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Le Pianiste 第7章 ①

(前話)

第7章 ピアニスト ①

 コンクールで優勝した国吉朱美は、数ヶ月の準備期間の後、そろそろ春になろうかという時期にナポリに旅立った。

 バロック時代の作曲家、アレッサンドロ・スカルラッティから始まったと言われるオペラのナポリ楽派。当時のナポリは、後のウィーンやパリに匹敵するほどの音楽の中心地であったと言われている。
 ただ、地政学的にヨーロッパの隅の方に位置するナポリは、温暖で過ごしやすい気候とは裏腹に、経済的にも政治的にも決して豊かな大国だったことはなく、常にスペインやフランス、ローマなどの強国に支配され続けた歴史を持つ小国だ。
 そのためか、ナポリが世界(ヨーロッパ)を席巻するほどに音楽文化が隆盛したのは、バロック期のごく短い期間だけ。そして、その時がピークだったのかもしれない。
 とはいうものの、ナポリから音楽が消えることはなかった。前述したナポリ楽派隆盛期(1737年)に創設されたサン・カルロ劇場は、現在も尚、ヨーロッパの現役最古の歌劇場として、毎年欠かさずオペラの公演が開催され続けていることからも、そのことは窺い知れるだろう。(厳密には、ワンシーズンだけ中止になった年がある)
 ちなみに、1737年の日本は江戸時代の中期、八代将軍吉宗の時代だ。その頃から現在まで、ナポリでは毎年オペラの公演が行われているのだと思うと、日本で西洋音楽が本当の意味で根付くのは、まだまだ先のことなんだろうと考えてしまう。歴史は絶対に追いつかないのだから。
 バロック時代の一時期を除くと、決してナポリは音楽文化の中心地ではなかったが、ロマン派の時代になると再び少しだけ脚光を浴びるようになった。それは、リストの唯一のライバルだったと言われている超絶技巧の天才ピアニスト、タールベルク(1812ー1871)の出現によるところが大きい。

 実は、ナポリ奏法の生みの親とも言われるタールベルクだが、ナポリとの関係はさほど深くはない。出生はスイスだし、ピアニストとしてのデビューはロンドン、その後の音楽活動の拠点は、主にパリやウィーンだった。つまり、デビューから全盛期にかけて、ナポリとはほぼ接点がなかったのだ。
 タールベルクは、作曲家としても沢山の作品を残しているが、「三本の手を持つ」と喩えられていたぐらい、卓越した演奏技術を持つピアニストとして名を馳せていた。当時のピアノ界を席巻していたリストが、唯一自分に匹敵する技量を持つ存在として認めていたピアニストが、タールベルクだと言われている。
 もっとも、二人の間には大きな確執も奇妙な友情もあったらしいのだが。
 そんなタールベルクは、晩年になってようやくナポリとの繋がりが出てくる。きっかけは、イタリアのオペラ歌手と結婚した関係で、1858年にナポリ近郊のポジリポ(Posillipo)いう街に住み始めたことだ。しかし、それから約四年もの間、タールベルクは一切の音楽活動を休止した。
 1862年になり、ようやくピアニストてして活動を再開させたものの、長くは続かなかった。翌年のブラジルツアーを最後に、タールベルクはピアニスト活動を完全に引退したと言われている。

