Le Pianiste 第7章 ②
第7章 ピアニスト ②
国吉朱美を評価する程、当時の私は彼女のことをよく知らなかった。一応、会えば挨拶は交わす程度の顔見知りではあるが、まともに話したことも関わったこともなかったのだ。
美穂と親しくお付き合いをしている以上、尚のこと、深く関わることはないピアニストだと思っていたが、やはり同じ地域で狭い業界に身を置く者同士……それから更に数年後のこと、国吉朱美と仕事をする機会が巡ってきたのだ。
某イングリッシュバーでのことだ。ここのオーナーは、宿り木の会のメンバーでもあり、彼等がよく打ち上げやパーティで使う場所でもある。普段はジャズ・バーとして、ジャズの生演奏がよく行われている。つまり、ボロボロだがピアノが一台ある。何年も前に、初めて美穂と会ったのもこのバーだ。
ある日のこと、ここでの調律の依頼を請けた。依頼者は、宿り木の会だった。どうやらまたパーティらしい。お抱え演奏家のミニコンサート付き。 いつものパターンだ。
さて、その時にリハにやって来たピアニストこそ、まさしく国吉朱美だったのだ。久し振りに話をした。いや、本格的に会話をしたのは、その時が初めてかもしれない。
彼女は、どうやらナポリが気に入ったようで、帰国後のお披露目コンサートの後、今度は自費でナポリに滞在していたそうだ。そして、現在は活動の拠点をナポリに置くようになり、今回も数年ぶりの帰国に伴うお披露目パーティだったのだ。
「私も以前ナポリに住んでいて、しかも、ProssimoPiano社で働いていたんですよ!」
そう話を振ってみると意外と話は弾み、ナポリでよく行っていたお店の情報交換とか、ナポリでの音楽界の話、カプリ島やアマルフィ海岸の話など、短い時間ながら急激に打ち解けあえた気がした。
「アントニオのお店で働いてたってことは、キアイア通りとかトリエステ・トレント広場とか、あの辺りに住まれていたのですか?」
「そうですよ! ディ・ミッレ通りからちょっと入った所。ほぼ毎日、ガンブリヌスでカプチーノ飲んでた!」
「いいなぁ、あの辺、めっちゃ良い所ですよね! サンタルチアも近いし!」
「うん、それだけはアントニオに感謝してる」
リハ前の限られた時間なのに、ついそんな話で盛り上がってしまい、すっかり意気投合して、連絡先を交換し、後日ランチに行く約束もした。
よく考えたら、美穂もナポリの話から繋がったことを思い出した。
残念ながら、私は時間の都合上、リハだけしか聴けなかった。しかし、それだけでも全くの別人のような演奏に変わっていることは分かった。ダイナミクスの振り幅が大きく、メリハリの効いた激しさと鋭さがダイレクトに飛び込んできた。何より、音楽が躍動し、感情が揺さぶられるのだ。
コンクールで、そしてナポリでの研鑽を終え、帰国した際のコンサートでと、私は過去に二回彼女の本気の演奏を聴いているが、同じピアニストとは思えないぐらい、技術も表現力も飛躍的に向上していのだ。
一方で、私にはナポリ奏法が身に付いたとは思えなかった。
ナポリ奏法の特徴は、フィジカルのエネルギーを指先に集約させることにあり、その為、無駄な動きを一切排除することだ。なので、演奏中も頭が微動だにしないぐらい、余分な動きが見受けられない。
余談だが、ナポリ奏法の話題になると、「頭に辞書を乗せて練習する」という、間違った情報に出会うことがある。これは、元はナポリ奏法を語る際によく使われてきたジョークなのだが、あまりにも的を射た表現に、真に受けてしまう人も多いのだろう。
それぐらい、無駄な動きを排除した、ビジュアル的には非常に地味な奏法であることは事実である。
でも、彼女の演奏は、全身を大きく使って、体全体で表現する感じがした。その反面、細かなパッセージでの指使いは、トランスクリプションに対応し得る正確さと力強さを兼ねていたし、まさにオペラのアリアのように旋律線を丹念に歌うことも出来ていた。
あのコンクールから、既に四年以上経過していた。この間に、彼女は、明らかにピアニストとして驚異的なまでに成長したようだ。最初のナポリでの研鑽後には目に見えるような成長を感じなかったが、見えない部分で着実に土台を築いていたのだろう。
しかし、私には、どうしてもナポリ奏法をそのまま取り入れたようには思えないのだ。おそらく、自分のスタイルに合う部分を、年月を掛けて上手く吸収したのではないだろうか。だとすれば、賢明な判断と言えよう。そして出来上がったのが、国吉朱美というピアニストの個性。ナポリ奏法を彷彿させる、日本人の個性的なピアニストだった。
いずれにせよ、国吉の人生、そして、ピアニストとしてのスタンスを方向付け、成長を促し、確立したのは、勿論本人の努力の賜物には違いないが、「宿り木の会」のメンバーに利用されたことを、上手く踏み台にしたからだと言えるだろう。ある意味、パトロンの有効活用だ。時代は違えど、モーツァルトやワーグナーと本質的には変わらない。パトロンも満足し、自分も糧を得るのだ。
コンクールに敗れた美穂も、日本に残ったおかげで目を向けるようになった新たな取組みが奏を功し、独自の成長を遂げている。那古野在住の為、事ある毎に「宿り木の会」に利用もされているが、美穂自身から上手くもたれ掛かることもある。
音楽家は、どんな規模、どんな形であれ、支援するパトロンがいた方が活動し易いし、パトロンも支援するにあたり、何らかの見返りを求めている。持ちつ持たれつ……当然なのかもしれない。
※
