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1.17の記憶(阪神大震災から30年)

早朝に違和感を覚える

1995年1月17日5時46分 私の体が宙を舞っている感覚で目が覚めた。

何これ? 思考回路が停止した。

しばらくして布団の上に着地。

途端に激しい横揺れ。

「地震だ」と理解するまで時間はかからなかった。

「頭を守らなきゃ」ととっさに思い、布団を頭まで被る。

長い間、揺れを感じていた。 揺れが治ると体を起こしてみた。

まず、家族のところに行かないとも思い立とうとするも、立てなかった。

何故?と思い手探りで周囲を確認すると、私の足と上に本棚が倒れていた。分厚い冬布団で痛みは感じなかった。 父が母や弟を呼ぶ声がする。

「待っていたら助けてもらえるかも」と思っていたら、外から「火事だ」との声が。聞こえた。

「私は生きながらに焼かれてしまうのか」と怖くなった。

その後は家族に助けられて家を脱出、しばらくは暗い街並みの中、四方に火事の煙が出ているのをみながら夜明けを待った。

共助


多くの家屋が倒れ、また火事に見舞われた。救助が必要な人も多く、119通報しても被害が甚大で、対応しきれなかった。その中で救助に向かった救急や消防では対応しきれず、市民がお互いに助け合う行動がなされた。誰かが「ノコギリを貸してほしい」と言えば「我が家にあったはず」と家に取りに行く。赤子を抱えているお母さんが「家に忘れ物が」と言えば「赤ちゃんは抱いておくから、早く取りに行きなさい」と言う近所の人がいる。
1995年には「共助」という言葉はなかった。しかし阪神大震災が語り継がれる


夜が明けて

避難所が開放されるのを知り、近くの中学校に避難。

南の方にある避難所に火が近づいているからと、さらに避難者が流れ込んできた。

半壊であったはずの家も、電気の復旧に伴い壊れた電線からショートしたのだ。そのショートした場所から出荷して、さらに風向きが我が家へ来て家は全焼した。

通電火災という言葉が馴染んでなかった時代だが、電気の復興が早かったぶん通電火災が多かった。

1月17日には救援物資は来ず、燃える前の家から持ち出した食料をお隣さんと分けながら食べたのはお昼過ぎ。空腹だとかの感情は麻痺していた。
避難所は昼夜問わず電気が光々と付けられ、避難してきた人でが集められプライベートがなかった。人形を抱っこしたおじいちゃん、避難所なのに濃い化粧をしたおばちゃん、こんなカオスな状態って何?と高校生の私は戸惑っていた。

ボランティア


被災者がボランティアとなり避難所運営がなされていた。
届いた救援物資を、避難者に配るもの被災者自身だった。
ボランティアをしていた友達のお父さんが「マッキー宛に電話が欲しいとメッセージがあったよ」とメモを渡してくれた。思わず電話したら、いつも可愛がってくれていた友達のお母さんだった。優しい声にホッとして、涙が出たのを覚えている

これがボランティア元年言われる所以だろう。


復興に向かった神戸


まだ街が焼け野原だったころ、JRの車窓から街を見下ろした人の何とも言えない表情を見た瞬間「ひどい状況になれすぎた自分は普通じゃないんだろうな」と思った。

「がんばろう神戸」
「お買い物は神戸で」を合言葉に、神戸は復興していった。
街を再建するために、たくさんの工事が行われた。
元の街が戻るまで、たくさんの人と時間がかかった。

神戸の底力と沢山の人の優しさで、神戸は復興した。
そして2025年の今、三宮周辺は再開発をしている。


神戸から被災地へ

阪神大震災以降も、残念なことに日本各地、または世界で災害は起きている。
直下型地震を経験した神戸は、災害が起これば率先して神戸から被災地へ救助に行くことになった。被災経験を活かし、災害地で救助を行う為に。助け合いの行動を、神戸は示す待ちとなった。


神戸(兵庫県)の取り組み

1月17日は「ひょうご安全の日」として定められています。阪神大震災の教訓を継承し、いつまでも安れることなく、安全で安心な社会づくりを期する日としています。

1月は減災月間としています。神戸に愛されてるローカルラジオkissFM-KOBEでは「1.17プロジェクト 減災」として、減災や防災を呼び掛けています。

まとめ

阪神大震災では6432名が亡くなり、負傷者14678名、全壊104906棟、半壊144274棟、全焼7386棟の痛みを伴った。

たくさんの命が失われ、生き残った者も心の痛みを負った。
町も崩壊し、ふるさとが失われた。神戸市の小学校で音楽の先生をしていた臼井真先生が「幸せを運べるように」を作曲し、子供たちが歌い、被災地から神戸市中に広がった。

神戸には震災を経験した人は転出や死亡などで減っていき、震災後に生まれてきた人も多く、神戸にいても震災を知らない人が増えてきた。


阪神大震災から30年、忘れてはいけない。伝えていきたい、これからの災害に備えるためにも、これから減災につなげるためにも必要な事なのです。

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