![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/102111407/rectangle_large_type_2_c4d8f4fb655d8f25b0740cd490dbf00f.jpeg?width=1200)
災害に備えた防災をするために
![](https://assets.st-note.com/img/1680532193083-ut9UzyqzHM.jpg?width=1200)
はじめに
災害国である日本に住んでいる以上、誰もが災害と遭遇してもおかしくない状況ともいえます。
私が経験した「阪神・淡路大震災」は1995年1月17日AM5時46分に阪神・淡路地域を襲い、日本で初めての近代的な大都市における直下地震でした。マグニチュード7.3の大きな破壊力を持ち、神戸市では震度6(一部地域では震度7)の力が働き、多大な被害をもたらしました。また死者6434人という尊い命を犠牲にしました。
死因の多くは家具や家屋による圧迫死が8割以上になっています。負傷者数は43792人(うち重傷者10683人)に上ったため、被害の大きさが解ります。住宅被害は63万686棟(うち全壊は10万4906棟)に上り、焼損棟数は574棟、そのうちのほとんどの7036棟は全焼でした。
大規模火災へと延焼拡大した火災の多くは、古い木造家屋が密集している地域にて発生し、道路をふさいだ倒壊した家屋も延焼拡大を助長しました。この地震が来るまでは「関西に地震はない」という迷信が信じられており、災害を意識していな地域に災害が起こったと言えます。
阪神・淡路大震災がもたらした被害と問題点
高速道路は一部倒壊し、線路もゆがみ、水道やガス、電気などのライフラインには多大な影響が出たため、多くの市民の生活に甚大な影響を与えることになりました。外に出たらガスのにおいが立ち込め、コンクリートの壁は電柱に持たれかけている状況で、街中でさえ非常事態でした。
高速道路橋では1980年以前に建設されたコンクリート橋脚が破損してしまいました。昭和55年道路橋示方書耐震設計編以前の基準により建設されたコンクリート橋脚は、震災に耐えられるものではありませんでした。
また復旧に時間がかかり、避難所で生活ところでの生活で精神的疲労や、子供や高齢者、障碍者への心理的影響を与えました。
産業面でも、企業が市外に移転や、被災による生産量の低下、神戸港が被災したことによりコンテナの荷物が他の港へシフトするなどの影響を与えました。高速道路の寸断や復旧工事による交通容量の不足により、神戸のみならず、日本経済に深刻な影響を及ぼしました。
多数の避難住民に対する生活必需物資の提供のための事前の準備、特に物資の調達方法や輸送拠点の確保等の必要性が再認識されました。災害弱者の生活再建や商店等の経営再建に困難が生じました。
経営困難になった商店から買い物が出来ず、必要なものが揃えられないこともありました。準備をしていれば、被災による不便さも軽減され、ストレスを少しは減らせたでしょう。
また、道路の損壊及び車両の集中による極度の渋滞に加え、鉄道及び港湾の損壊も著しく、要員、物資等の緊急輸送に著しい支障が生じました。物資・食料の受入は、被災自治体の市役所・区役所などで行われました。保管場所・人手不足の中での物資積み卸しはたいへん混乱しました。
早朝に起きた地震だというのに、3人に1個のサンドイッチやバナナなどが届いたのは、その日の夜遅くでした。食料品を各自で用意していれば、非常事態でも空腹をしのぐことが出来たでしょう。持病を持っている方には薬などの管理が出来ず、また生理用品でさえ支給されるのに時間がかかりました。
行政の問題点
関係省庁からの情報の集約を十分に行えなかったことから、情報が官邸に十分伝わらないという問題点が指摘されました。大震災直後には被害の確定情報が迅速に収集できず、死者数や建物倒壊数等の被害規模の把握が困難な状況だったのです。地方公共団体相互の応援協定は一部についてはあったものの、要請・ 応援のシステムが円滑にできていませんでした。
阪神大震災の発生後、官邸への情報連絡をはじめとし、国全体への初動体制は後れを取りました。当時の内閣総理大臣の村田首相も「そんなに被害が大きいのか」と言っていたことから、今のようにSNSはおろか携帯電話さえ復旧していないこともあるでしょう。また、報道が被災地に入るのが遅かったのも原因の一つです。
