僕は何を撮っているのか。日常と非日常。
僕の写真は、何を撮っているのかと言われれば、日常を撮っている。
そうは言っても、日常って言葉は曖昧だ。
日常を撮るって、どこまでが日常なのか。家までの帰り道に遠回りするのは、ご飯を食べに行くのは、友人とご飯を食べるのは、少し遠出するのは日常なのか…日常という言葉を使いながら、なんで曖昧な言葉なんだろうと思う。
一定のペースで、同じことを繰り返すことを日常とするのなら、毎日仕事に行くことも日常、ご飯を食べることも、家族でお出かけするのだって、日々のことのほとんどが日常だと考えることができるのではないか。
もう少し大きく考えてみる
数年前までは年に一度は海外に旅をするようにしていた。非日常のように思えるが、これもいわば長いスパンでのルーティンの一つであり、年に1回でも定期的に旅をする行為を繰り返しているのであれば、これもまた日常になるという解釈をすることができるのではないか。
日常とは何か。
ネットの辞書で意味をひいた。
つねひごろ、ふたん。と出た。
つねひごろから行っていることは、すべて日常なのだ。
こうは考えられないだろうか。
例えば、非日常と思えるような体験、普段読まない様な本を読んでみたり、降りたことのない駅で降りてみる。食べたことのないものを料理に使ってみる。あまり行かない町の公園に行ってみる。ほんのちょっとだけ非日常のエッセンスを振りかけることをふだんから行う。つまり日常として非日常を取り入れる。
そうやって書いていたら、なんだか少しワクワクしてきた。
日常って、なんだろう。
つねひごろの行いがその人を作る。
僕は日常を撮る。僕の写真は、僕自身を映し出すものかもしれない。