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Le Pianiste 第1章 ②

(前話)

第1章 コンクール ②

 さて、「那古野・伊太利亜協会」に話を戻そう。
 双子のピアニストが来日して数日後、例のピアノコンクールの決勝が行われたのだ。もちろん、たまたま日程が合ったのではない。ニコロージ兄弟も、予め特別審査員として招聘されていたのだ。なので、必然的に私もコンクール決勝の場に同席することになった。
 ここからはコンクール当日の話になるが、双子を連れて会場に到着した私は、あまりにも殺風景な空間に愕然とした。もっと華やかな会場を想像していたのだが、役所の多目的ホールだったのだ。キャパはせいぜい五十人ぐらい。ピアノは業界で5サイズと呼ばれている、やや大き目の家庭用グランドピアノ。奥行2メートル前後だろう。
 そして、コンテスタントと思しき女性が三人、最前列に座っていた。そのうちの一人は、何となく友人のピアニストに似ている気がしたが……まさか彼女が? いや、そんなはずはない! と打ち消す私もいた。もし彼女なら、優勝は間違いないだろう。でも、コンクールなんて出場する必要がないぐらい、この地方では既に高い評価を得ている彼女が、わざわざこんなちっぽけなコンクールにエントリーするとも思えない。
 三人のコンテスタント以外は、運営の手伝いだろうか、和伊太の会のメンバーが波多野理事長を含めて数人、そしておそらく審査員と思われる杉本教授と音楽評論家の荒川氏の姿も確認出来た。荒川氏とは面識はないが、この地方では有名な評論家なので私も顔は知っていた。それに、密かに彼の評論のファンでもあったのだ。
 とりあえず、私はニコロージ兄弟を連れて杉本教授の元へ挨拶に伺った。その時に、最前列の「彼女」を再確認したが……どうやら本当に友人かもしれない。ヘッドホンを掛けて何かを聴いている。集中しているのか、後を振り返ろうともしない。私も声を掛けることは憚れた。

 杉本教授に、簡単なプログラムを手渡された。このコンクールの概要が簡単にまとめられていた。どうやら、決勝は三名のピアニストで争われるようだ。
 そして、やはりというべきか、コンクール会場は一般公開はされていないようだ。聴衆は審査員とコンテスタント、そして、運営関係者だけ。ということは、私たちの到着により、全員会場入りしたことになる。公平性が何よりも大切であるコンクールにとって、非公開での決勝は他に類をみないスタイルだろう。
 そもそも、「決勝」と呼んではいるものの、「予選」があったのかどうかも疑わしいぐらいの小さなコンクールのようだ。おそらく、三人とも協会の関係者と何らかの繋がりのあるピアニストだろう。一般公募すらしていなかったのではないか? と私は疑っていた。
 少なくとも、私もピアノ業界に身を置いているが、「那古野・伊太利亜協会ピアノコンクール」なんて聞いたことがないのだ。色んなレスナーやピアニストとの交流の中でも、話題に上がったことさえない。おそらく、身内で回しているだけの、閉鎖的なコンクールではないだろうか? 三人とも関係者から「出てみないか?」と……いや、下手すれば「出てもらえないか?」と誘われ、エントリーしたのではないだろうか?
 勝っても負けても意味のないような、参加することにさえ意義もないようなコンクールなのかもしれない。何かあるとすれば、きっと主催者達の自己満足だけだろう。

 実情や経緯はどうであれ、実際にコンクールは開催され、まさに今から始まるのだ。説明によると、決勝のステージでは各自三十分の持ち時間を与えられるとのこと。演奏順は、あらかじめくじ引きで決められていた。プログラムには、三番目に演奏するピアニストとして、私の親友の名前が書かれていた。やはり、彼女だったのだ。
 演目の条件は、イタリアオペラのトランスクリプション(ピアノソロに書き換えたもの)を一曲以上含めば、他にはピアノ独奏曲であれば何の制限もないようだ。その条件で、自由にプログラムを組めばいい。
 また、特に審査項目もなく、点数を付けることもないらしい。ただ三人の演奏を評価し、順位を付けるだけのようだ。このシステムだと、コンクールに必須の公平性や客観性に欠ける気もするが、ここでは審査員が良いと思った演奏が正義なのだ。

