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Le Pianiste 第6章 ①

(前話)

第6章 コンサート ①

 ニコロージ兄弟が来日すると知った時、私は再会出来ることを嬉しく思った。
 当時の私は、フリーランスのピアノ調律師を名乗っているものの、大した仕事もなく、大手楽器店や運送屋に頭を下げて調律を分けてもらいながら、ギリギリの生活を送っていた。また、母校でもある那古野ピアノ技術専門学校の非常勤講師として週に数回教壇に上がることもあれば、教材用のピアノの修理や整備も引き受けていた為、夕方は毎日のように学校へ出向いていた。
 ある日のこと、校内で波多野理事長とバッタリ出会い、唐突に話し掛けられた。「あんた、ニコロージ兄弟って知ってるか?」と。

「双子のピアニストのニコロージですか?」
「おぉ、知ってるんなら話が早い。今度うちで招聘することになってな、あんたにマネージメントやらしたるで、クリスマス頃から年末年始にかけて、二週間ほどでえぇで、予定丸っと空けとってくれんか?」
 ニコロージに関する業務は、このように一方的に決められたのだ。しかも、一年の中でも、最も仕事をする気になれない特殊な時期でもある。こんな非常識な依頼は、さすがに断ってもよかったのだろうが、彼等と再会出来る喜びの方が圧倒していたのも事実である。

 そして、2004年のクリスマスイブの朝、数ヶ月後にはセントレア(中部国際空港)の開港により閉鎖されることが決まっている空港に彼等は到着し、私達は数年振りの再会を果たすことが出来た。
 しかし、再会の喜びに浸る間もなく、その瞬間からあり得ないぐらいのハードなスケジュールが始まったのだ。

 まず、長旅の疲れを癒す間もなく、時差ボケの解消すら待たず、彼らは確保していた練習場へ足を運び、数時間ピアノを弾き込んだ。と言うのも、翌二十五日には、早速本番が一つ予定されていたのだ。
 翌日は、朝から私の運転で浜松に移動し、夜には某メーカーのコンサートホールで開催されたクリスマスコンサートに出演した。そのまま浜松で一泊すると、翌日の午前中には那古野へ戻り、那古野ピアノ技術専門学校でピアノ調律師を志す学生達を前に特別講義を開いた。
 もっとも、学校は既に冬休みに入っており、しかも、確かこの日は日曜日だった。基本的には、帰省していない寮生と自宅通いの学生の中で、希望者のみの自由参加の講義だったが、ピアノ調律科の学生のほぼ全員が出席した。現役の連弾ピアニストの話は、調律師を志す学生達にとって、興味一杯だったのだろう。
 講義後のしばしの自由時間には、学生達から熱のこもった質問攻めに合い、ニコロージ兄弟はタジタジになりながらも、すごく嬉しそうに触れ合っていた。

 しかし、休む間もなく、そのまま今度は車で一時間程の距離にあるK市に移動し、T大学のキャンパスコンサートに出演した。小一時間程のミニコンサートだが、地元住民と学生達で超満員。販売用に持参したCD三十枚は完売し、その為、サイン会の終了は予定時間を大幅に過ぎてしまった。
 そのまま大急ぎで那古野に戻り、夜は「宿り木の会」主催のパーティに出席した。

 翌日(二十七日)は、本番こそないものの、那古野ナポリ協会主催のピアノコンクールの決勝に、審査員として参加した。例のコンクール……いや、オーディションのことだ。
 翌二十八日は、朝から空路で花巻市へ移動し、某楽器店への表敬訪問の後、レッスン室で練習を行い、夜には楽器店所有のホールでコンサートを行った。プログラムは、前半はラヴェルやミヨーのフランス物の小品集で、後半は第九に負けず劣らずの超大曲、メシアン作曲「アーメンの幻影」だった。
 そのまま花巻で一泊し、翌二十九日は新幹線で宇都宮に移動、夜にはまたコンサートを行った。前日と全く同じプログラムだが、主催者が用意していた譜めくりが一人体調不良で来れなくなり、なんと、私が生涯最初でおそらく最後の譜めくりをぶっつけ本番でやる羽目になった。
 前半の小品は何とかなるかなと思ったが、それらは暗譜で弾くとのこと。譜めくりが必須のメシアンは、難解過ぎて譜面を全く追っかけることが出来ず、全てファビオが小声で合図を出してくれて、辛うじて乗り切ることが出来た。ヒヤヒヤものの四十五分だった。

