オッサンカメラマンが初めてボランティアに行った話 #01
そもそもなんでソンナひちめんど臭い撮影にのめり込んでいったか?と言う話です。
それは2011年3月11日です。
誰にとっても強烈な出来事でしたね。東京の会社でも怖かったです。フロアのスプリンクラーが作動してCG用のPCだらけの仕事場でしたから、まさに阿鼻叫喚でした。けれど、東北はその時。
50のオッサンになってた自分は思ったわけです。「今ボランティアに行かなかったら、この先もう行けないかも知れない。」社内で誰彼なくそんなことを言ってたら「良かったらウチの町に行きますか?」となりました。その人の出身の町が岩手県山田町。ご両親は山田町在住。ほんの1週間前にボランティアセンターも立ち上がったらしい。「じゃぁ行きます!」となったのが4月10日頃だったと思います。急ぎ当座の簡易食料と寝袋、スコップ、一輪車を買い集め車に積み込み向かった訳です。
遠かった。東京から約15時間。
今でこそ高速が整備され便利になりましたけど、その頃はあちこち寸断され、東北道でさえ穴ぼこと段差だらけ。余震もひっきりなしでした。山越えは危険らしいと聞き仙台から海沿いに向かいました。
報道で聞き覚えのある町々ばかりです。塩釜、松島、石巻、気仙沼、南三陸、陸前高田、大船渡、釜石、鵜住居、吉里吉里、そして山田町です。どこもかしこも道が途切れ、迂回して迂回して山に入り海側に降り、どこをどう走ったのか判りませんでした。一つハッキリ伝わってくる感覚は「これはとんでもないことになっている。」怖かったです。とにかく怖かった。目で見ている事が信じられませんでした。そして臭気。例えようのない臭気が押し寄せてきます。視覚と嗅覚に直接伝わる恐怖でした。
ボラセンの真下が被害を受けた老人施設でした。ここだけで89人の方々が亡くなられたり行方不明になっています。
山田町の中心部は津波火災でポッカリ赤い広がりでした。全てが焼き尽くされ赤錆びた鉄骨の一部しか残っていませんでした。
それでも、ボランティア。まだボラセンが立ち上がって間が無い時期でしたので作業のリクエストも少なく、避難所の炊き出し補助をしました。豊間根中学校の家庭科室で約300食を作るお手伝いです。とはいえ専属スタッフは自分含め4名(ウチ2名は被災された地元の料理人の方々です。)昼を作って出したら、すぐ晩御飯の準備、配膳、後片付け。大変な作業量です。東京で大規模災害が起きた時、避難所ができたら。。。考えるだけで恐ろしくなります。
それでも山一つ内陸にある中学校でしたから、生徒さんも普通に通学しているのです。部活もあり、皆さん子供さん達の元気な声を聞きながら、ホンワカした時間もありました。
持ち込み品で一番喜ばれたものがエスプレッソコーヒーメーカーでした。 1ヶ月すぎてましたから食料は届いていたのですが、コーヒーはインスタントしかなくて、たまの休憩時間、本物のコーヒーは何よりの楽しみになりました。
4月、5月それぞれ1週間ずつボランティアをするうちに、皆さんと話もするようになりました。やっと少し顔が馴染んだのに、仕事が忙しくなり間が空いて実質的なボランティア活動はこの2回で終わってしまったのです。8月のお盆の頃皆さんはそれぞれの仮設住宅に移り始めました。
町の中はこんな事なのに、知り合う方々は方言があるので半分も理解できないけれど、、、有り余るほどいい人達なのに。「なにかしたい。」少しでも役に立てるなら。
できる事はなんだろう?
やはり「写真」な訳です。それくらいしか得意な事がないので。
被災地で写真を撮る事って。
そりゃもうアカンです。
人目も気になるし、この地の方々の心持ちを考えたら。時には怒られることもありました。申し訳ないです。ごめんなさい! 何がしたいんだろう? 判らなくもなります。報道の人でもない、ただのスタジオが得意なカメラマンですから。なんのメディアも持っていないし。唯一あったのはFaceBookですから。
そんな時、卓三さんに道端で出会いました。1928年生まれ御年82歳。
「あなたはどうして写真を撮っているのですか?」と。
しかも素敵なニコニコ顔で聞く訳です。
ひとしきり今までの事、山田町に来ている理由を話しました。
「じゃぁ、あなたの車で行きましょう。是非見せたいものがあるから。」と仰る。港から山を上がり、下ると一つの大きな長円形の谷に出ました。
小谷鳥海岸でした。大変洋に面している海岸の村です。破壊の限り。遡上高26メートルに達したそうです。
谷の中腹に設けられていた避難所もろとも津波が全てを太平洋に持って行った場所です。浜は綺麗な松林があったそうです。
卓三さんがその場で力説するんです。
「是非これを伝えて欲しい!人の無力、自然の恐ろしさ、今回の出来事を伝えて欲しい。」
<卓三さん、今回が3回目の津波なのだそうです。昭和三陸大津波(1933/03/03)とチリ地震津波(1960/05/22)。養殖漁師の卓三さんは都度棚を流され道具小屋も失い。幸い今回の津波はご自宅の玄関前で止まったので家を失う事はなかったのですが、漁師業は終わりとされました。>
「私も伝えます。若い人にこれを言葉で伝えます。」と仰るのです。
山田町は海と空と、美しい自然のある町なのです。東京では絶対見れない透明な空と、静かな山田湾。毎日の夕方はまるで絵のようです。
きっと平和な漁港で多くの漁師さんが、町の人たちが、この海と空を見ながら毎日の仕事と生活をされていたのです。以前はこの港に200隻以上の漁船があったのだそうです。
これを残そう。可能な限り見たままに、深く深く写そう。マジな機材で。真剣に。そして少しでもいいから人に伝えよう。そう思える出会いでした。
<続く>