被災地での医療機能が低下してしまい、迅速な対応を要する負傷者の搬送活動が必ずしも十分に行われませんでした。
患者搬送にあたっては最も威力を発揮するヘリコプターは、震災直後には十分活用されなかったのも事実です。地方公共団体、その他の公共機関等の相互応援協定等、広域応援体制の整備・充実の必要性が認識するきっかけになりました。被災地域では、消火栓が使用不能となり、防火水槽のほかにプール、河川、ビルの水槽等の水も使わないと押さえられないほどの火災がおこったのです。
多くの医療施設が建物被害を受けたほか、建物被害を免れた医療機関も、ライフラインの寸断や医療機器破損などにより、医療機能は大きく低下し、適切な治療が受けられれば生きれたかもしれない命もうしないことがありました。病院外でのトリアージ(患者選別)がほとんど行われなかったため、医療機関には死者や軽傷者、重傷者などの患者が選別されずに殺到して病院が機能しないこともあったため、のちの災害時にはトリアージが取り入れることになりました。
復旧を急いだ上の問題点
災害慣れしていない関西で防災意識もなく、復興も手探りであったことから、たくさんの2次災害が起こりました。ライフラインを早期復旧したいと、行動を起こした関西電力さん。電気が復旧したことはありがたいことです。ですが、壊れた電線をチェックすることなく電気を流したため、壊れた電線がショートを起こしました。そのため多数の家事が発生し、大きな火事に発展し、私が住んでいた家も全焼になりました。地震が起こらなければ電線が壊れることがなかったと、火災保険もおりずに家計が火の車になったことも事実。それから火災保険に加え地震保険のCMが大きく流れ、その映像に阪神大震災の映像が使われるようになりました。
多くの人が被災地に来てくれたボランティア
阪神間で大災害が起きたことで、多くのボランティアさんが神戸を中心とした被災地に入りました。行政が行き届かない公助、共助が上手く動かなかった部分をサポートが行われました。ただ、ボランティア慣れしていないせいか、受付窓口の開設や業務の振り分けなどの体制の整備、受け入れ態勢の不備も指摘されました。多くのボランティアさんが来られたことで、ボランティアに興味を持つきっかけとなり、「ボランティア元年」ともいわれることに。
![](https://assets.st-note.com/img/1680532147723-hGnZyXsv6H.jpg?width=1200)
最後に……防災のための準備をしよう
阪神大震災は近代的な首都圏では大きな地震だったことと、「関西では地震は起きない」という迷信が信じられていた時代で災害には無防備な状態でした。そのため、多くの問題が発生し、被災者は大変な思いをさせられることになりました。
災害の状況に多大な影響を与え、ショッキングな映像が流れたことからボランティアが集まりました。その中には、被災者でありながらボランティアをせざるを得ない状況もありました。そのことからも震災の年がボランティア元年と呼ばれ、災害があれば神戸から率先して救援部隊が行くことが、通常運転になっています。
防災には3つの要素があります。自分自身や家族で備える「自助(個人の役割」、地域で助け合う 「共助(地域の役割」、行政 が行う「公助(行政の役割」があります。 災害に備えて自分でできることを考え、対策しておくことを「自助」といい、災害対策の基本となります。 まずは、自分や家族の命を守ることが大切です。
非常食は最低3日分の備蓄食料品を、いざというときに備えて食料品を買い置きして、賞味期限が切れないようにローリングストックをする必要があると言われています。自宅での避難生活を想定して、最低でも3日分、できれば1週間分の備蓄が必要といわれています。 いつ、どこで発生するか分からない災害に備えるには、防災対策は他人事ではありません。
阪神間で近代での都市型災害が起こったことで、浮き彫りになった問題が報道され、次に生かしていくためのものになったことは間違いありません。神戸の地震は、大きな被害をもたらしましたが、「神戸モデル」として、その後の災害が起きたときに役立てられています。
1995年の神戸は災害に無関心だったため、防災対策も減災対策もされていませんでした。いつ起こるかわからない災害は、決してあなたにとって他人事ではありません。今置かれている状況で、出来る防災をしてみませんか。