「手術中に神経を見分ける装置で、QOL低下を防ぐ」~大阪大学工学研究科助教、熊本康昭さん
フォトニクス生命工学研究開発拠点(フォトニクス拠点)は、拠点ビジョンの「ひとりひとりが健やかに輝く、いのちに優しいフォトニクス社会」を実現するため、4つのターゲットを掲げています。その一つの「ひとりひとりに寄り添う精密な医療」の研究開発を担当するのが、大阪大学大学院工学研究科の熊本康昭助教です。どのような研究なのでしょうか。研究室を訪ねました。(聞き手、サイエンスライター・根本毅)
──研究課題1「生体情報の多重計測イメージング技術の開発」の研究メンバーですね。どのような研究に取り組んでいるのですか?
私の役割は、フォトニクス(光工学)技術の医療応用です。特に、分光計測と顕微鏡計測の2つをキーワードにした最先端技術の開発に取り組んでいます。課題1は他の研究者も携わっていますが、人によっては創薬寄りだったり、基礎のバイオに近かったり。私は京都府立医科大学で4年間、助教を務めていたということもあり、医療応用に力を入れています。
──具体的な研究内容を教えてください。
ラマン分光という技術を使って、手術中の医師が神経を見分けるのを助ける技術の開発です。ナビゲーションですね。
がんなどの病変を手術で取り除く場合、現状では術者の目視あるいは解剖学的な知見に頼って、できるだけ神経を切らないようにしていることがほとんどです。しかし、細い神経は目で見てもなかなか分からず、解剖学的にも個人差があります。必ずしも可能な限りの神経を温存できているわけではありません。また、本当に神経を残せているのか、よく分からないということもあるそうです。
ラマン分光を使えば、神経と神経ではない組織を見分けられることは既に確認しました。これを手術中に使える計測装置という形にすることが今のテーマです。
──ラマン分光とは何ですか?
物質にレーザー光を当てると光が散乱します。散乱した光には当てた色とは違う色がわずかに含まれていて、これがラマン散乱光と呼ばれています。ラマン散乱光にはさまざまな色の光が含まれ、そのパターンは光を当てた物質(分子)の種類によって異なります。光をプリズムに当てると、含まれている色を分離できますよね。あれを思い浮かべてもらえばいいのですが、含まれる色とその強さのパターンが分子の種類によって異なるんです。
このため、ラマン散乱光を詳しく分析すれば、どんな分子がそこにあるかということが分かります。ラマン散乱光を用いて物質について知る手法が、ラマン分光法です。
──神経と神経ではないものとでは、具体的にどのような分子の違いがあるのですか?
医療応用する場合、脂質やタンパク質、コラーゲンなどの分子を見るのですが、特にどの分子を目印にするということはなく、分子構成の包括的な情報で判断します。ラマン散乱光の波長と強さをグラフ(スペクトル)にすると、分子構成の微妙な違いがグラフの形状の違いとして現れるので、この形状を分析して神経と神経でないものとを見分けられます。私が行った動物実験では、外見上神経に類似する結合組織と神経を97.5%の正確度で判別できました。ラマン分光法を使えば他にも、血管やリンパ管と神経を見分けることもできるはずです。細い血管、リンパ管、結合組織は神経と見分けづらいそうです。
──実用化するには、どのようなハードルを乗り越えなくてはいけないのですか?
神経に限らず、ラマン分光の医療応用はほとんど進んでいません。ラマン散乱光は非常に弱い光なので、解析にものすごく時間がかかるからです。臨床の検査、特に手術中の検査は時間との勝負です。ラマン分光でゆっくり測定している余裕はありません。
また、がんのマーカーのように「この病気だとこの分子の有無や量を分析すればいい」という分かりやすいものではなく、分子構成の微妙な違いを反映するグラフの形状の違いで見分けることになるので、診断での使用が受け入れられにくかった面もあると私は思います。データがもっと分かりやすかったら、状況は違っていたでしょう。
さらに、レーザーやCCD検出器といった高価な装置が必要なため、コストがかかることも影響しています。
──しかし、ラマン分光には利点があるため、医療応用が望まれているんですよね。
そうですね。光を使うので、組織を傷付けたり、何らかの前処理をしたりする必要がありません。医療に向いた技術です。
──社会実装に向けて、どのような工夫をしているのでしょうか。
測定時間を短縮することに、2つの方法で取り組んでいます。1つは、測定したい場所にだけレーザー光を当てる技術です。ラマン分光測定は基本的に1点ずつ測定するため、視野の全てを測定すると長い時間を要します。ただ神経の検知などのように医療応用では、視野の中すべてを測定する必要はなく、不要な部分を測定しなければそれだけ時間が短縮できます。
──もう一つの方法は?