 とは言っても、タールベルクは音楽活動から身を引いたわけではない。ピアニストとしての活動を引退しただけだ。そして、ナポリ音楽院で指導者として歩み始めたのだ。
 必然的に、作曲家としてのタールベルクの作品は、ナポリで演奏される機会が増えた。そのほぼ全ての作品が、オペラや他の器楽曲をピアノ独奏用に書き換えたトランスクリプションだった。
 タールベルクの楽曲は、それこそ、「三本の手」が必用なのではないかと思えるぐらい、超絶技巧に溢れた楽曲ばかりで、上級者向けのテキストとしては有効だった。つまり、専門的にピアノに取り組んでいる学生でも、簡単には弾けないのだ。これらの曲を弾きこなす為には、無駄な動きを一切排除し、五指の動きを完全に独立させ、自在に操る奏法が必要だった。
 また、指回しの技巧だけでなく、それこそオペラのように美しく伸びやかに「歌う」表現力も必要だ。そういった背景から確立された奏法が、「ピアノのベルカント奏法」とも喩えられている「ナポリ奏法」なのだ。
 伝統的な音楽の街ナポリには、有名なナポリ民謡と共に、音楽文化、とりわけ「歌」と「ピアノ」の文化はしっかりと根付いており、伝承されてきた。なので、タールベルクが最後にこの地に行き着いたのも、オペラ曲のトランスクリプションが盛んなことも、それに相応しい演奏スタイルが生まれ「ナポリ奏法」と呼ばれるようになったのも、全てはこういった音楽文化を育んだ土壌ならではの必然だったのかもしれない。
 ナポリ奏法は、今も尚、脈々と受け継がれている。



 国吉は、コンクール優勝の特典として、伝統的なナポリ奏法の正統な継承者であるナポリ音楽院のマエストロ・ベルトゥッチに師事することになる。そして、一定期間学んだ後、那古野・伊太利亜協会のイタリア側の代表であるアントニオ・デ・ロッシが経営するピアノ専門店、ProssimoPiano社のホールでソロコンサートを開くのだ。おそらく彼女にとっては、緊張と決意に満ちあふれた数ヶ月だったであろう。
 実のところ、ナポリでの彼女の活動や評価については、私は知る由もない。どのような生活を過ごし、何を学んだのかは全く知らない。一度だけ、テルさんに電話で探りを入れたことはあるが、何も知らないと素っ気ない返事だった。現地では、大したトピックにもなっていなかったのだろう。
 それでも、彼女の人生にとって、とても重要な体験になったであろうことは想像に難くない。一方で、僅か数ヶ月ぐらいの滞在で、彼女の実力が大幅にアップする筈もないことも知っている。演奏のスキルなんて、そんなに容易く身につくものではないのだ。少なくとも、年単位の研鑽が必要だろう。



 コンクールから約一年後、ナポリでの研鑽を終えた国吉は、那古野でその成果を証明すべく、ソロコンサートを開催した。もちろん、バックアップの全ては「宿り木の会」が一切を受け持ち、観客集めに奔走し、超満員の中、コンサートは無事に成功した。
 しかし、その演奏から、私はポジティブな印象は受けなかった。技術的な上手さや安定は感じたが、それはコンクールの時にも感じたもので、そこから大きな変化は見出せなかった。音量は、確かに以前よりは出せるようになっていた気もするが、十分だとは思えない。それに、やはり表現力が(相変わらず)淡白なのだ。
 何より、どう見ても「ナポリ奏法」らしさを感じなかったのだ。おそらく、日本に残った美穂の方が大きく成長しただろう。
 国吉は、ナポリに行ったという事実を「箔」として纏って帰ってきただけで、中身の本質は大きく変わっていないのだ。ただ、「箔」はフィルターとなり、バイアスにもなり、本質をガードする役目を果たす。簡単に言えば、「なんだか凄そうだ」という先入観や思い込みを相手に与える効果があるのだ。
 しかし、大切なのはやはり本質。そもそも、コンクールから一年、ナポリに渡ってからは九ヶ月ぐらいだ。そんな短期間の研鑽で、見違えるほどに実力が身につくことはないだろう。

 また、私は打ち上げパーティは欠席したのだが、後日、和伊太の会のあるメンバーから聞いた話によると、本人より周りの人達が盛り上がっていたそうだ。すごく分かる気がした。
 自分たちが主催のコンクールで優勝し、自分たちがナポリに派遣し、自分達が育てたピアニスト……彼等にとっては、国吉朱美の本当の実力なんてどうでもいい。どう変わったのかにも興味はない。それよりも、自分達が関わった実績の方がずっと大切なのだ。なので、そういうピアニストは飛躍的に技術が向上し、超一流の演奏家になって帰ってきた方が都合が良いため、懸命にそう取り繕い、そう思い込むことにしているに過ぎない。
 きっと、そのこともまた、彼等の「箔」となるのだろう。


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