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おたよりコーナー#14で読まれました。

異常論文か、怪文書か。どうも、神山です。

今回は恒例!さやわかのカルチャーお白洲大人気コーナー、おたよりコーナー#14にて読まれたおたよりを公開です。久々に安田短歌の話を非タンカラーに向けて書きました。今の流行りでいうと、異常論文に近いのかもしれないですね。いや、単なる二次創作と言えば二次創作なのですが…。日を置いて読み返して見ると、短絡的な部分が多く、また纏めなおす時は手入れしないとな…。とりあえず書いたままでゆきます。

では、どうぞ!


こんばんは、神山です。「daifukuさんの【ふくさん】あたりがAlexaっぽくて反応しているんですよ」って誰も伝えてない気がしたのでお伝えします、空耳ってAIにもあるんですね。今回は短歌と虚構の関係についての話をお送りします。

安田短歌と虚構VS現実

短歌はwikipediaによると「狂歌とは文体を同にするが、定義では全く異なる」「和歌はその中で使われたいわゆる序詞や縁語、また歌枕といった修辞を重要視し、のちのちまでそれらを伝えて詠まれた」「近代以降の短歌ではそういったものは原則として否定されている」とあり、和歌と短歌、狂歌は異なるもの、ということになっている。

現代の短歌については虚構の設定などを導入したものや現実からズラした嘘を交えたものもあるが、近代以降の短歌は基本的に自然主義的、私小説的であろうとしたことから、一人称性=私性という、短歌の一人称と作者を同一視するという方法論によって規定されており、小説よりも強くそのノンフィクション性に重きを置いた評価を受けることが多い。

先日、作家・桜庭一樹の短編小説「少女を捨てる」に対する時評において、翻訳家の鴻巣友季子による読解が不適当であるという指摘が著者本人から入るということもあった。これは私小説的作品における私性の強さの度合いから来る議論だったと言える。短歌における私性の重要視は、小説のそれよりも一段と深い。なぜならば、57577という31文字のなかで、それが虚構なのか現実の描写なのかは明らかでなく、歌人もしくは読者の文脈に依存してしまうからである。

短歌における私性重視の代表的な例としては、歌人・石井僚一が「父親のような雨に打たれて」と題された作品で2014年の第57回短歌研究新人賞を受賞した際の騒動が挙げられる。この作品は父親が亡くなったという体験に基づく短歌、すなわち挽歌として評価されていたが、そのような体験は実際にはなかった。受賞後、石井の父は存命であり、亡くなった祖父を想う父の気持ちを自身にスライドさせたという短歌だったことが判明した。その際、選考委員のうち一名により「肉親の死を虚構として表現することは倫理的に問題がある」と指摘があり、多くの論者を巻き込み石井を擁護する、非難するといったことで話題となった。短歌は2010年代であってもノンフィクションを前提として詠まれるもの、ということが強く提示された事例である。

私性から離れ、虚構に没入した短歌ムーブメントの例として、『恋人を喪った安田短歌』(以下、安田短歌)というものがある。安田短歌とは、映画『シン・ゴジラ』にて高橋一生が演じる安田龍彦というキャラクターの恋人が、ゴジラの放射熱線によって作中時間の2016年11月7日18時30分頃に亡くなってしまったのではないか、という「恋人の存在」「その喪失」という二重の架空設定の下で詠まれた短歌のことである。

歌人の山田航は「短歌 2017年10月号」(KADOKAWA)の歌壇時評「題詠2.0へ」で、現代の短歌は一人称重視から二人称重視へ、二人称重視から三人称までをも巻き込んでいく流れのなかに存在しているということを次のように述べている。

これからの短歌は一人称の扱い方がもっとライトで自由なものになっていくだろう。しかし一人称が消滅するということにはきっとならない。一人称も二人称も時には三人称も取り巻く「状況」や「設定」といったものが、短歌を作らせる原動力になっていくのではないかという予感がする。

山田 航「題詠2.0へ」
「短歌 2017年10月号」(KADOKAWA)

