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Le Pianiste プロローグ

プロローグ 〜2004年、那古野〜

 時々、二〇〇四年の記憶が蘇る。映画の予告映像のような断片的なシーンの継ぎ接ぎで、脳内のスクリーンに映し出されるのだ。
 私にとって、この年の年末の数日間の体験は、後にも先にもないぐらい、強烈な思い出として残っている。たとえるなら、たっぷりとバターを染み込ませた分厚いパンケーキのよう。それぐらい、濃密でボリューミーな毎日だった。

 もっとも、二〇〇四年が特別だったのは、私に限った話ではないだろう。この年に、個人的な思い出がある人もいるだろう。
 しかし、もっと広い目で見ても特殊な年であったように思う。特に下半期においては、私が住む中部地方、とりわけ愛知県においては、かつての高度経済成長期を彷彿させるかのように、ちょっとしたバブル期と言っても過言でない程に街中が活気付いていた。というのも、翌二〇〇五年には、国を挙げて取り組む大きなイベントが待ち構えており、諸々の準備が佳境に入っていたのだ。

「愛知万博(愛・地球博)の開催」
「中部国際空港(セントレア)の開港」
「イタリア村の開園」

 当然ながら、これらに伴うインフラ整備も、着々と進められていた。その筆頭は、やはり交通インフラだろう。中でも特殊な事例は、国内初のリニアモーターカーによる鉄道(リニモ)の開通が挙げられる。
 リニアモーターカー……子供の頃からずっと間もなく完成と言われつつ、一向に実用化されないでいた、あのリニアモーターカーだ。四十年以上も前から、あと二十〜三十年で無くなると言われ続けているのに全く枯渇する様子のない石油のように、私は漠然とリニアモーターカーが日の目を見ることはないと思っていた。
 それが、ごく短い区間のスロー走行とはいえ、ようやく実用化されることになったのだ。万博とは関係なく、一度は乗ってみたいと思っていた。
 那古野駅から万博会場へ公共交通機関で向かう場合、地下鉄東山線を利用することになる。しかし、東山線の終着駅「藤が丘」から万博会場までは、かなり距離があった。この区間を繋ぐ交通インフラとして、リニモが採用されたのだ。
 万博開催中は、フル回転で活躍したし、私も数回乗ることが出来た。子供の頃に散々聞かされたリニアモーターカーの話は何だったの? というぐらい、なんてことのない乗り物だったのだが。
 なんであれ、日本で初めてリニアモーターカーの常設実用路線が、この時期に開通したのだ。

 また、自動車道路では、那古野市をぐるっと一周する環状線(国道302号線)も完成し、従来の各幹線道路と接続され、市内の移動は格段にコンパクトで便利になった。これは、普段から車で色んな地域へ移動をする仕事をしている私にとって、とても有意義な都市改造であった。
 もっとも、道路のインフラは、仕上がるまでの間は苦痛を伴うもの。この時期の市内は、何処に向かうにも工事渋滞だらけだった。でもまぁ、結果的にはこの大改造は正解だったと言えるだろう。
 当然ながら、遠方からの利便性も改善され、東名高速道路から万博会場へのアクセス道路となる那古野瀬戸道路も開通、また岐阜方面から豊田市を結ぶ東海環状自動車道もほぼ同時に開通した。更に、万博開幕まで三ヶ月半というギリギリのタイミングで、伊勢湾岸道も東名高速道路と繋がり三重方面からのアクセスも便利になった。
 逆に言えば、那古野から三重方面に向かうのも随分と楽になった。やはり、仕事柄、自動車での移動が多い私にとっては、高速道路の拡充はありがたかった。

 空の玄関口も整えられた。
 万博開幕の一ヶ月前に開港予定の中部国際空港へは、那古野市内から手軽にアクセス出来るように、専用の高速道路が開通し、鉄道も整備された。もっとも、これは私の生活には、直接的な影響はないのだが。
 これだけの大事業が、私の住む愛知県の至る所で同時進行で進められていたのだ。なので、全国的に不景気に傾きつつある世情(と言っても、リーマンショックの前の話だが)を尻目に、愛知県、特に那古野市は好景気に湧き、街中がとても活気に満ち溢れていたのも当然と言えるだろう。



