Le Pianiste エピローグ
エピローグ 〜2024年、那古野〜
つい最近のことのようにも、前世並みに大昔にも思えるニコロージ兄弟の来日公演から、実際はまもなく二十年が経過しようとしているところだ。この時間が長いのか短いのか……そもそも、時間軸は主観により伸縮自在だと思っているので、短く感じるのも長く感じるのも、どちらも正解だろう。
しかし、その間に色んな出来事があったことは、感覚ではなく事実だ。私個人のことは触れないでおくが、当時はフリーランスになったばかりだった私が、二十年経った今も同じ仕事を継続出来ていることだけ伝えておこう。
波多野理事長とは特に何かトラブったわけでもないが、幸か不幸か……いや、「幸」に違いないのだが、十年ほど前に仕事の繋がりを断つことが出来、そのままずっと疎遠になっている。
基本的に、彼は、利用出来る人間にしか興味がない。距離が遠退くに連れ、私に忠誠心がないことに(ようやく)気付き始め、「使えない」という評価に変わっていったのだろう。
それでも、年に一度ぐらい、「手伝わせてやるぞ」と連絡が入ることはあった。つまり、その時はまだ利用出来ると考えたのだろう。しかし、彼が使う「手伝う」という動詞は、一般的な意味と乖離している。「オレに安価で仕え、オレの為に激務を喜んでこなし、オレに感謝すること」を表す動詞を「手伝う」と思っているのだ。
しかも、「手伝ってくれ」ではなく、「手伝わせてやる」なのだ。これは、つまり「奴隷にしてやる」という意味に限りなく近いだろう。もちろん、折角の有難いお誘いなのだが、時間的に厳しいので、と泣く泣くお断りした。
そういうやり取りを繰り返しているうちに、もう私の使い道はないと判断されたのだろう。この数年は全く連絡がなくなり、勿論、こちらから接触することは絶対にない為、そのまま疎遠になったのだ。
もっとも、風の便りでは既に第一線からは引退し、隠居に近い生活を送っているそうだ。連絡がないのも当然と言えば当然、次に連絡がある時は、御遺族……もとい、御家族からかもしれない。確か、現在は八十五歳ぐらいのはずだ。
杉本教授とも疎遠になっている。ただ、彼は、この地方の音楽界では有名人だ。数年前に脳梗塞で倒れ、一命は取り止めたもののほとんどの仕事から手を引くことになり、執筆業だけ細々と続けている、という話しは何処からともなく聞こえてくる。杉本も、もう八十歳を超えているはず。
実は、ニコロージの来日公演から七〜八年後のこと、今でも大親友の美穂が杉本と大きなトラブルになり、絶縁状態になったのだ。私にとっては、杉本より美穂の方がずっと大切な人。また、トラブルの原因も、客観的に見て一方的に杉本に非があるとしか思えなかったので、美穂と一緒になって杉本を非難した。
美穂は、調律師と顧客という関係だけではなく、親戚のような感覚で、いや、時には姉妹のように付き合える大親友だ。更に、一時期は息子のピアノの先生でもあった。なので、杉本とは私も意図的に距離を取るようになっていた。
美穂は、今ではこの地方を代表するピアニストでもあり、沢山の門下生を抱える指導者でもある。数年前からは、音楽高校の講師も務めるようになり、指導者としてのやり甲斐を見出したようだ。演奏家と指導者、当面は二足の草鞋で活動を続けるそうだ。
国吉朱美とは、パーティーで親しくなってから、時々連絡を取り合う間柄にはなった。しかし、一過性のものだった。
基本的にイタリアに生活の基盤を置く彼女は、そもそも日本にいる時間の方が少なくて、自然とコンタクトを取る機会もなくなっていったのだ。そして、数年後にはイタリア人と結婚し、イタリア籍を取得、現在はローマ在住の正真正銘のイタリア人になっており、二児の母として子育てに奮闘しながら、ピアニストとしても地道に活動を続けているそうだ。
彼女は、本当に上手いこと、波多野や杉本を踏み台にステップアップを果たしたと言えるだろう。人生も、ピアニストとしての実力も、あのコンクールが大きな分岐点になったことは間違いない。
たまたまニコロージ兄弟が来日した年に開催されたコンクール、その兄弟による咄嗟の判断により、運良く優勝出来たのだ。しかし、彼女自身は審査の裏で起きていたことなど知らないままだ。ただ、手に入れたチャンスを上手く利用し、自分の生きる道を見つけたのだ。
