神のではない独自の判断基準を正当化するための道具。
このけんたという人間をとおして
目の前で今経験していること、
知覚している状況、体験しているすべてを、
ただただ心を尽くして神にささげる。
神にお返しする。
そうしたい。
あなたがこれらすべてを使ってください。
あなたがこれらすべてについて判断してください。
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献身滞在で、映画「グラディエーター」を見る日の前の晩になおこのブログを見てから、
けんたにとってのよい・わるいという判断をこの世界のすべてに当てがおうとしていること、その背後には神に勝ちたいという動機があることが自分の心の中に浮上してきた。
けんた以前、この宇宙以前に、その動機がある。
その動機のもと、
この宇宙やけんたという個人が夢見られ、神のではない独自の判断基準を正当化する手段(道具)として使われている。
映画を見る直前になると、自分の人生にはそれしかない(なかった)ということに吐き気を感じ、
クラクラして倒れそうになって、
その自分独自の判断基準を当てがいたいという根本の動機までをしっかり見ていかずにはおれない感じになった。
神のではない、自分独自の判断をもつことで神に勝つという動機。
この動機の絶望さを見る必要があった。
たとえば
けんたのからだが死ぬのはわるいこと、
生きるのはよいこと、
みたいなのは当たり前だ!と言い張れるように
この体をつくったとも言える。
マキシマスにとってみれば、
妻子をあんなにひどいやり方で殺されるのがわるいことなのは当たり前だろ!
そこに神の完全さなんてあるわけないだろ!!!
と余裕で言い張れる。
神の判断基準(「あなたはすでにもう完全にみこころにかなっていて、よいもわるいもなく永遠に完全なんだよ」という無条件の愛)ではない、
自分独自の判断を正当化するために必要な舞台設定として、
肉体を夢見ること、肉体への同一化を夢見ることはうってつけだ。
けんたのプライドが保たれるのはよいこと、
プライドが打ち砕かれることや負けるのはわるいこと(だから恥ずべきことは隠すべきで、人にバレてはいけない)、
けんたの快楽につながりそうなことはよいこと、苦痛につながることはわるいこと、
攻撃によってけんたが勝つのはよいこと、攻撃されて負けるのはわるいこと。。。
自我による3つの体の使い方(攻撃・快楽・プライド)も、まさにそのために、神のではない自分独自の判断を正当化するためにあるんじゃなと感じた。
これらすべてが自分自身の絶望的な欲望・動機(神に勝ちたい)から来ていて、この欲望・動機について負けることにしか救いがないことを、
何度でも受け入れたい 🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