 景気が好転している時は、経済だけでなく芸術活動も活性化されるもの。モーツァルトやワーグナーの例を持ち出すまでもなく、殊更、音楽家がパトロンにより支えられてきたことは歴史が証明してくれるだろう。
 現代社会も然り。流石に形態こそ違うものの、少しのゆとりが出来ると文化事業に手を出す大企業や公的機関は、非常に多いのだ。それだけ音楽を始めとした「アート」事業は母体のイメージアップに繋がりやすく、娯楽性も高い上、宣伝効果も抜群なのだろう。
 反面、不景気になると真っ先に打ち切られるのも文化事業だ。つまり、直接的な営利だけに着目すると、採算性は見込めないのだろう。当然ながら、間接的に「音楽」に依存している私の仕事も、世の中の景気に大きな影響を受けることになる。実際に、その実感は強く持っている。

 そんな二〇〇四年の年末のこと、イタリアから双子のピアニストが来日した。
 彼等は、演奏家としての実力は確かだが、決して世界水準の著名ピアニストではない。むしろ、「無名」と言い切ってもいいだろう。しかし、私にとっては特別な存在だった。というのも、彼等は、異性とは言え、私がイタリアで働いていた時の唯一とも言える理解者だったのだ。
 念の為付け加えると、双子はどちらも既婚者であり、敬虔なクリスチャンでもある。真摯にピアノと向き合い、私とも「奏者」と「技術者」としてのプロフェッショナルな関係に過ぎない。
 同時に、性差や国籍、民族などという「壁」のない、風通しの良い「友人」でもあった。ピアノについて、一晩中話し込んだこともあるし、サッカーやF1など、私にはどうでもいい話を力説されたこともある。キツめの下ネタもよく投げ掛けられたが、それに関しては「壁のない付き合い」だからではなく、彼らがイタリア人だからだと思っている。
 ともあれ、年末年始を挟む約二週間の滞在中は、マネージャー兼運転手、通訳、そして専属調律師として、双子のピアニストと行動を共にすることになった。タイトでハードなスケジュールとは裏腹に、毎日が楽しく新鮮で、そして厳しく、ピアノや音楽について色々なことを考えさせられ、とても充実した二週間だった。
 その時の経験は、私の人生の中で最も貴重な糧となり、後の仕事や生活にも様々な影響を与えることになった……いや、今尚なっていると思っている。

 この物語は、彼らと過ごした二週間——いや、そのうちの前半一週間だけという、短い期間に起きた出来事について書いたものだ。具体的には、二〇〇四年のクリスマスから大晦日までの一週間……この間に体験したエピソードから垣間見える(かもしれない)、音楽業界の様々なしがらみやお金の動き、ピアニスト達の真摯な音楽への取組みなどが、誰かに、少しでも伝われば幸いである。


(次話)


ということで、本日より連載を始めます。
タイトルの【Le Pianiste】は、『ピアニストたち』という意味のイタリア語です。
以前、【La Pianista】という長篇を書きましたが、それにタイトルだけ準えました。内容は続編でも何でもなく、関連もなく、全く別の物語です。

実は、以前、他サイトで【An die Freude】というタイトルの私小説を書きました。
本作は、これをベースにフィクションの小説に書き直したものです。
フィクションとはいえ、作中に出てくるエピソードの大半は、私の実体験に近いものです。
音楽界やピアニストの実情など、少しでも「生々しさ」が伝わるといいなぁと思っております。

約45,000文字ぐらいの物語になりますが、最後までお付き合いいただけますと幸甚に存じます。



創作大賞2086に向けて、二話目以降のリンクを埋め込んでおきます。

第1章【コンクール】