 翌三十日、新幹線で昼過ぎに名古屋に戻って来たニコロージ兄弟にとって、午後からとは言え、来日してから初めての休養日となった。ずっと帯同している私にとっても、久しぶりの休日だ。
 しかし、翌日の大晦日には、来日の一番の目的でもある、那古野ピアノ技術専門学校の三十周年記念コンサートが開催されるのだ。
 三十日の午後、彼等は折角のオフを返上し、ひたすらピアノの練習に明け暮れた。今回の来日中に演奏するたくさんの公演の中でも、「第九」を演奏するのは大晦日だけなのだ。この超大作にして、技術的にも体力的にも、もちろん音楽的にも、たくさんのピアニストに挫折を味わせたであろう難曲に挑むため、彼等は殺気迫る緊張感の中、長時間ぶっ通しでピアノを弾き続けたのだ。

 私は、結局休みを返上して、練習に付き合うことにした。ただでさえ言葉も通じない異国での滞在なのに、何もかもが通常ルーティンから外れている年末の三十日だ。どうせ、コンビニぐらいしか行かない彼等ではあるが、もしもの時に携帯で呼び出されるぐらいなら、最初から一緒にいた方がいい。
 それに、調律師として、彼らの本気の練習にも興味があった。実際、本番を聴くのとはまた違う、とても貴重な体験だったと思う。

 彼らの練習は、とにかく激しかった。何度も繰り返し合わせては弾き直す箇所もある。バランスやテンポを模索し、口論しているかのように、強く厳しく意見交換を交わすパッセージもある。細かい音量と音色の調整が上手く噛み合わず、激しく主張をぶつけ合う部分もある。
 また、激しくぶつかり合うだけではなく、時には音色やフレージングを微妙に変えながら、適切解を二人で協力し合いながら探ることもある。助言や提案を送り合うこともある。
 いずれも、近くで聴いている私には掴み切れないような、微細な違いの調整だ。はっきり言うと、何が問題になっているのか、そして、どこがどう変わったのか、すぐ傍でリアルタイムで聴いていながら理解出来ないのだ。

 きっと、私と彼等では、聴こえている音楽が違うのだろう。もどかしくて、悔しかった。言葉や文化の違いぐらいなら、乗り越えられる自信はある。でも、私と彼等の間にそびえる音楽の壁は、もっと強固で高くて、完全に世界を分断した。二人の世界に入れないことが悲しかった。
 私は、自分の実力不足を思い知らされた。ピアニストと同質の耳を持ち、こういった微細な変化を捉えられない限り、技術者として演奏家の要求には応え切れないということだ。残念ながら、私の技量なんてまだまだ未熟過ぎるのだ。
 そういった調律師目線の話を抜きにしても、練習とは言え、その空間に佇むだけの私は、目の前で格闘技のスパーリングを見ているような感覚になった。いや、軍隊の実戦訓練を彷彿させるぐらい、緊張感と迫力で押し潰されそうになっていた。
 張り詰めた空気と緊張感の中を、ベートーヴェンとリストが考え抜いたであろう音楽が再現されては消えて行く。彼等が音楽にどれ程真剣に向き合っているのか……まさに命を削って紡ぎ出す音楽の前に、私はいかに自分が無力なのか知った。完全に言葉を失い、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 彼等はろくに休憩も取らず、数時間もずっと弾き続けた。昨夜は宇都宮でコンサートを行い、今朝の新幹線で那古野に戻ったばかりだというのに。
 結局、ファビオが唐突に「腹減ったなぁ」と言うまで、二人は弾き続けた。時計を見ると、十九時になろうとしていた。四時間ぐらい、ぶっ通しで練習していたのだ。
「ご飯食べに行く?」と聞くと、サンドロが「ニンニクキライ」と、私が教えた覚えたての日本語を口にして微笑んだ。


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