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自◯の代わりに選択した海外移住

バブル景気で日本中が沸いている中、地域の公営住宅の中で最も家賃の安い、低所得者用の6畳の部屋が2つだけある狭い団地で家族4人で暮らしていました。私の父は戦後間もない大変貧しい家庭で育ったようですが、母方は田舎の大地主の家柄で、しかも私の祖父は日本中の誰もが知る大企業に勤務していました。状況から推測すると、母は若気の至りで周囲の反対を押し切り、価値観の全く異なる父と結婚したのでしょう。その結果、母は自分自身の選択の正しさを証明するために、子供たちを『立派』に育て上げることで両親を見返す野心を抱いていたのだと推測しています。

そんな母の正しさを証明するためのダシに使われた私の生育環境は地獄そのものでした。特に幼少期は徹底的に厳しく育てられ、数えきれないくらいの理不尽な決まり事を押し付けられ、それらに従わなければ母から酷い仕打ちを受けるというスパルタ教育という名の虐待を受けて育ちました。

決まり事を守れないと、出血するまで顔面を殴られることも頻繁にありました。顔を殴られると痛みを感じるから当然泣いてしまいますが、泣くことは許されず、10秒間の間に泣き止まないと再び殴られるという地獄の無限ループ。

また、外へ放り出されるというオプションもあり、裸足で暗く寒い暗い団地の階段で何時間も母の腹の虫がおさまるまで、ひたすら待ち続けなければなりませんでした。外にいる間、いつか私は本当に母から捨てられる日が来るのだと、幼いながらも覚悟を決めていました。

母は私から自由を徹底的に奪い、学校から帰ると毎日母が定めた習い事が待っていて、友達と遊んだりすることは実質禁止されていました。 教育上良くないということで、テレビ番組を見ることは著しく制限され、マンガを読むことは全面的に禁止されていました。当然ファミコンなど買ってもらえるはずもなく、その結果、学校のクラスメイトたちの話題には一切ついて行けず、いつも一人ぼっちで孤独感を抱えていた子供時代でした。

それに加えて、4歳から自覚し始めた性別違和感のせいで生きていることに対する苦痛がさらに増幅され、外側からも内側からも、私の存在が否定される感覚に陥っていました。詳しいことは省きますが、私が男の子らしくないということは絶対に母も早いうちから気づいていて、女の子の友達ができそうになると、あの手この手で交友関係を引き離されました。

余談ですが、男の子らしくさせるという魂胆が母にあったのかは不明ですが、半強制的にボーイスカウトに入団させられ、そこまで楽しく感じることはなかったものの、週末や長期休暇中は親から距離を置けることが良い息抜きとなり、なんだかんだで中学生を卒業するまではボーイスカウトに所属していました。

『私らしく生きる』ことを徹底的に否定された挙句、罪悪感を植え付けられ、交友関係も絶たれ、人生の早いうちから生きる意味や気力を失っていました。

私は表面上だけ良い子であることを取り繕うようになり、その裏では内側の本当の気持ちが抑圧されることに耐えかねて、梁にロープを掛け『自◯の練習』をするようになりました。12歳の頃だったと思います。

幸か不幸かその練習は成功することはありませんでした。その代わりに、できるだけ早くこの家から脱出し、可能な限り遠くへ引っ越し物理的に親との距離を取りたいと思いました。そう思うきっかけになったのは、中学生の時にいつもの如く母の機嫌が悪くなり、外へ放り出されようとした時に、自らの意思で「じゃあ出て行く!」と告げ、自分の手で玄関のドアを開け家を去ることができた時… あの時の少し動揺した親の表情が、私に少しの自信と将来の希望を与えてくれました。私はもうすぐ自由になれそうだって!

それからまもなく、私は工業高校へ進学しました。動機はいろいろありましたが、もし学力や資金が足りなくて大学へ行けなくても、すぐに親元から離れて就職ができると思ったからです。当時は1990年代の後半で、パソコンに少し詳しい一般の人たちが電話回線によるインターネットを利用し始めた頃でした。幸運なことに、私の通っていた工業高校では生徒たちがインターネットが自由に利用でき、国内のみならず、海外の情報でさえも無料で簡単に手に入ることに感動しました。

そんな当時最新技術だったインターネットのおかげで、海外の情報を知りたい一心で英語に興味を持ち、頭が悪いながらも一生懸命英語の勉強を始めました。そんな中で、JETプログラムを通じて私の高校へ赴任してきたアメリカ人の英語の先生から直接英語を学ぶ機会に恵まれました。

JETプログラム(Japan Exchange and Teaching Programme)は、日本政府が主催する国際交流事業で、地方自治体が主に英語教育や国際交流活動を通じて地域の国際化を促進することを目的としています。参加者は世界各国から選ばれ、日本の学校や地方自治体で英語教育の補助を行い、生徒や教師と交流します。

1987年に開始され、異文化理解の促進や国際的なネットワークの構築に寄与しています。参加期間は1~5年で、応募には学士号や英語力(英語話者以外の場合)などの条件があります。

高校3年生の時に、そのアメリカ人の先生に進路や将来の夢を聞かれ、すごく適当に「いつか海外に行ってみたいんだよねー」って伝えたところ、先生のアメリカの母校へ進学したらどうかと、思ってもみなかった提案をされました。

早速インターネットでその学校の授業料を調べたところ、日本の国公立大学とさほど変わりのない値段でしたので、「これは行ける!」という確信がありました。(当時は日本の経済状況がバブルの余韻でまだ好調だった上に、アメリカの物価が日本よりも格段に低かった時代でした。)

私は母がアメリカ留学を許可してくれるという確信がありました。というのも、そもそも母が私にスパルタ教育という名の虐待を加えたのは、国公立大学へ私を進学させるという目的があったからです。ところが私は、国公立大学よりも上位に見えるアメリカの大学へ進学しようとしていたことは、母にとって棚からぼたもちだったに違いありません。つまり、母が彼女自身の結婚や、教育方針、その他諸々の人生の選択が正しかったことを、私の祖父母に対して証明できる絶好の機会として、母が私を利用するだろうと計算しました。

私の予想は大当たりでした。母がアメリカ留学を許可してくれただけでなく、祖父母が資金を提供してくれることになったのです。

こうして私は進学のため渡米し、日本へ残した家族とは連絡もほとんど取らなくなり、卒業後はアメリカ人の女性と結婚し、そのままアメリカで暮らすことになりました。

肉体的な自◯は成功しなかったものの、社会的な自◯を遂げることに成功しました。いま、日本に私がいた痕跡はほぼ皆無です。

最近になり、自分自身を蝕んでいた虐待のトラウマや性別違和との決着をつけるために、こうやって日本語で文を書くことも始めましたが、それまでは日本語すら忘れかけていました。(現在リハビリ中)

早くも人生の後半へ突入し、死を意識し始めるようになりました。
このままモヤモヤした気持ちで死ねない。
死ぬ時は心を軽くしてスッキリとした気分で死にたい。
そのためには『自分って何者なんだろう』って思春期で出すべきだった答えを見つけたい。
自分らしく生きてみたい。

社会的な自◯をした私が辿り着いた場所は、失った子供時代をやり直す環境でした。いま私にそんな贅沢な環境が与えられて、とても幸運だと感じています。


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