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押しても引いても変わらない文化の中で
始まりの発端はこれ。
この時代にしてこれは凄い!とか、この年齢でこの演奏はありえない!というような評価は、時系列を超えて並列化しているアーカイブの中ではいよいよ無意味になりつつあると思う。
— leon-335 (@shingonakanc) October 1, 2019
結局は個々人の審美眼が浮き彫りにされていくだけで。
先日、味気ない演奏や振り付けに特化しすぎたダンスに全体主義感を覚えたことを今更のように呟いた後のこと。
僕はこれに関して同意で
なんか、ダンスやアートもそうなんすけど
— HoneyOG/yukisako (@11k_obrigadoa) October 1, 2019
最近考えてることで
ポスト近代というルーツとミクスカルチャーの島文化、そして情報の飽和化した社会ではまさに軽薄なモノが並列化して発展するがしかし
文化は加速しないなーと。表層だけ突っ走って技術だけ、エフェクトだけみたいな。
とReplayしたのだけど、そもそもだ。そもそも近代までに構築してきたものから脱構築するはずがぬぐいきれなかったポストモダン影響をもろに受けた現代の流れの延長線上にいる我々。
そして明治維新以降に西洋のカルチャーを吸収しすぎた結果、独善的で特異的なカルチャーやブランドが抜きん出てこなかった。
故にサブカルチャーがメインを包容しどっちがどっちかもはやわからなくなった現代では機能性や合理主義をも内包し連続性の中でデジタルやテックといった身体の延長線上にある事物を使うことで如何にも発展しているかのように見せることに成功した。
ミクスカルチャーの典型さといったら日本だろう。
バブル期に国民が、内需産業に投資ししきれなかった影響なのか西洋のブランドを買い占めた結果がこれである。
故に寿司ドミナントの時にも書いたが、このコンテクストの中で表現者たちがどこへ向かうのかは非常に興味があり、自分もそうだがその着地点は1つ物語として終末的でもあるわけで。
アニメや漫画と言ったコンテンツ/創造物の影響を受けた人々の行方が文化を加速させるとみる。
ちょっと書ききれないので、また書く。