イロジカル
(本文約2,400文字)
「働いてない人には分かるわけないってこと。はい、詰んだ」と、小馬鹿にするような口調で、彼は一方的に話を結論付け、打ち切ろうとした。
きっかけは、「どうして連絡くれなかったの?」という他愛のない質問だ。私としては、咎める意図は全くなくて、「遅くなるなら連絡ぐらい欲しかった」ってことをやんわりと伝えたかっただけ。なるべく棘のない喋り方を心掛けたつもり。
それなのに、残念ながら彼には苦言や詰問に聞こえたようだ。責められている気がしたのだろう。そう受け取ること自体、後ろめたさの裏返しでしかない。自分に自信がない人ほど、すぐに否定された気になるもの。つまり、連絡すべきだったかな、と少しは思っているのだ。
しかし、彼は常に……特に私の前では、「自分は悪くない」というバイアスを張りめぐらせている。
ごめんね、の一言で済むことなのに……いつものことながら、少し虚しさを覚える。
私も不毛な口論はしたくない。でも、くだらないプライドが邪魔をするのか、彼は意地でも非を認めようとしない。きっと、普段から私のことを見下しているのだろう。
そして、いつものように、ロジカルな説明で言いくるめようとする。仕事中はスマホは手元にないだの、帰りも、たまたま今日は荷物が多くて両手が塞がっていただの。稚拙な弁明だ。
当然、綻びだらけの論理はすぐに破綻する。破綻した論理に説得力はない。つい猜疑的な視線を送ってしまう。すると、今度は感情論を混ぜ込んでくる。何回も繰り返してきたお決まりの展開だ。
やがて、ちょっと遅くなることがそんなに問題なのか? オレの行動を完璧に把握しないと気が済まないのか? など、私に非があるかのような口振りになっていく。典型的な逆ギレだ。
もちろん、私は帰りが遅くなったことを責めたわけでもないし、理由を問い詰めたわけでもない。「連絡が欲しかった」という要望を伝えただけ。帰りが遅くなることに何か問題があるわけではなく、彼の行動を監視するつもりもない。
彼の逆ギレは、それこそ論理に欠けており、最下級の感情論でしかない。嘘がバレた時に子供が口にする、見え透いた言い訳と同レベル。流石にそのまま押し切るのは大人気ないと気付いたのか、最後には「仕事をしている人」は「専業主婦より偉いんだ」という謎理論を振りかざし、「所詮、専業主婦には分からない」と結論付けて逃げ切りを図る。
いつものパターン……ロジックから感情論に移り、逆ギレを経て、論旨のすり替えからの強制終了、そして、一方的な勝利宣言。ホント、くだらない男だ。
もし途中で負けそうになった時は、急に甘えた声で媚びてくる。素直になれないからこそ、ふざけないと謝れない。結果、何も解決しない不毛な議論は、何の成長も促せない。幾度となく繰り返したルーティンに、辟易してきた。
冷静を心掛けつつも、少し苛立ってきた私は、「働いている人は専業主婦より偉いとでも?」と、謎理論の核心をストレートで突いてみた。
本当は、それこそが彼の本心だ。俺が稼いでる、俺が食わせてやってる、俺がいないとお前は生活出来ないだろ? お前は俺に養われているんだ、だからお前は俺に従うべき……それこそが彼の本音なのだ。
しかし、さすがに今のご時世、それを認めると分が悪くなることは理解しているらしい。「偉いとか偉くないとかじゃなくて、働いてない人に働くことの大変さなんて分かるわけないでしょ? ってこと」と、見事な詭弁で話を逸らしてくる。
その理論なら、貴方も働いていない私の気持ちが分からないってことだよね? と詰め寄ると、「お前の考えてることぐらい、分かるけど?」と開き直ってきた。
「どうして?」と聞き返すと「誰だって、働いていない時期は必ず経験してるから」と、またまたくだらない理論を掲げてくる。こうなると、もう単なる屁理屈だ。
そもそも、私は彼に強く懇願され、それまでに築いたキャリアを放棄して、専業主婦になったのだけど、そこには目を向けられないらしい。何故なら、彼の発言が矛盾か欺瞞にしか収束しなくなるからだ。
「赤ちゃんが泣いてる時、何を要求されているのか分かる?」
「はぁ? 今それ関係ないだろ?」
どうやら、自分で蒔いた似非ロジックが、ブーメランになっていることに気付いていないようだ。ホント、痛々しい人……似非は所詮は似非、彼の理論武装なんて、昔流行った「やわらか戦車」並に頼りない。九十年代のOSレベル、脆弱性の塊だ。
「誰でも赤ちゃんだった経験はあるでしょ? だから、貴方は分かるんだなって思ったの」
「何が言いたい?」
「貴方の理論のおさらいね」
「どういうことだ?」
ここまで話してもピンとこないようだ。つまり、彼の理屈は単なる思い付きに過ぎず、最初から筋が通っていないのだ。破綻する以前に、構築すら出来ていない。砂の城だ。
「さっきの貴方の理屈だと、貴方は働いていない私の気持ちを分かっていた上で、連絡くれなかったってことになるよね。もし、そうじゃないって言うのなら自己矛盾してるし、牽強付会に過ぎないわ。つまり、その場しのぎの出まかせばかりを口にする、しょうもない男ってこと。でも、もし正しいのなら……最低のクズだね。どっちにしても、もう終わりだけど」
真顔でそう伝えると、「困惑」に緊張と後悔と焦燥を混ぜ込んだような無様な表情を浮かべた。もう、見下すゆとりもないようだ。それでも、精一杯の間違った威厳を取り繕うことで必死のようだ。
「ちょっと連絡しなかったぐらいで、なんでそこまで話が飛躍するんだ? 何考えてんだ? わけ分からん」
「わけ分からないですって? あれ、私の気持ちぐらい分かってるんじゃないの? とっくの前に、貴方には見切りを付けてますが? ひょっとして、気付いてなかったとか? 笑えるんだけど」
はい、詰んだ。
(了)
作中に出てきた「やわらか戦車」も貼っておきます。