お馬鹿な北風と嫌みたらしい太陽
(本文約1,700文字)
「北風と太陽」は、イソップ寓話の代表作の一つと言っていいでしょう。でも、私は子供の頃からこのお話が大嫌いでした。
有名なお話なのでご存知の方も多いでしょうが、簡単にストーリーを説明いたしますと、太陽と北風による力比べのお話です。
いや、力比べというよりは、簡単なゲームのようなものです。通りすがりの旅人が羽織っている外套を脱がした方が勝ち、という単純なルールで、北風と太陽が勝負をするのです。
先攻は北風。旅人目掛けて風を吹き付け、外套を吹き飛ばそうと試みますが、何せ北風です。強く吹けば吹くほど旅人は寒くなり、逆にしっかりと外套を押さえてしまい、脱がすことは出来ませんでした。
今度は太陽の番です。太陽は特に何もせず、ただひたすら、旅人を目掛けて日光を照射します。やがて暑さに耐えきれなくなった旅人は、自ら外套を脱ぐのでした。
何やそれ。
一応、この寓話には「教訓」も込められています。それは、力任せで強引な手段より、ゆっくりと着実な仕事の方が好転する、ということです。
また、これを人間関係に置き換えると、強制的な指導は反発をまねくが、上手く促しつつ自主的に行動させる方が結果を残せるという解釈にも通じます。
何やそれ。
いえ、言わんとすることは分かります。
ただねぇ……北風と太陽の個性や特性を考えた時、最初から勝負になるわけないのです。あまりにもアンフェアなルールと言えるでしょう。
北風は冷たい風です。きっと、旅人は元々肌寒く感じていたから、外套を羽織っているのです。なので、北風は自分の能力を発揮すればするほど、不利になるわけです。当たり前の話です。
一方の太陽は、熱を放つことが出来るのです。暑くなれば、誰でも薄着になります。最初から勝負にならないのです。ボクサーが横綱に相撲対決を挑むようなものなのです。
もっとも、この勝負をけしかけ、ルールを提案したのは北風なのです。なので、もしこの寓話に教訓があるとすれば、「自惚れるな」「相手をみくびるな」「汝自分を知れ」といったところではないでしょうか。
身の程知らずな北風もお馬鹿過ぎて痛々しいのですけど、勝って当たり前のルールで難なく勝利を収め、敗者を自慢げに見下す太陽も、かなり嫌なやつだと思うのです。
そもそも、勝負とは銘打っていますけど、実際にはどちらが優れているとか強いとかではなく、環境や条件が個性に見合うか否か、だけの話なのです。
誰にでも、向き不向きはありますし、個性を発揮出来る環境や条件は違います。自分でそれを見つけることも大切ですし、人のキャラクタを見極めることも、特に社会人になるとすごく重要になります。
社会は沢山のコミュニティから成り立っています。一匹狼を気取る人もいますが、現実的には知らず知らずのうちに必ず何処かに「所属」し、周囲との関係性のバランスの中で生きているのです。
つまり、山中など何のインフラもない環境で、自給自足の生活をしている人以外、必ず人との繋がりはあるはずです。
その中で、誰に何を求め、誰に何をやらせ、自分は何処で何をするのか……適材適所と言えばそれまでですが、その大前提として性格や個性の特性と共に、自主性を無視してはいけないのです。
つまり、向いてないこと、出来ないこと、やりたくないことを強制してはいけないのです。ただ、嫌なこと、無理なことは避けてもいい、やらせてはいけない、という意味ではなく、自発的にそこに取り組んでみようと思うように誘導することは必要かもしれません。
向いていることとやりたいことは、必ずしも一致しません。向いているのにやりたくないこともありますし、向いていないのにやりたいこともあります。その辺を上手く見極め、やるもやらないも自主的に選択するように誘導すること、若しくは自分で気付くことは、とても大切だと思うのです。
そういった意味では、無理矢理吹き飛ばすという、北風の旅人の自主性を無視したやり方は大間違いですので、確かにそこだけを切り取ると「教訓」にもなっています。同時に、太陽の「自主的に脱ぐように促す」やり方も正解でしょう。
でも、私はアンフェアなルールが気に入らないのです。
(了)
過去に、この寓話のパロディも書いています。
モチーフは本記事と同じですけど💦