そういった巡り合わせもまた、ピアニストとして生きる為に必要な要素だろう。まさに、運も実力のうち。もちろん、運だけではダメだが。
ナポリのテルさんは、コロナ禍にジェニファーと共にワクチンの接種を断固拒否し、それを機に、イタリアを出国しないといけなくなったそうだ。というのも、ジェニファーは学生ビザでイタリア入りし、そのまま学生ビザを数十年も更新していたのだ。
もちろん、現実的にそんな「学生」はいないが、イタリアには「モグリ」滞在の為に籍を置いてくれる闇学校なるものがある。年間数十万円程度納めておけば、永遠に「学生」でいられるのだ。
法基準はギリギリクリアしている為、政府も黙認しているのだが、コロナのワクチン拒否の制裁として、ジェニファーの「学生ビザ」は失効した。実質的な国外退去命令により、出国を余儀なくされたジェニファーは、母国のアメリカに帰る決断を下した。そして、その時五十代半ばに差し掛かっていたテルさんも、なんとジェニファーと一緒にアメリカに渡ったのだ。
無鉄砲で情熱的なテルさんらしい話ではあるが、その後どうなったのかは知らない。何処かで二人仲良く、元気に暮らしていることを願うしかない。
またいずれ何処かで会う機会があったとしたら、今度こそ「久しぶり」と感じるのだろうか。いつか、確認出来る日が来ることを信じたい。
ナポリと言えば、アントニオのことにも触れておこう。
私が彼の会社で働いていた時は、まだ「那古野・伊太利亜協会」なるものの存在さえ知らず、当然アントニオがナポリ側の代表ということも知らなかった。在伊中は、色々と衝突もあったのだが、彼には公私ともお世話になったことは間違いない。何より、ニコロージとの出会いも、彼の会社での仕事が最初なのだ。
那古野・伊太利亜協会と関わるようになってからも、アントニオと接することはなかったので、「こんな悪いことしてたのかぁ」と驚くことはあったものの、直接彼にネガティブな感情を持つこともなかった。
テルさんと最後に会った日の前日は、アントニオにディナーをご馳走になった。テルさんと違い、結果的にはアントニオと会うのはそれが正真正銘の「最後」になった。昨年の秋、アントニオは仕事中に突然倒れ、そのまま数時間後に息を引き取ったのだ。くも膜下出血だったらしい。
三悪人の残りの二人と比べると二十歳ぐらい若いのに、アントニオは六十代半ばで二人より先に旅立ってしまった。「憎まれっ子世にはばかる」とは、まさにこのことかもしれない。
ニコロージ兄弟は、帰国後すぐに、サイン入りのCDを送ってくれた。収録曲は、ベートーヴェンの第九(リスト編)、例のコンサートで弾いた曲だ。三人のかけがえのない思い出が詰まった曲なので、聴く度にあの大晦日を思い出すことになるのだろうなぁと思っていた。
しかし、何とすぐ翌年には兄弟との再会を果たすことになった。あの大晦日のコンサートは非常に評判が良く、和伊太の会とは全く関係のない音楽事務所に招聘され、翌年も全国各地で第九のコンサートを開催したのだ。もちろん、仕事上の接触は全くなかったのだが、那古野公演には私も足を運び、楽屋で三十分ぐらい話し込んだのだ。
更にその二年後にも来日公演を行い、会う機会も持てたのだが、それが今のところ最後の来日になっている。
その後、確か2010年頃からSNSで繋がるようになり、今でも時々メッセージのやり取りをしている。それぞれの奥様、ルチアとフランチェスカとも仲良く交流させて頂いている。またいつか五人でアンサンブルしたいな、なんてよく話題に上がってはいた。でも、いつの間にか皆んな子持ちになっており、この数年は交流も希薄になってきて五人で会う機会は得られないままだ。
愛・地球博の跡地は、「愛・地球博記念公園」、通称「モリコロパーク」として残されている。さすがに沢山のパビリオンなどの施設や建造物は大半が撤去されたものの、スケート場やテニス場、サイクリングコースなども新設され、老若男女、誰でも一日中楽しめる総合公園として、県内屈指の人気スポットになっていたのだが……更に、2022年11月1日には、この公園内にジブリパークがオープンしたのだ。
