自分が自分を認めることが先。
私はすぐ他人の意見を聞きたがる 私は間違ってますか? 正しい道を行ってますか? 友人、知人に。 あらゆるセッションをも受ける。 そして、親に 同意して欲しい わかってほしい。 反抗をしながらも綱引き… もちろん、誰にも聞かず 自分自身で決断し即行動することもある。 確信があるのは稀だ。 だいたい、うろうろと路頭に迷い、 「誰か」の同意という幻想の光を求めて、 間違いない道を進もうとしている。 間違えてもいいし、失敗してもいい。 本当の自分の道
自由になりたい 自由がほしい それは自由への介入だ! 私は不自由だ などなど 自由への旅を続け40数年 親から 先生から 親戚から 世間から 友達から 友達のお母さんから 通行人のおじさんから そして自分からも 怒られ、自分はダメな人間で 否定されて、自分はどうしよもない 価値のない人間 って思い込まされ 本当の自分の望みを おさえてきた 諦めてきた 我慢してきた 私は今までずっと 自由を奪われてきた可哀想な人間なんだ そんな被害妄想だった。 色々ここ数年諸々を手放し よ
昨日東京に戻ってきた。 都会は相変わらずうるさい。 昨日も対応の悪い方に遭遇し 嫌な思いもした。 忙しい。 時間がない。 何かをお願いしても 素っ気ない。 やってあげましたよ、と言わんばかりの対応に遭遇。 もちろん、そんな人ばかりでもない。 心良い対応の人もたくさんいる。 でも概ね 忙しい 時間ない 余裕ない 構ってられない 金くれ そんなエネルギーが強く感じる。 でも、ここが私の故郷。 東京。 どうりで。。。。 離れてみると色々感じることが多い。 初めての
伊豆に居を借りて、早一ヶ月。 都会っ子の私は沢山の洗礼を受けた。 その一つ、 やはりご近所とのコミュニケーションは課題だ。 私が借りてる家は、 ちょうど公道から家の庭と縁側が見下ろすことが出来る場所。 人気のない田舎なので通過する人や車が氣になって仕方ない。 のんびり散歩する老婆達、あくせくと軽トラを走らせて畑に急ぐ男性、草刈りついでに通過する女性。 都会ではないので、あの人はあそこの家の方でなどなど氣になるし、 通過する方々もこの長年空き家だった家を借りてる人間はどんな
初めての田舎暮らしが始まった。 夢は自給自足。 畑で自分のための野菜を無農薬で作り 水は雨水を濾過して 火をおこして調理する 家の中はその火で温めて、 暑い日は風を通して涼しく、 今東京で当たり前に お金を払ってしてる事を全部自分の力でやりたい! その一心だった。 コロナ騒動で色々社会システムやら 何やらの当たり前だと思ってたことへの 不信から強くそう思うようになっていった。 しかしここにきてハテナが出てきた。 私のこの行動はコレやだ、アレやだ、 悪だ、搾取だ、悪の支配
生まれ育った大都会から 生まれて初めて拠点を移した。 正確にいえば二拠点生活だ。 40代過ぎてからの親離れ。 、、、。。。 目的は息子の進学。 彼が気に入った学校があった為。 ずっと夢だった田舎暮らし。 恐れと不安となんともいえない感覚が浮上してソワソワだ。 物件は年末から見て半年かかって、 やっとピンとくる物件に出会ったのは3月末。 不動産屋君にも猛烈に止められ、 それを押し切って決める形となった。 都会暮らしの生温いシングルマザーに、 こんな辺鄙な場所に住めるわけが
〇〇は〇〇に為になる。 〇〇すると〇〇に良い。 〇〇の為に〇〇する。 〇〇の保護の為にも。 〇〇の明るい未来の為。 そう言って大義名分をつくり 行動の理由にカッコつけることが多かった。 振り返るとほとんどがそれ。 フェイクの望みや願いが多かったと氣づいた。 〇〇のためじゃなく、自分のために、 自分がしたいと本心が喜ぶことをしたい。 子供が公園で遊ぶのを横目に ふと湧き上がった。
