2017年 始動そして大量退部

1月7日、静かな雰囲気の中で年初めの練習が始まった。
猪田監督は全員を集めた。
(勝つ気がない奴は辞めてもいい。練習について来れない奴も。今のままじゃ今年は入れ替え戦だぞ)

鬼の練習が始まった。

10ヤード、20ヤード、30ヤード、40ヤード、そして100ヤード。
一日最低計2500ヤードのダッシュから始まり、ディフェンスはタックル練習、オフェンスは徹底的なパス連絡に加え、コーチ陣達もより一層厳しくなり、出来るまでやる。スタイルで過酷な練習が続いた。
3月までに約30名の退部者が出た。
圧倒的に多かったのが、猪田監督を知らない、2年生の代だった。
3年生、4年生は、猪田監督時代を知っているし、体感している。
1年生は入部したばかり。
2年生だけが浜寺監督時代に入部したから、浜寺監督流のやり方しか知らなかった。

退部希望の選手はポジションコーチが1人ずつ面談をした。
ほとんどの選手が(ついていけない)だったが、自分を正当化する様に辞めていった。

僕が豊橋高校から志山大学に送った4人の選手は2年生になったが、その内の3人はその時期に辞めた。僕はその3人が、辞めるときに言った。
(何の為に志山大学に推薦使って入学したんや。辞めて一般学生になるんか。学校も辞めてまえ!!フットボールを入学の為に使っただけかいな。自分の事だけ考えんなよ。来年また推薦でアメリカンフットボールに入りたい後輩達の事も考えろや。豊橋高校アメフト部に泥塗りよったな。)

その言葉が間違ってたか合うてたかは、わからないけど、ほんまに僕の当時の気持ちはそうやった。
アメリカンフットボール部の推薦入学で入ったのに、辞めて一般学生として大学にそのまま通うなんて考えられなかった。
何を頑張るの?って。ほんなら大学も辞めて一からやり直したらえぇねん。大学に行きたかったら勉強して努力して受験やり直したらえぇ。
その方が僕は納得出来たし、3人揃って辞めたら怖くないっていう思考がほんまに許せなかった。それが広がり約30人の退部者が出た。
みんなで辞めたら怖くないという思考回路である。1人やったら辞められへん。
それで退部コミュニティが結成された。
傷の舐め合いコミュニティ。

豊橋高校から入部した4人のうち、3人退部したが、1人残った。
それが、清松だった。
僕は嬉しかった。1人でも残ってくれた。
しかも僕の担当のディフェンスラインの選手だった。
清松の大学2年目のシーズンが始まった。

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