 そして、杉本教授の簡単な挨拶があり、そのままコンクールは開始された。
 一人目のコンテスタントは、おそらく二十代前半だと思われる、アイドルのような可愛らしい女性だ。プロフィールを見る限りでは、全国的に見てもかなり難易度の高い芸大を出ており、海外留学の経験もあり、著名な指導者に師事した時期もあるようだ。更に、マイナーなコンクールでの優勝経験もあるピアニストらしい。
 しかし、演奏家のプロフィールほどあてにならないものはない。流石に二十代の若手ピアニストで経歴詐称はないだろうが(実は、ベテランだと詐称している人も結構いるのだが)、彼女の演奏はプロフィールからのイメージとは程遠く、明らかにソリストの域に達していなかった。音大生の発表会レヴェルと言ってもいいだろう。
 何故、彼女が決勝まで残れたのか(予選があったとしたら、だが)、私には不思議でしかなかった。このコンクールの水準そのものがその程度なのかもしれないし、頼まれて渋々参加しただけで本気で取り組んでいないのかもしれない。
 つまり、準備か実力か、若しくはその両方が不足しているのは明らかで、とにかく私には聴くことが苦痛でしかない三十分だった。

 そして、二人目。
 国吉朱美という、少しだけ面識のあるピアニストだったので贔屓目に聴こうと思ったのだが……残念ながら、私には何も響かない演奏だった。既に、若手実力派という評価は築いているはずの彼女だが、無難にまとめ上げた演奏のように感じたのだ。
 一方で、技巧的な秀逸さは十分に感じた。正確かつ精密なタッチで、ミスもなく、テンポ感も音の粒も見事に揃っている。几帳面で、教科書通りの丁寧な演奏だが、強いて悪意で受け取ると、こぢんまりとまとまっているだけで個性は感じられない。
 表現力も単調なモノトーンのようで、地味な印象は拭えない。ダイナミクスの幅も小さく、音色も綺麗だが弱々しくて小粒なのだ。一方で、丁寧に音を出し、緻密に音楽を組み立てるアプローチは評価出来るだろう。
 技巧的には、相当な実力者ではあることは間違いない。しかし、私にはそれ以上のものは見出せなかった。もう一つ、何か物足りないものを感じる演奏だったのだ。

 最後のピアニストは……私の友人の加藤美穂だった。美穂の実力は把握しているつもりだ。二人の演奏を聴いた後となれば、普通に弾けば優勝間違いないだろうと確信していた。
 美穂はナポリに行っちゃうのかぁ……しばらく会えなくなるなぁ……と、弾く前からそんなことを考えたぐらい、美穂の実力は抜き出ていたのだ。そもそも、客観的に見ても、他の二人とは違い、既に美穂はプロのピアニストとしてそれなりの評価を固めており、今更こんなちっぽけなコンクールに出場するレベルではないのだ。
 実際、美穂がピアノに触れた途端、ピアノは全く違う楽器に変貌した。眠っていたポテンシャルを最大限に引き出し、前の二人とは別次元の音を引き出した。楽器をフルに響かせ、音を飛ばした。そして、個性豊かに分かり易い解釈で、ダイナミックにリゴレットのパラフレーズを弾きこなした。
 超絶技巧を要するパッセージも、何事もないように軽やかに疾走する。それでも、旋律はまさにイタリアオペラのアリアのように伸びやかに、時にリリカルに歌い上げる。美穂も気合いが乗っていて、ここに照準を合わせていたのも明らかで、無料で聴かせてもらうのが申し訳ないぐらい、鬼気迫る熱演だった。

 美穂の演奏が終わると、三者と運営スタッフには控え室に下がってもらい、会場では審査員による審査が始まった。私も、通訳として立ち会うことになった。


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