その一例として安田短歌が挙げられた。山田は「挽歌」というクラシックなテーマを用いていることに留保しながら、安田短歌は外側の物語や状況設定による題詠であり、単なる題詠とは異なる「題詠2.0」となると指摘した。ここにおける単なる題詠=題詠1.0とは、「野球」という題に対して、そのまま「野球」を埋め込んだり、「ホームラン」や「白球」といった連想するようなフレーズを埋め込んで詠まれる短歌のことである。対して、題詠2.0はその前提条件、設定を知らなければ全然読み解けなくなってしまうフレーズが入り込んでしまっている短歌である。

たとえば、安田短歌には次のような作品がある。

さよならを言うためだけに残された3526秒 #恋人を喪った安田短歌
(神山六人)

神山の人生において、3526秒という時間には特に意味がない。これはシン・ゴジラの世界だからこそ意味がある時間である(題詠1.0)。更に、本来シン・ゴジラとは関係がない「さよなら」は恋人を喪ったという集団幻覚に起因するものであり、このとき安田は、生きているゴジラに恋人を映してしまっている(題詠2.0)。

多くの安田タンカラー(安田短歌の詠み手のこと)は、「恋人を喪った安田」という集団幻覚、もとい情報を共有したうえで短歌をツイートしている。発端となった「安田の恋人が放射熱線にて死亡した」という説は、立川での矢口蘭堂による訓示の折、安田一人だけ身体を矢口に真っ直ぐ向けていないこと、アップで映った目が涙に濡れているように見えること、この二点による「誰か大切な人を亡くしてしまったのでは」「それは恋人だったのではないか」という極めて恣意的な読解に基づいている。それ以上のディテールの共有はなく、恋人の容姿や性別、関係性などについてはどんな設定であっても分け隔てがない。それより先はこと細かな共通の世界観よりも57577の形式に則っているかどうかの方が重要な条件になる。そのうえで「#恋人を喪った安田短歌」がタグ付けされていれば、安田短歌として認識される。

近代以降、短歌の本流が一人称性=私性に立脚したノンフィクション的作品に対して好意的であり、作品への期待が作品の外にある歌人の人生や経験に対して向けられてきた。だからこそ、詠まれた短歌が虚構であったとき、期待は裏切られたと感じられ、前述した石井の作品のように評価を転回する選考者が現れたりもする。一方で、極めてインディーな活動であり極端な例ではあるが、虚構に立脚していることをハッシュタグで明示している安田短歌のような作品も、57577という最低限の形式を守っていることで短歌として存在できる。

57577のみを守る、というミニマムな短歌は誰もが簡単に参入できるものである。「BL短歌」や「とうらぶ短歌」といった二次創作短歌は安田短歌以前より存在し続けているし、2020年足立区議のLGBTについての失言が元となり「足立区短歌」なる短歌タグが生まれたことを覚えている人もいるだろう。そういった虚構を共有して詠むミニマムな短歌が多くの短歌プレイヤーを増やし、短歌の私性、ノンフィクション性といった縛りを緩くすることで、今よりもより豊かなものへと変化していけばよいと思う。

お読みいただきありがとうございました。……一時期は集団幻覚に乗っ取られ、あらゆる身の回りの事象から57577を生成する安田短歌マシーンでした。みんなも短歌を気軽に詠んでみよう。イラストや漫画、写真、小説といった表現と同じくらい奥深いぞ!


と、私性についていっちょ噛みしたものの、前衛的なモノ(それが前衛と呼ばれスタンダードではないのか、という部分も含めながら)などもあり、おたより内のような四角四面な私性への拘りが現在の短歌空間にあるのか、肌感覚としてはわかっていません。ということで、現在、短歌研究のバックナンバー(短歌評論が載ってるものなど)を読んでいます。書いたもののアップデート、やっていくぞ。

第39回現代短歌評論賞受賞作「SNS時代の私性とリアリズム/小野田 光」でもおたよりで言及した石井僚一の件や、おたよりコーナーのコメントで言及したサラダ記念日について書かれていますね、おたよりを書いていたり、コメントをす前に読んでいたわけではなく、偶然ではありますが…。興味を持った方はこちらも読んでみてもいいかもですね。(2021/12/1追記)

ではでは。

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