言語化によって失われるものはあるか?
Arataさんがとても面白い提起をTwitterでされていたので、自分なりに返信を書いてみます。
これは写真や文章をやる上で避けては通れない議論ですね…!
なので皆さんそれぞれの「答え」を持っていると思うのですが、僕の中での現時点での答えは
①言葉にする
②言葉を知る
③メタファーを用いる
④言葉をつくる
の4つのアプローチがあると考えています。
例えば僕は高校の頃に友人と「異性との友情は成り立つか」という話になったときに、みんなが「成り立つ」「成り立たない」という話をしているのを聞いて違和感がありました。
違和感の正体は「認知は言葉に収束していまう」ということでした。
「友情」「恋」のふたつの言葉しか知らなかった僕達は、それ以外の微妙な感情も全て2つの言葉のどちらかに無理やり割り振って認知していたんですね。
自分の中の感覚に正直になってみると、どうも僕の中には「同性間の友情」「異性間の友情」「同性間の恋」「異性間の恋」の4つの別々の感情があるように思えました。
なので「2つしかない言葉を4つにすると、どの感情も綺麗に収まる」と思い、その話をしたところみんな納得して議論は終わりました。
ただ、そこからさらに先に行こうとすると「友情」「恋」のようなシンプルな新しい言葉なんてなかなか作れません。
そういうときにあるのがメタファー(比喩)です。
「同性間の友情=◯◯のような気持ち」など、既存の別の言葉を用いて別の事柄を表す。
するとより複雑なニュアンスを表現することができ、全く新しい言葉を作らなくても70%くらいそのような「効果」を生み出すことが出来ます。
①まず自分の知っている言葉にする
②自分はまだ言葉を知らないという前提に立って、もっとしっくりくる言葉を探す
③メタファーを用いて既存の言葉でもっともしっくりくる表現を作り出す
④新しい言葉を作ってしまう
この4つを限界までやると、矮小化はかなり抑えられると思っています。
このあたりの話をより深く考えたい方は、「レトリックと人生(原題:Metaphors We Live By)」という1986年に書かれた名著があります。
気になったかたは是非!
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