私はシングルマザーで母親の世話になっている。 夕食はほぼ実家で食べる。 6歳男児を持つ私にとって、非常に助かる。 ご飯を炊いて、一品何か作っておいてくれる、というか、母自身も一人なので自分が食べる用に必要な分。 暗黙の了解で、私と息子の分までいつもある。 感謝しかない。 でも、その構造を見てみると 私が7割は食材を仕入れていて、 母が食べたそうなもの、 喜ぶもの毎日食べているもの を買って行ってる。 もちろん自分の食べたいものも入っていたが、 母に氣を使って買い
恐れ。 たまにずっしりとやってくる。 今回いらしたのは大きかった。 国など大きな組織、社会から逸脱する恐れ。 咎められる恐れ。 試された。 試験を受けていた感じ。 今回は深く恐れを感じた。 まるで 何か大きくて黒くて得体の知れない何かが 私にいつでも襲いかかってくるんではないか と。 勝手に想像して 身震いして。 いい大人が 鬼から追いかけられる子供のように。 40年以上生きてきたが初めて。 もうダメかも知れない。 そんな限界までいった。
ここ数年でこの世の悪を見せてもらった。 おかげさまでたくさんの怒りを出させてもらった。 こんなクソな世の中にもう何も期待しない。 こんな矛盾だらけの社会に頼らない自分になろう。 そう強く思ったここ数年だった。 悪があれば善もある。 影があれば光がある。 陰があれば陽がある。 知識としては承知してたが、悪さえ無くなれば と思ってしまっていた。 悪さえこの世になくなれば、みんな幸せに 生きていけるはず。 そう思い込んでいた。 でもそうではなかった。 悪
人間なんて好きなものはコロコロ変わる 〇〇系 などの言葉もあるが どれくらいの人がその枠内で通してるのか? そんなことも考えずにその時好きなこと やりたいことをやるのが1番なのであるが 私はどうも形にこだわり過ぎて 自分で自分の型を決めて、それに少しでも 反すると排除してきた。 私はこういうのが好きで、こういう人間。 でその道を極めてる方々の活躍や動向を 見ては あー私はまだまだだ ここまで行きたいけど行けない自分は最悪 意気地なし 度胸ない などなど
自由ってなんだろう? なんでもあり やりたい放題 ??? なんか違う。 でも 自由になりたいとずっと思って、 自由を求めて生きてきた氣がする。 自由なのに。 こんなに自分は自由なのに。 恵まれた環境。健康な身体。 豊かな時代。便利な時代。何でも手に入る。 何不自由ない生活を、生きている。 それなのに 何が不足? 何が不満? ずっと思っていた。 自由が欲しい。 自分が望むように生きたい。 自分がしたい時にしたいようにしたい。 ルールを破って
これが他人のためになる これが世界のためになる これが地球を守ることになる そう言ってたくさんのルールやしがらみを 自分で作っていた そしてそのルールを破ると 自分で自分を大いに罰していた 自分はなんて価値のない人間で 生きている意味などない など 罪悪感を自分で植え付けるのが 得意になっていることに気づいた 自然素材じゃないものはダメ オーガニックじゃないと食したらダメ 自然栽培じゃないとダメ ダメダメダメ 私はダメなんだ と。 いまだに
ゼロにしたい。 無かったことにして再スタートしたい。 ゼロにしないとスタート出来ないと思っていた私。 家に溜まってしまった保存食材の期限が近くなって、早く無くすことに一生懸命になっていたことに気づいた。 食材に限らず、他のものも。 あらゆるももを一生懸命にゼロにしようと頑張っていた。 お金も、観念も。 真剣に取り組んでいた。 どこから取り入れてきた考えなのか。 ゼロ。 確かに白いキャンパスになったら、絵は描きやすい。 でも、 そうしないと進めないと思いこ
やりたい が湧き出る。 前からそうだったが 最近は色々解放したので、 やりたいに止める理由がなくなったせいか。 私は一体何をしたいのか? よくわからず迷子ではあるが、 何かになろうとして必死だった。 一つ何か極めて、プロフェッショナル にならないといけないと思っていた。 そして始めたら、絶対にやめてはいけない と思っていた。 飽きたからやーめた 合わないからやーめた は堕落人間だ。 いいや 飽きたらやめてもいい 途中で氣が変わったらやめればいい。 とにかく興