La luna giallo-verde
(本文約3,900文字)
月の色は、どれが正解なんだろう?
何色なら、秋山先生は怒らないのだろう?
小学二年生の私は、図工の授業で「お月見」の絵を描かされていた。
背景を真っ黒に塗り、夜空に見立てる。星は黄色で点々と色付けするらしい。クラスメイトがそう話しているのを小耳に挟んだ。私も、見様見真似で皆んなに倣った。
また、クラスメイトのほぼ全員が、手前に大きく月見団子を描いていたので、それも真似てみた。団子の色は白でいいらしい。「三色団子」にしている人もいるけど、白以外は何色にすべきなのかが私には分からない。
そして、夜空に浮かぶ大きな満月……。
あとは、月を塗れば完成なのに、私はそこから進められなかった。正解が分からなかったのだ。
皆んなは、躊躇いもなく月に「月の色」を塗っていた。でも、私から見ても明らかに同じ色じゃない。人それぞれ、違う色で塗っている。なのに、皆んな「正解」らしいのだ。なぜなら、誰も秋山先生に怒られていないから。
多分、私が「私の思う月の色」で塗ったら、秋山先生はいつものように怒るだろう。
私には、塗りたい色があった。それが、私に見える「月の色」だった。しかし、正解だという自信はない。正解を決めるのは、常に秋山先生なのだ。
果たして、その色で塗っていいのだろうか……爆弾のタイマーを止める為に、どの線を切ればいいのか迷う処理班のように、私も迷っていたのだ。もし間違えていたら、地獄を見ることになるのは同じだ。
映画の主人公のように、一か八か赤を切る勇気は私にはなかった。
※
小学校に上がる前は、絵を描くことが好きだった。もちろん、お絵描きとか落書きというレベルだが、常に何かを描いていたようだ。それでも、親にも幼稚園の先生にもいつも褒めてもらえたし、もっと描きたいという動機にもつながっていた。もっと上手くなりたいという、向上心も芽生えていた。
幼いながらに、私は絵を描くことは特技だと思うようになっていた。
しかし、小学生になると、担任の秋山先生に私の絵は全否定された。
最初は、遠足の数日後の図工の時間……テーマは「遠足の思い出」だったと思う。
確か、「芋掘り遠足」で、私にとってはどうでもいいイベントだ。遠足なんて大嫌いだったし、土に触れるのも苦手だった。芋掘りなんて、何の楽しみもなかったのだ。
ただ、思いの外、バスの中は楽しかった。イレギュラーなシチュエーションでの友達との触れ合いは、小一の私にはとても新鮮に感じ、無邪気に友達とじゃれ合い、笑い合う楽しい空間だった。
図工の時間では、絵の具で「遠足の思い出」を描かないといけなかった。どうして好きなものを好きなように描かせてくれないのだろう? と疑問に思いつつ、先生の言うことは絶対だと無条件に刷り込まれていた。
先生は言った。「遠足で楽しかったことを描いてみようね!」と。だから、私はバスの絵を描いたのだ。他に楽しい思い出なんてなかったのだから。
それなのに、みんなの前ですごく叱られた。
ヒステリックな怒りを隠そうともせず、ブツクサと文句を言いながら、先生は私に新しい画用紙を渡した。描き直しなさいと。
「何を描いていいのか分からない」と恐る恐る訊ねる私に、先生は「芋掘りに行ったでしょ?」とだけ言った。暗に、芋掘りのシーンを描け、と言われていることをようやく理解した。
それなら、「楽しかったこと」ではなく「芋掘りの絵を描け」と指定して欲しかった。何故そう言ってくれなかったのか……当時の私に理解出来るはずもなかった。
しかし、描かないといけないことは分かったが、「芋掘りの絵」が私には分からなかった。ほんの数日前、確かに遠足には行ったけど、「芋掘り」をした記憶なんて残っておらず、もちろん楽しくもなく、思い出もないのだ。
私は、コッソリとクラスメイトの絵を覗き見した。皆んな、芋を手にしているところや蔓を引っ張っているところ、スコップで土を堀っているところなどを描いていた。どうやら、それが正解なのだ。
私は、存在しない思い出に頼るのはやめ、想像でさつまいも畑の様子を描くことにした。幸い、畑の風景だけは、漠然と記憶に残っていた。それとなく土から植物が生えている感じだ。葉が生い茂り、ところどころ蔓も見えている。
鉛筆で下書きをしていると、秋山先生が私の絵を覗き込んでいた。「また怒られる!」と緊張したが、その予想は外れた。「今度は上手に描けてるわね!」と笑顔で褒めてくれたのだ。
少しやる気を出した私は、絵の具で葉っぱを塗った。最初は灰色で塗ったけど、何か違うと思い、少し青を混ぜてみた。濃いめのグレイっぽい色が出来た。
その色で葉っぱを塗っていると、秋山先生に怒られた。「そんな色の葉っぱなんかないでしょ!」と。
