メモリアルイヤー

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 来年は、バロック音楽の二大巨匠、バッハとヘンデルがめでたく340歳を迎えます。もちろん、生きていれば、ですけど。つまり、生誕340年ということです。
 他にも、ナポリ楽派の始祖とも言われているアレッサンドロ・スカルラッティというバロック期を代表する作曲家がいるのですが、その息子のドメニコ・スカルラッティも同じ年に生まれました。ドメニコもバッハの時代には欠かせないビッグネームですので、1685年は音楽史にとって偉大な作曲家が三人も生まれた記念すべき年なのです。

 全くの余談ですけど、さっきから「ドメニコ」と入力しようとすると、予測変換の一つ目に「ダメな子」と出てくるので笑いそうになっています。これ、ドメニコが本当にダメな子だったらメチャクチャ面白いネタなのですけど、残念ながらドメニコも素晴らしい作品を沢山残した偉人ですので、中途半端なネタになってしまいますね。

 さて、クラシック音楽家の生誕◯年とか没後◯年といった「メモリアルイヤー」とか銘打った喧伝は、おそらく1991年のヤツの「没後200年」が世界的にブレークしたことに由来するのではないでしょうか。知らんけど。
 一応……ヤツとは、モーツァルトです。もちろん、「浪速の」じゃない方の本家本元のモーツァルトです。

 でも、そこそこ有名なクラシックの作曲家が百人いるとすると、「生誕◯年」と「没後◯年」で沢山のメモリアルイヤーが出来ちゃうのです。しかも、50とか100とかキリのいい数字だけでなく、前述した340なんて数字もメモリアルな扱いにしちゃうと、無限に出来てしまいます。
 もっとも、実際には50の倍数しかありがたみがないようですが……それでも、毎年誰かのメモリアルイヤーになっています。

 ちなみに、2024年はメモリアルの当たり年、沢山の有名作曲家のメモリアルイヤーだったのです。
 例えば、ブルックナー、ライネッケ、スメタナは生誕200年、シェーンベルクとホルストは生誕150年、フォーレとプッチーニは没後100年、ミヨーは没後50年でした。
 モーツァルトやバッハのようなインパクトはないにしろ、クラシック音楽の愛好家にとっては欠かせない大作曲家の揃い踏みだったのです。

 メモリアルイヤーは、かつては音楽ビジネスの恰好のネタになり、その作曲家に因んだプログラムで集客を開拓する餌にもなっていました。でも、こうも毎年続けられると、飽きられるのも必然……今では、逆にまだそんなことしてるの? と恥ずかしく映ることも(個人的には)あるぐらいです。
 一方で、矛盾するようですが音楽ビジネスとして必要な要素であることは否めないと思っています。特に「クラシック」という格式と伝統を重んじるジャンルにおいては、数少ない「イベント」として機能する「お題」でもありますから、飽きられようがメモリアルイヤーを絡めた演奏の機会はなくさないで欲しいと思うのです。

 しかし、実際に1991年のモーツァルトの後に盛り上がったメモリアルイヤーは、1993年の「チャイコフスキー没後100年」が少し話題になったぐらいではないでしょうか?
 他には、2020年の「ベートーヴェン生誕250年」は盛り上がる可能性もあったのですが、コロナの影響で音楽ビジネスは壊滅的な被害を受け、コンサート自体がほぼなくなりましたので、話題にもなりませんでした。まぁ、それも運命なのでしょう。ジャジャジャジャーン。
 それでも、ベートーヴェンはほんの数年後、2027年にもメモリアルイヤーを迎えます。没後200年です。もちろん、「現代のベートーヴェン」と言われた◯村河内氏ではなく、本物のベートーヴェンのことです。
 さすがに1991年のモーツァルトほどの盛り上がりはないでしょうけど、負けず劣らずの人気作曲家ですから、クラシック音楽界の活性化に少しは貢献してくれるのでは? と期待しています。

 話を戻しますが、バッハとヘンデルのメモリアルイヤーも大きな話題になるとは思います。それこそ、いつぞやのモーツァルトに匹敵するぐらい、盛り上がる可能性もあります。しかし、それはきっと十年後の2035年でしょう。なんせ、生誕350年ですからね。
 何がすごいって、350年経っても色褪せない音楽を作ったことですね。特に、バッハは対位法を極限まで極めてしまい、後の作曲家はすべてバッハをテキストに応用することでしか個性を発揮出来なくなったのです。
 これ、ショートショートに例えると「星新一」、コントなら「チャプリン」のような位置付けに近いでしょう。もう、そのフォーマットで出来ることはやり尽くされたのです。

 バッハとヘンデルは2035年に期待するとして、では2025年は誰のメモリアルイヤーなのか? と調べますと、2024年ほど数はないにしろ、なかなかのビッグネームがいました!

・モーリス・ラヴェル 生誕150年
・ヨハン・シュトラウス2世 生誕200年
・エリック・サティ 没後100年
・ショスタコーヴィチ 没後50年

 この辺りが少しは話題になりそうですね。
 特に、シュトラウスと言えばニューイヤーコンサートですから、年始早々に生誕200年ってことを誰かが何処かで軽く触れるのではないでしょうか。知らんけど。

 他にも、映画「アマデウス」でお馴染みのサリエリや、芥川也寸志(龍之介の息子)、ショパンの次にポーランドで有名かもしれないモシュコフスキーなど、ややマニアックな音楽家もメモリアルイヤーになっています。
 余談ですけど、モシュコフスキーの予測変換の候補は「模写かハスキー」でした。

 あとは、クラシックとは違いますが、日本が誇るミュージシャンのYOSHIKIさんも生誕60年……えっ? マジ? YOSHIKIが還暦? とビックリしました。

 でも、こういう「記念」を祝する文化って、世界共通の価値観でもあるのかな、と思うと、つくづく人間って「区切り」を大切にする動物なんだなぁと思うのです。
 人生でも、誕生日や結婚記念日、動物を飼われている方なら「うちの子記念日」なんてものもありますけど、その都度、◯回目の記念日なのか数え、お祝いする家庭も珍しくないでしょう。告白した日、別れた日、亡くなった日、起業した日、引越した日……など、「起点」となる日は、誰もがカレンダーに幾つか忍ばせているものでしょう。

 そもそも、公転周期を一年と区切り、自転周期を一日と区切り、一日を24時間で区切り……と、時間軸は全て色んな単位で均等に区切ることが大前提になっています。その区切りを何個重ねたか? ってことがメモリアルになるのですが、そこで採用されるのは50とか100とか、必ず十進法の節になる数字であることも面白いですね! 自然現象は十二進法の方がスッキリすることも多いのですが。
 だとしても、バッハとヘンデルの340年は半端な数字に違いないのですけど、YOSHIKIさんの生誕60年はキリのいい数字になります。

 さて、まもなく一年の区切りを迎えます。
 大晦日と元日で、私の本質は何も変わらないのですけど、区切ることによって「新旧」が生まれるのかもしれません。公転周期から考えると、何故そこを起点にしたのか不思議なのですけど、ゴチャゴチャ言わず、穏やかに今年を終え、新年をポジティブに迎えられれば、と思います。
 そして、偉人でもなんでもない凡人の私は、数百年後に「生まれた年」「死んだ年」なんてものが起点になるわけありません。だからこそ、生きている間だけでも、毎年が私にとってのメモリアルな一年になって欲しいと思うのです。

(了)


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