大石いずみ 個展「ワンルーム、カーテンの無い窓、曇り空と昼間の橙」
本文章は、2022年8月27日から9月11日まで、名古屋の写真ギャラリーPHOTO GALLERY FLOW NAGOYAにて開催している「ワンルーム、カーテンの無い窓、曇り空と昼間の橙」についての考察である。
大石作品の特徴は、キャンバスに写真を貼り付け、そこにペイントを施していく。それらペイントを行っていく過程において使用されるメディウムとして蜜蝋や麻縄を使用しながら制作を行っているのが特徴である。
最初に断っておくべきこととして、写真にペイントをすることによって、写真特有の複製芸術としての存在を回避させ、一点物として美術品の価値を高めているわけではない事に注意したい。
大石が行っている事は、プリントした写真という必ず過去のメディアである物質に対して、あらがう事の出来ない時間や光の存在を、ペイントを施すことによって、鑑賞者に引き寄せているのである。この行為を通して、作家自身が写真と鑑賞者を媒介しているのである。
前段階の展示としては、愛知県岡崎市のmasayoshi Suzuki gallery にて2022年2月に「Keep a record 〜紙のうえの光をわたる〜 2022年」というタイトルで展示を行っている。こちらでは、瀬戸内国際芸術祭において、所在不明の瀬戸内の島民の写真にペイントした作品を中心に展示を行った。
この時の作品は、表象に写真の痕跡が見る事ができ、写真なのか絵画なのか。写真の問題点と絵画の問題点を巧みに交差させながら、何とも言えない作品を提示していた記憶がある。
このときの展示について、詳しくはOuter most NAGOYAにて詳細が記載してあるので併せて読んでほしいと思う。
今展示では、ロシアとウクライナの戦争の写真をインターネットなどからダウンロードして大きく引き伸ばしてからペイントをしている。
先回の展示と比較して、今回の展示は、表象には写真の痕跡がほとんど残っていないのが特徴的である。
なぜ表象を隠して、抽象絵画のようにする必要があったのか?
ここから写真的な思考で読み解いていこうと思う。
大石自身が現地には行っていない事から、この作品が戦争の悲惨さを伝えようとしていない事は理解することが出来る。
今作品は、作品の基盤として使用している写真が、ネットやメディアから作品を引用している所が重要である。他人が撮影した写真を引用する行為。アプロプリエーションを行うことで、メディアに対して痛烈な批判を行っているといえる。
報道などの情報を受け取り、我々は二項対立を構築して、どちらかが悪であり、もう片方が善であると決めつけて納得する。
そうすることで、これらの行為をシュミレーションし、不安感を払拭しながらいつもと同じ生活を繰り返していく。
以下にステートメントを貼り付けておく。
アラームが、遠くの意識で鳴っている。
煩わしさに身を捩って うん、とこわばった体を伸ばして目を覚ます。
カーテンのない窓は、コットンのような曇り空を白く切り取っている。
時刻は午前7時。
庭の橙が、今にもこぼれ落ちそうに熟れていた。
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鈍い地響きが、遠くの意識で鳴っている。
煩わしさに身を捩って うん、とこわばった体を伸ばして目を覚ます。
カーテンの無い窓は、埃をぶちまけたような曇り空を鈍色に切り取っている。
時刻は午前7時。
遠くのアパルトマンが、今にも崩れ落ちそうに橙の熱をまとっていた。
作家が書いたこのステートメントもシミュレーションの中の事象である。我々がメディアから受けとり、シュミレーションしているものは一体何なのか?結局、これらの体験は実際に現地に赴き、体験しないと理解できない事象である。
そう捉えた時に、大石の作品は我々が体験しているシミュレーションは、現実の物なのか虚構の存在なのかを曖昧にさせているのだと感じ取ることができる。
メディアが使用した写真に対してペイントや蜜蝋を大胆に施し抽象化することで、元々あった写真の痕跡を殆ど見えなくする。こうすることで、私たちが受け取っているこれらの事象は、具象的に認知している様な気がしながら、実は抽象的にしか認知出来ていなかったことが理解され始めるのである。
絵画の手法を使いながら、写真的な思考を構築させることで、絵画の枠を超えて行こうとする作家の思考が見えて来る作品であると感じることが出来る展示であった。
大石いずみ / IZUMI OISHI
ワンルーム、カーテンの無い窓、
曇り空と昼間の橙
2022.8.27(SAT) ~ 9.11(SUN)
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