当時、ここまで長い目で見たイベントだったとは思えないが、結果的に、「愛・地球博」は跡地の有効活用やインフラの整備も含め、大成功だったのだろうと思っている。
そう、大きな事業は、最低でもこれぐらいのスパンで見ないといけないのだろう。当時の推進派も反対派も、きっとここまでの発展を予見していた人はいないと思う。良くも悪くも結果オーライな面もあるが、反省も学習もしっかりと検証し、今後に活かすべきだろう。
大晦日のコンサートからほんの数ヶ月後に開港した中部国際空港(セントレア)は、年々発展し、今では第二ターミナルも出来、国内有数のハブ空港として機能している。
セントラルとエアーポートを組み合わせて出来た「セントレア」という造語について、当時は色々なネガティヴな議論があったのだが、それももう今は昔。強引に突破した感は否めないものの、「ガソリンスタンド」のようにすっかり定着してしまい、違和感もなくなってきた。「慣れ」というのはおそろしいものだ。
ただ、セントレア南部の市町村の合併が立ち消えになった黒歴史は、忘れてはいけないだろう。その主な原因の一つとして、合併後の市の名前を「南セントレア市」にしようとしたことが挙げられる。市民アンケートを無視し、しかも改竄し、このセンスのカケラもない「造語」由来のカタカナ表記を市の名前にしようとした恥かしい過去を、県民は忘れてはいけない。
同じく2005年にオープンしたイタリア村は、早々と経営が破綻し、わずか数年後には跡形もなくなっている。その後、跡地のすぐ近くに——イタリア村とは別の場所だが——2017年にレゴランドが出来、隣にはモノづくり体験パーク「メイカーズ・ピア」も出来、観光地として栄えて……いるのかいないのか微妙な感じだ。
しかし、イタリア村は何だったのだろう? 結構な予算を注ぎ込み、それなりに人気も博していたのに……色んな部分であまりにも杜撰なところがあり、あっという間に消えてしまった。
特筆すべきことは、PFI事業だったことだろう。これは、簡潔に説明すると、公的機関や公有地などを利用し、民間企業が運営や経営を行う「官民」共同事業のことだ。しかし、上手く回っている時はメリットが多いのだが、少しでも経営が傾き始めると、官民による足の引っ張り合いや責任のなんなすり付け合いが起き、足並みが揃わなくなる。
イタリア村も、集客が減り始めた頃に大半が違法建築であることが判明したが、暗黙の了解だったとか許可済みだったとか、そんなわけないだろとか、官と民による言った言わないの水掛け論は痛々しい限りだった。結局、村内に建設中だった温浴施設も資金繰りが困難になり途中で投げ出され、運営会社が倒産し、閉村することになった。
イタリアかぶれの私から見ると、イタリアっぽい雰囲気を出そうとしつつ、村内の何処にもイタリアらしさを感じるところはなかった。それでも、コンセプトは明確だし、行ったら行ったでそれなりに楽しめるスポットでもあった。いや、実際に楽しかった。アイデア次第では、幾らでも発展出来る余地もあったように思う。
しかし、確かに立地条件が悪過ぎたこともあるのだが、PFIのデメリットばかりが目に付いた事業だったので、どの道、数年で破綻するのは避けられなかったのかもしれない。
那古野の黒歴史を上書きした事業になってしまった。
※
2004年の、那古野のバブリーな喧騒が懐かしい。あの時のエネルギッシュな街の活気も、万博の終了と共にぐっと落ち着き、その後はジワジワと不景気に傾いていく中、2008年のリーマンショックで完全に消え去った。その後、一度は立ち直ったかに見えた那古野の経済界も、近年はコロナ禍で減衰に転じた。
それでも、改めて振り返ってみると、色々なことがあったようで、でも淡々と月日は流れ、私自身はそれなりに楽しく過ごしてきたように思う。
近年は、企業も公的機関も文化事業に消極的にはなっているものの、音楽もアートもなくなることはない。必要なところに必要なだけ供給されている。本当は、それでいいのだろう。むしろ、その方が自然な形に思えてくる。
パトロンによる文化の潤いは、過剰供給の押し付けだったのかもしれない。