視野中の任意の複数箇所を同時測定する方法です。測定したい場所が視野中にたくさんある場合、それらを1点ずつ測定していくとそれなりに時間がかかってしまいます。そこで私は、2000本くらいの光ファイバーを束ねて、複数ある測定したい場所それぞれからのラマン散乱光をいずれかの光ファイバーでキャッチすることにしました。光ファイバーの反対側は分光分析がしやすいように配列を変えています。この技術により、測定を順番におこなう必要はなく、一発で完了できます。
この2つの方法を使い、「ここに神経がある」と5秒で示せる装置を目指しています。体の中は体動で動いてしまうので、将来的には1~2秒に短縮したいと考えています。
──この装置が実現すると、どのような恩恵があるのでしょう。
手術で神経が傷つくと完全には回復せず、術後にQOL(生活の質)が下がったり社会復帰が遅れたりする可能性があります。例えば、子宮頸癌の手術では、子宮の近くにある膀胱側までメスを入れることもありますが、膀胱の方に延びている神経を残せないと排尿障害が出てきます。泌尿器領域の手術では、神経損傷により性機能障害が現れることもあります。
この装置の実現により、こうした事態を避けられます。
──神経というと、まず運動神経が頭に浮かびます。
神経には中枢神経と末梢神経があり、末梢神経は運動神経と自律神経、感覚神経の3種類があります。私がターゲットとして考えている腹腔内の手術では特に、臓器の周りにある自律神経の鑑別が難しいそうです。自律神経のおかげで胃や腸などの臓器は機能しています。
──開放手術での利用を想定しているのですか?
内視鏡手術が増えていますが、先に開放手術で使える装置の開発を考えています。ラマン分光はほとんど医療応用されていないので、まずは「臨床で使える」ということを示したい。そうすれば意識が変わり、ラマン分光の医療応用が選択肢と考えられ、ニーズも増えてくると考えています。
──神経の判別の他には、どのような応用が考えられますか?
がんの術中診断ですね。がんの手術では、がんが取り切れたか確認するために手術中に病理診断することがあります。現在は20~30分かかり、しかも病理医が減ってきているため術中の病理診断が可能な施設も限られてきています。ラマン分光でがんを判別する装置ができたら、時間をかけることなく、病理医がいない施設でもできるようになります。
──熊本さんは日本医療研究開発機構(AMED)からも支援を受けていますね。
2つ支援してもらっています。1つが、医療機器の試作機を作るプロジェクト。もう1つが、測定するべき領域を抽出する技術の開発です。
どちらも、フォトニクス拠点での研究と深く関連しています。AMEDなどの外部資金を獲得して、拠点のビジョンを実現するための技術開発を行っている形です。
──拠点のメリットは感じていますか?
いろいろな臨床の先生にニーズをヒアリングしたり、技術に関して意見してもらう機会をいただいたりしているので、非常に助かっています。大阪大学の工学部と医学部は地理的には近かったのですが、これまで個別のつながりしかなかったと思います。フォトニクス拠点という箱で一緒に研究開発ができて、私としてはありがたいことだと思っています。
──最後に、どのような時に研究の面白さを感じるか、お聞かせください。
一番面白いと思うのは、誰もやっていないこと、誰もできなかったことをできるようにすることです。私は、比較的単純なアイデアを基に研究に取り組んでいますが、そのような何でもないアイデアで新しいものを作っていけるというのは面白いです。
頭のいい人はすごく難しいことをします。それはもちろん素晴らしいことですが、やっぱり難しいことは研究利用の場合を除いて応用への道のりは険しいと思います。私は、難しいことよりも、ちょっと視点を変えて技術を発展させていくことに魅力を感じています。
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