神とはなんぞやという原点に戻ってみる
私はもともと小学2年生まではクリスチャンでした。
洗礼も受けてて「セシリア」という名前も持っています。
でもどうしても教会の陰陰とした雰囲気が合わなくて
それ以来「ミサ」というものには行っていません。
幼稚園がカトリック幼稚園だったので
お祈りをするということが多かった。
だけどポジティブなものではなく
「パパとママと弟が死にませんように」とか
「地獄に行きませんように」とか
とてもネガティブなものだったように思う。
というのも、日曜学校のたびに
「悪いことをしたら地獄におちる」みたいな話を
きかなくちゃいけないのですよ。
ともかく私の中ではとても暗いイメージでした。
幼少期から神といえば
あの十字架のイエス様だと思っていました。
これはかなり大きくなるまで。
祖父母は父方のおばあちゃんしかいなかっのですが
真言宗だったように思います。
なのでお仏壇の前に座って手を合わせることもありましたし
神社でお賽銭を入れてカラカラ鳴らしてお参りもします。
でも何か困ったことがあったりすると
どの神様にたのんでいるのかわからないけど
「神様、お願いします」と都合よくお願いをしたりして。
宗教を持っている人はその宗教の神様が自分にとっての神なのかも
しれないのですが、私には何が神なのかわからない。
最近は一つの命=神様 かなあなんて思います。
人間も犬も猫も雀もカラスも植物も
命あるものには神様が宿っているのかなあ。と。
そう思うと「殺虫」なんてなくなりますよー。
庭に出てあたりを観察すると
そこには一つの世界というか宇宙というか
そういう循環みたいなものを見出すことができるんです。
生ゴミを土に混ぜて発酵させてるんですけど
少しあったかい時期だと1週間もすれば土に還るんですよ。
土の中には何かの幼虫がいたりミミズがいたりして
よもぎやからすのえんどうにはてんとう虫が来る。
宿根草は毎年ちゃんと芽を出すし
蝶が来て蜂が来て
私が土を触り始めると鳥たちが大きな声で鳴いて
知らせるのよね。
「もうすぐ獲物にありつけるかも」ってね。
湿気の多いところには水が好きな植物がいて
水が苦手な植物を助けるし
野草たちはそれぞれの持場で土を中性に戻していってくれたり
根っこで土を耕してくれる。
立派に循環している。
そこらあたりがキラキラとして
なかなか家の中に入れなくなります。笑
現代の宗教的な神というものは
政治と似ているところがあって
人を統一させることとお金を集めることのために
できたものかもしれません。
「はい」が「YESイエス」であるように。
誰もが従うときには「イエス」を使うってすごくないですか。
でも、本来のネイティブなところから生まれてきた神というものは
自然に対する神だったり
何かこう目に見えない不思議なエネルギーだったり
もっともっと土に近いものだったように思います。
最近、毎日のように英語の勉強を兼ねて
世界中の歴史や政治の勉強をしています。
そうすると、基本宗教に基づいて物事が進んでいることに
気がついたんですよ。
今までそういうことを思ったこともなかったんですが
あらゆるところに宗教的な流れと数字や言葉などの
暗号が隠されていて面白い面白い。
西洋の占い師の先読みの方法がわかったような。笑
そして神様は「I」(愛)に基づいていて
示し申す(コミュニケーション)
令和(霊話)の時代、
それぞれの霊(生き死に関わらず 魂・スピリット)と話すこと
なのかなあと思います。
私の中での結論は
「あらゆるもの全て みーんな神様なのだ」
ですね。
それでいいのだー。
薄伽梵(ばきゃぼん)梵!
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