『これやこの』の感想が書けない
『いんよう!』にも月1回いらっしゃる、サンキュータツオさんの著書『これやこの』という随筆集。
これを読むか読むまいか、ずっと迷っていました。
私には昨年末に、その人となりを過去形で語らねばならなくなった先輩がいます。
10年ちょっと、毎日のように顔をあわせていた時期もあり、年に数回の時期もあり、最後は月1回のお付き合いでした。
『これやこの』を書店で見かけた時には、それでも迷いなく手に取っていました。
支払いをキャッシュレスにはせず、「現金で」と伝えて財布を取り出したことも覚えています。
帰宅後に、様々な生活の雑事を済ませて、KALDIのリキッドアイスティーを用意してから考え込んでしまったのです。
亡くしてきた人についての随筆集なんだよね、どうしよう。
この〝どうしよう〟という言葉は、私の思考においては頻出単語として上位に入ります。
ラインナップとしては〝仕方ない〟もありまして、今回はこの組み合わせで積み本となりました。
どうしよう、先輩を亡くしたばかりの私には難があるかもしれない。だから、まだ読めなくても仕方ないと感じたのです。
サンキュータツオさんという人は、過不足の調整が上手な人という印象がありました。
『いんよう!』を聴き始めるより前、上野鈴本で米粒写経を観たのが最初だったと記憶しています。
初めて米粒写経のお2人を生で見た時は、過剰な居島さんという人物を体験したという感じでした。
タツオさんがいつだか仰っていた、「日本でもクラスに一人もいない居島さんみたいなタイプ」という言葉そのままの方です。
漫才であっても、youtubeの公式で配信されている動画でも、過剰を体感させてくれる人です。
普通に生きていて、お腹が減ったとか時間がないといった、不足を体感することはたくさんあります。ないものねだりという言葉もありますし。
しかし、溢れんばかりの過剰を体感することは、なかなかに無いと思います。少なくとも、私はそうです。
だから居島さんという人物の、圧倒的なまでの記憶力や、知識に裏打ちされた話の圧力、ちょうどいいという満足感を超えてくる迫力。
こういった想定を超えてくる過剰を体感した時、不足しているものを俯瞰して補充してくれる人が、サンキュータツオさん!・・・という印象だったのです。
コンビではなく、お一人で出演されているものをみても、『いんよう!』のゲスト回でも、その印象は変わりませんでした。
その場にあわせて、過不足を調整して〝ちょうどいい〟状態を作り出すのが上手な人だと思っています。
そんなサンキュータツオさんが書かれたのが、『これやこの』という随筆集です。
いつぞや、春日太一さんが登場したガラパゴスイッチの動画内で、島津に触れた時に撤退戦の方が難しいという話がありました。
眼前の敵と戦うだけならば、障害を見極めて前をみていれば良い。
しかし、退路については全方向を向いていなければ、難しいからなのでしょう(だからこそ、島津はすごい!)
生きることの先にある死について、私にはこの撤退戦のイメージがあります。
そのことに直面するまで、どうするか手をうっていない人が多いという意味でも、似ていると勝手に思ってます。
『いんよう!』内にて、いっちーさんが取り組んでおられる活動を通して、何をしたいのかをお話になられることがあります。
これは、撤退戦なんて事態になる前に、もっと対策をたてて、避けられるものは避けて、準備しておくのが大事ですよ…ということかなと思って聞いています。
情報に触れていなくても、事前準備ができる人は、何が不足しているのかを俯瞰することに長けているのでしょう。
何と難しいことをなさろうとしておられるのか。
思考が迷子になりつつありますが、『これやこの』という随筆集は、この過不足を調整することについて長けた人が書いた本だと思っています。
喪失感を引きずったままの私の状態では、読むことはできても消化することはできない気がしました。
だからこそ自分のコンディションを整えておいて、読んでも大丈夫という状態になるまで待つ〝つもり〟でした。
つまり、本日読んでしまったということです。
まだ読むには早かったことは間違いありません、とにかく再読する必要があることは解りました。
身近な人が亡くなるという喪失がテーマの日常系にも思えます。
私には圧倒的に痛かった表題作と、読み手の状態を調整するような他の作品の取り合わせの妙味も感じます。
こういうところが良かった!と誰かに認めてもらう必要がないほど、絶対的に価値があるものだとも思います。
自分の中に仕舞っておきたいものがたくさんある本ですが、こんな風に感想を言語化してみても、そのどれもが違うようにも感じます。
言語化チャレンジを目標にして書いているのがこのnoteですので、自分の中で間違いない感想を一文にて。
動感の赴くところにある本です。