ついでに記しておくと、那古野・伊太利亜協会は、あの後ナポリで二回、那古野でも一回コンクールを開催したが……いつのまにか、協会自体が自然消滅した。もちろん、名称が違うだけの「宿り木の会」や「那古野ロンドンクラブ」も消えた。
メンバーの大半が高齢だったこともあるが、結局のところ、名を変え形を変えつつも、見栄とプライドをお金で買うだけの組織だったのだ。言ってみれば、大人のごっこ遊び……いや、イメクラに近いかもしれない。
贅沢な娯楽は、経済的なゆとりが後ろ盾になっている。それがなくなると、存続の意義を見失うだろう。アクセサリーと同じで、そもそもが、生きていく上で本能的には必要のないものだから。
特に、高齢になるに連れ、欲や情熱も失せていくのかもしれないから、「自然消滅」するのも必然であろう。
ニコロージと過ごした期間は、たったの二週間。その後の約二十年を週に換算すると、ほぼ千週間になる。つまり、僅か0.2%の体験だ。こうして単位を揃えて比べてみると……やはり、時間軸は伸縮自在なのだろう。
今でも目を閉じると、ステージで二台のピアノをかき鳴らすニコロージ兄弟の姿が脳裏に浮かぶ。二人でアイコンタクトを取り合い、呼吸を揃え、アンサンブルを作り上げる。今にも激しくて鋭くて、尚且つ、調和の取れた美しい音が飛んで来そうな気がしてくる。
さて、久しぶりに、ニコロージの第九のCDでも聴こうと思い、ケースを開いてみる。
ジャケットの裏表紙には、「Cara Mari」と大きく書かれ、その下に二人のサインと、弟のサンドロからのメッセージが寄せられている。
「ninniku chirai(ニンニク キライ)」と——。
(了)
【Le Pianste】をお読みくださいました皆さま、最後までお付き合いくださりありがとうございました。
本作は数年前に「私小説」として書いた作品に、大幅なフィクションを交えてリライトしたものです。
元は42,000文字程度でしたが、おそらくリライトでは書き足す方が多いと予想して、45,000文字ぐらいにはなるかなぁと思っていました。
しかし、この予想は大きくはずれてしまい、最終的には49,034文字にまで膨れ上がりました。
長編と呼ぶには短くて、短編にしてはやや長め、きっと中編に当たるのでしょうけど、中編という分類自体が然程使われてもおらず……タグでは長編とさせていただきました。
私にとってのイタリア生活は、毎日が「闘い」でした。
言葉も分からず、友達もいなくて、全員が敵に見えて、誰も信用出来ず、技術も未熟で、期待していたことと違い過ぎたことも多く、何のために来たのだろう? と思い悩む毎日で、帰国するのは負けだと思い込んでいて、最初の数ヶ月は陽気な国なのに鬱々と過ごしていました。
しかし、慣れなのか耐性が付いたのか、少しずつ色んなことが気にならなくなっていき、また、作中のテルさんとジェニファーに該当する人物に出会い、ナポリの良さにも目を向けられるようになりました。
食文化は本当に素晴らしいですし、胡散臭くしか見えなかったナポリの人も、こちらが心を開くと皆んな本当に(鬱陶しいぐらい)親切だったのです。
世話焼きというのか、情に厚いというのか……いつのまにか、ナポリもナポリの人も大好きになっていました。
色んなピアニストとも仲良くしていただき、コンサートにも時々招待されるようになりました。
そんな中、やっぱり特別な関係を築けたピアニストが、ニコロージ兄弟(仮名)です。
二人の奥様とも仲良くなって、五人でアンサンブルしたり食事したりという作中のエピソードは実話です。
それだけでなく、乗馬に連れていってもらったこともあるし、サッカーも見に行きました。
そんな彼等が来日すると聞いて、しかもマネージメントを依頼された時は、採算性を無視して「やります!」と即答しちゃったのです。
後にも先にも、波多野理事長(仮名)からの仕事を喜んで受けたことはありません。
とまぁ、語り出すともう一回最初から書いてしまいそうなので、この辺でやめておきます💦
最後までお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。