いつだったか……まだ私がイタリアで働いていた頃、ニコロージと彼らの自宅で交わした会話を思い出した。確か、人に何かを伝える時、一番簡単な方法が言葉による伝達で、一番困難な方法が音楽だ、という話だった。
ファビオとサンドロ、どちらかの意見というのではなく、二人で共有している考えのようで、どっちが何を喋ったのかまでは覚えていない。ただ、二人の話として聞いていた。
あらゆるアートには、メッセージが込められている。文学は文字情報なので分かり易いし、絵画や彫刻なども視覚経由なので、まだ伝えやすいだろう。
一方で、歌曲以外の音楽は、聴覚のみに依存して、文字や言葉を使わずに伝える手段なので、アートの中では常に遅れをとってきた。基本的に、アートの歴史は文学作品から絵画が生まれ、音楽は常に最後なのだ。音楽は、それだけ意思疎通に不向きな手段と言えよう。
その中でも、ピアノほど伝達に困難な楽器はない。他の楽器と違い、発音と同時に音は奏者から離れてしまい、コントロールが出来なくなるからだ。
それでも、ピアニストはピアノを使って何かを伝える職業なのだ。伝えたいことが正確に伝わらなくてもいい。それでも、演奏を聴いて、一人でも何かを感じ取ってくれたなら、それで満足なんだ。ピアニストってそういう生き物なんだ……
ニコロージの話は、確かそんな内容だった。
また、コンクールの日の夜、レストランでのニコロージとの会話も思い出した。
「……愛好家として、彼女の演奏を聴いて、何を感じたのかが知りたい」
「そうねぇ……技術的には素晴らしいと思ったけど、何を感じたかぁ……何も感じない演奏だったかな」
「そうなんだよ。分かってるじゃないか。彼女はピアノの音を出す技術は非常に優れているけど、それだけなんだ。音に色も感情も厚みもない。ピアノを歌わすことが出来ない。自動演奏のピアノと同じだ……」
そう、あの時の国吉には、ピアノを通じて何かを伝えることが出来ていなかったのだ。演奏の技量は長けていても、何も伝えられなかった……今の彼女は、明らかにそれが出来ている。それが出来てこそ、ピアニストなのだろう。
そして、結局のところ、何かを伝えようにもその機会の有無が先ずは大切なのだ。ピアニストにとって、自己表現手段はピアノの演奏。わざわざ最も困難な手段を選択したからこそ、限られた機会を大切にするしかない。
美穂も国吉もニコロージも、ピアニストである限り、演奏する場を得ることが何より重要なのだ。和伊太の会も、そう考えるとものすごくピアニストを助けていることになる。
※
本番前、杉本の挨拶があった。その中で、国吉朱美についての紹介があった。仲間内のパーティなので、観客のほぼ全員が「宿り木の会」のメンバーだ。つまり、杉本はほとんどの客が知っていることを、更に美化して話をした。
途中、気になる説明もあった。
コンクールでの経緯について、「突出した実力で」「審査員が圧巻し」「文句無しの満場一致で」優勝したことになっていた。事実を大きく捻じ曲げ、遠回しに当時審査委員長であった自分の功績を誇示していた。
更に驚くことに、杉本はリハの感想まで語り始めた。
「ナポリ楽派を継承した唯一の日本人」だとか、「ナポリの伝統を感じさせる表現力が身に付いた」とか、「ナポリ奏法を完全にマスターした」だとか、まあ、私とは全く違う見解を皆に紹介していた。何が驚きかというと、杉本はリハを聞いていないこと。
ここまでくると、単なる嘘つきだ。
杉本には、国吉の実際の実力なんて関心もないのだろう。いや、実力に関係なく、同じような説明をするのだろう。彼女がナポリでどれだけ苦労し、悩み、学んできたのか、どこがどう変わり、どのように成長したのか、きっと杉本や「宿り木の会」のメンバー達には理解出来ない。
そして、コンサートが始まると同時に、私は退席した。用事があったのもあるが、私には聴かなくても、もう充分だと思った。同時に、彼等は聴いても分からないのだと思った。
国吉は、あの方々に心から感謝していると話してくれた。でも、支援者と理解者は違うんだよね、と言った。よく考えると、美穂もよく、同じようなことを言っていた。
つまり、利用されてる分、こちらからも利用出来る。もちろん、それなりに感謝もしてる。でも、音楽を分かってもらえるとか分かって欲しいなんてことは、考えていない。例え彼等の利益や自己満足の為であれ、演奏の場をもらえることはピアニストとしてとても嬉しいことなのだそうだ。
良くも悪くも、何かを感じ取ってくれる人が一人でもいればそれでいい。その為にも、どんな場であれ、ピアノで自分を表現する機会が貰えることがありがたい……ニコロージの話と全く同じだ。
そう、国吉朱美も加藤美穂もピアニスト……ピアノの演奏を通じ、何かを表現し、伝える人種なのだ。
しかし、ピアノの演奏以外の部分で、何かが伝わってしまい、利用されることもある。そのことを、二人ともポジティブに受け止めている。
ある人は、自分では纏えない箔をピアニストに纏わせ、その箔を見せびらかし、自分の利益やステイタスに還元している。
でも、ピアニスト達が求めるものは、箔じゃなく本質。ピアニストにしてみれば、箔に目が行き本質を見ようとしない人達こそ、自分の本質を磨くために利用出来るのだ。つまり、箔と本質、表面と中身を交換しているのかもしれない。
そう考えると、なかなか面白い関係でもある。 同時に、モーツァルトやワーグナーの時代から何も変わっていないことに気付く。つまり、それもまた音楽の一面なのだ。ピアニストがピアニストである為に、いや音楽家が音楽家である為に、きっと必要なシステムなのだろう。