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Le Pianiste 第1章 ④

(前話)

第1章 コンクール ④

 審査委員長の杉本教授にとって、このコンクールの意義は何だろう?
 考えてみたところで、私が思い付く答は一つしかない。おそらく、「那古野・伊太利亜協会」の代表として、実際にコンクールを開催し、優勝者を決め、ナポリに派遣するという「既成事実を作る」ことだけが目的ではないだろうか。だから、「誰が優勝するか?」は重要ではない。それよりも、誰かヽヽをナポリに送り込み、学ばせ、帰国した時に仰々しく喧伝することが大切なのだ。要するに、ピアニストを育てるのではなく、自分の功績を作りたいのだろう。
 そう考えると、演奏も審査も閉鎖的な空間で行う方が都合がいいのも理解出来る。協会としては誰が優勝しても大差がないのだが、一般の人から客観的な意見が飛び交うと困るのだろう。
 評価が二対二に分かれたなら、議論するよりも自分が変更する方が手っ取り早い。自分の主張に、そこまでの信念も責任もないのだ。少なくとも、ニコロージを説得し、翻意させるよりはずっと楽だ。先の発言の意図は、そんなところだろう。

 長い沈黙を破ったのは、ニコロージの兄の方だ。
「議論はもう終わりなのか? 僕達は三位、一位、二位と思っただけで、それで決定しろとも決定して欲しいとも思っていない。荒川先生のご意見もすごく納得出来る。それに、さっきも言ったが、実力は三人目が一番だと思っている。もっと話し合うべきじゃないのか? マリ、お前はどう思うんだ?」
「だから、私は関係ないんだって!」
 本当は、ニコロージの二人に言いたいことはあった。
 歴然とした実力差があるのだし、大前提としてコンクールは競争の場だ。コンテスタントは、自らのパフォーマンスを最大限に発揮することを考えて挑んでくる。セーブして弾く人なんていないのだ。なので、会場の規模に適した音量かどうかは——実力が伯仲したギリギリの勝負ならまだしも——今は大切ではないはず。
 でも、少しイタリア語が話せるだけの平凡な調律師が、コンクールという大切な場で審査員に混じって発言すべきではない。それぐらいの常識は、幸いなことに、こんな私でもギリギリ持ち合わせていた。

 すると、審査員でもないのに何故かそこにいる、波多野理事長が口を開いた。どうやら彼には、私がギリギリ持ち合わせている常識はないようだ。
 彼は、根っからのビジネスマンで、本質的に詐欺師……じゃない、策士だ。どっちに付けば得なのか瞬時に判断し、さりげなく誘導するタイプだ。
「ニコロージの言ってることは、日本人にはない発想やでな。イタリアに行こうって子に、イタリア人ピアニストの意見は無視するわけにはいかんやろ」
(はぁ? 日本人にはない発想? このジジイは何言ってるの!) と思いつつ、単なる通訳の私はここでも発言を自重した。ニコロージにもそのまま伝えた。これで、波多野理事長が杉本教授側についたことは明白だ。
 不思議なことに、ニコロージの二人は自分達の審査に賛同してくれる仲間が増えたのに、全く嬉しそうではなく、むしろ苦々しい表情になっていた。思い悩んでいるようにも見えた。
 本当に二人目が一位だと思っているのだろうか?
 ひょっとすると、三人目を一位にしたくない理由があるのだろうか?

 しかし、波多野の後押しを確信した杉本教授は、ここぞとばかりに一気に畳み掛けに入った。嫌なコンビだ。

「では、今一度、国吉さんか加藤さんに絞って、どちらが優勝か挙手で決めましょう」と、強引に突破を図ったのだ。しかも、挙手による多数決……こんなピアノコンクールは、他にはなかなかないだろう。
 学級会じゃあるまいし……と、私は何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。そして、こんな「審査」で順位を決められるピアニストのことを、心から同情した。

「国吉さんが優勝の人……」と言いながら、杉本教授は勝ち誇ったように手を挙げる。まさに、学級会のよう。ニコロージ兄弟も、謙虚に、遠慮深そうに手を挙げている。日本人とイタリア人が入れ替わったかのような印象だ。
 そして、何故か同席しているだけの波多野理事長も、審査員になったつもりなのか、恥ずかしげもなく挙手している。
「四人ですね。荒川さんだけは加藤さんが優勝ということですが、賛成多数で国吉さんの優勝としましょう」
 何故か波多野理事長の一票もカウントされている。でも、どうやら私はノーカウントのようだ。どちらにしても、多数決での決定になると結果は変わらないのだが。
 こうして、呆気ない幕切れで審査は終了した。
 直ぐに、波多野理事長がピアニストを呼びに行き、全員が揃ったところで杉本教授が結果発表を行った。



「大変お待たせ致しました。今日は皆さん、本当に素晴らしい演奏でして、一人に絞ると言うコンクールの残酷さを、しみじみと感じております。ようやく審査が終了しましたので、発表に移らせて頂きます」
 ここで、もったいぶるかのように、少し間を空ける。流石に講演慣れしている人間だ。自分に視線を集める術を心得ている。

「えぇ、皆さん非常に実力が伯仲しておりまして、実は審査員の間でも意見が分かれまして、激しい議論の応酬もありました。そこで、考え方を変えまして、そもそも私達が皆さんに優劣を付けること自体が間違っているのでは? と思い直し、では、誰がナポリで学ぶに相応しいか? という視点に切り替えました」
 そんな視点の変更の話なんて一切なかった。つまり、全てが捏造だ。アドリブで、こんなにスラスラと平然と嘘を語れるなんて、ある意味すごい才能なのかもしれない。
 アレが世間でよく言われる「嘘つきの表情」なのか、と私は目に焼き付けた。

「すなわち、今日のコンクールはオーディションだったとも言えます。結果は国吉さんを優勝とさせて頂きますが、皆さん本当に甲乙付け難く、実力評価としては皆さんが同点優勝とも言えます。しかし、協会としてナポリで学ぶに相応しいピアニストは国吉さんではないだろうか? という審査員満場一致の結論になりました……」

 オーディションか……言い得て妙ではある。でも、満場一致ではなかった。それに、一人は完全に審査対象外であった。全てが詭弁なのだ。
 ピアニストの経歴が、そして人生が、こんなにくだらない茶番の影響を受けるのだ。私は、見たくなかった光景を見てしまった気分だった。知りたくないことを知ってしまったのだ。
 平静を装いつつ、明らかに喜びを噛みしめている国吉の隣で、一人目の可愛らしい「審査対象外」のピアニストは涙を流していた。他の二人とは明らかに技量が劣ってはいたが、彼女なりに真剣に挑んでいたのかもしれない。ナポリ奏法を、本気で身に付けたかったのかもしれない。
 彼女とは対照的に、美穂は、空を見つめたまま微動だにせず、全くの無表情だ。そこからは、喜怒哀楽の感情は読み取れなかった。荒川氏は、杉本教授の発言中に当て付けのように席を立ち、会場を無言で後にした。こちらは、完全に怒っているようだ。
 那古野・伊太利亜協会ピアノコンクールは、こうして幕を閉じたのだ。


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第1章『コンクール』はここまでです。
次回から第2章です。
引き続き、お読みいただけますと嬉しく思います。