どうやら、私がふざけていると思い込んだようで、秋山先生はいつものヒステリーを数倍にして爆発させた。
どうやら、私は切る線を間違えたのだ。
二年生になっても、クラスも担任もそのまま持ち上がった。いつしか、私は図工の時間が大嫌いになっていた。
※
色覚異常は、遺伝子のバリアント(バリエーション)による特性に過ぎず、現在では「色盲」や「色弱」という単語は差別に繋がるため使われていない。そう、これらは目や肌の色などと同じように持って生まれた特性であり、個性なのだ。
余談だが、近年では「異常」という表現も問題があるのでは? という考えから、「色覚多様性」という表記も推奨されているそうだ。しかし、あからさまに差別を避けようとする意図が強すぎる表現は、本質を言い得ておらず不自然さを感じてしまう。数十年前に「あの人、色盲だって」というセリフがあったとして、現在は「あの人、色覚多様性だって」と言い換えられるのか? という言語表現の根本的な問題も無視出来ない。
こういった強引な修正は、逆に差別を誘発する、若しくは隠し持っている差別意識を必死に隠そうとしているようにも感じてしまう為、私は当事者として好ましく思っていない。
確かに、「盲」や「弱」は気持ちのいい言葉ではないが、定着しているのなら無理に変える必要はないようにも思う。問題は、単語表記ではなく意識なのだ。
以前、noteでも見かけたことがあるのだが、「色盲」の人が持つ、色の識別が困難であるという特性をバカにして笑いに(しようと)したネタがあった。その人は、「色盲」という単語をそのまま使っていたが、問題は単語ではないのだ。言うまでもなく、「色盲」を「色覚多様性」と書き換えたところで、その人の本質的な差別意識はなくならないからだ。
それでも、世の中の流れ的に「単語」そのものに修正が必要になったことは理解出来るし、歓迎すべきことなのだろう。
しかし、「色覚異常」程度の単語に過敏に反応することの方が、私には異常なように感じてしまう。
私は、女性では、医学的に五百人に一人の割合でしか発生しない、先天性の色覚異常者だった。しかし、当時は女性には色覚異常はいないという誤った認識を持つ人も多かった。残念なことに、教育現場にまで存在した。そして、秋山先生もその一人だったのだ。
私に見える色は、どうやら人とは違うらしいのだ。なので、一般的に「正しくない」色使いをしてしまうことも当然と言えよう。これは、決してそうしたいのではなく、そう見えるのだからどうしようもなかったのだ。
しかし、女性に色覚異常者はいないはず、と思い込んでいる秋山先生にとっては、私が悪ふざけをしていると思い込んだのだ。
当時の小学校では、(それこそ色覚異常者への偏見があったからだろうが)色覚検査なるものも行われていたはずだ。そして、私は引っ掛かったはず……なのに、どういうわけか、秋山先生には私の色覚異常を理解してもらえなかったようだ。きっと、思い込みが上回ったのだろう。
実際の原因はどうであれ、結果として、私は「絵を描く」ことに軽いトラウマを抱くようになった。あんなに大好きだったのに、楽しみは消え、不安と恐怖が先立つようになったのだ。
図工に限らず、他の科目でも色の区別が必要な時は、私は逃げ出したくなった。正解を外しても、「分からない」と言っても、ふざけていると受け止められたのだ。
両親の話だと、二年生になってから眼科で正式な検査を受け、私の色覚異常は(元々理解はしていたが)明確になったそうだ。診断の結果は、「異常三色覚」……当時は「色弱」と呼ばれていた色覚異常で、D型と呼ばれるタイプだった。
もちろん、学校にも報告したはずだ。秋山先生がどう受け止めたのかは、当時の私には知る由もない。
※
月の色が分からない……多分、思い切って秋山先生に質問したのだと思う。いつになく優しい先生は、「自分が正しいと思う色に塗ればいいのよ」と私に言った。今思うと、その頃には診断結果を確認していたのだろう。
もっと言うなら、私の両親のことだから、診断書を突きつけて、学校にクレームを入れた可能性も否めない。私が絵を嫌いになり、それどころか図工の授業を怖がるようになった原因は、明らかに秋山先生の指導による弊害だろう。そもそも、学校の検査にも引っ掛かっているのだから、客観的に見てもそれなりの配慮はあって然るべきだったのだ。
私のお月見の絵を見て、秋山先生は「上手に描けたわね」と言ってくれた。でも、子供ながらに目が笑っていないことは分かった。
その数日後だったか、数週間後だったのか……時期は定かではないが、授業参観があった。教室の壁に、全生徒の「作品」が展示されていた。
母は、私の絵の中の「黄緑の月」を見て、優しく穏やかに微笑んでくれた。
(了)
実体験を元に、適度に創作を交えたお話です。