました。

その更に数年後、再度来日されることを知り、またまた東京まで聴きに行きました……が、彼の体調の問題でお会いすることは叶いませんでした。
でも、その時のコンサートは、過去最高レベルで素晴らしかったです。
杖をついて登壇したチッコリーニですが、演奏が始まると年齢は関係ありません。むしろ、少年のような瑞々しい演奏でした。
ピアノって、こんなに楽に音が出せるんだ!というぐらい、極限まで無駄な動きを削ぎ落としたシンプルなタッチから、音叉のようなピュアな響きを奏でていて、何の雑念もなく音楽だけが浸透してくるような感じでした。

確か、その翌年に亡くなりました。
まさに生涯現役、亡くなる直前まで、ピアニストでした。

チッコリーニが世界的な名声を得るきっかけとなったのは、サティの演奏でした。
晩年になってもサティを弾き続けました。
80歳を超えて弾くチッコリーニのサティは、これ以上ないぐらい純粋に美しいです。