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オッサンカメラマンが初めてボランティアに行った話 #3

先日10周忌を迎えましたね。

とは云え、自分の中に何か大きな感慨があったか?と問われたとしたら?答えは「なんかなぁ、、、。」少しカラッポな感覚だけでした。

違和感の答えは連日のテレビをはじめとしたメディアにあった気がします。曰く「忘れない」「絆」「今もなお」

この記事もそのタイミングに合わせて公開するべきかな?とか最初は思っていましたが、日々気が重くなるばかり。

向こうの友人たちの言葉に「ナルホドね」と云う言葉がありました。


「被災地、被災地って俺らの町はちゃんと名前があるんだよ。地名で呼べよ!」

「10年10年って祭りじゃねーぞ!」

「忘れないって言われなくったって忘れられんよ。」

お父さんがスーパーに買い物に出てるから「どうした?珍しい。」と聞かれた答えが「毎日毎日テレビで津波の絵ばっかり流すからカーチャン寝込んじまってね。だから俺が買い物出るんだよ。」


長い時間の間に自分の中にも自分事としての記憶が植え込まれたのかも知れません。普段、だからと言って「その時」の事を話し込むわけじゃないんですけれど、何かの拍子にチラッと伺える言葉とその記憶。それはとてつもなく重いわけです。


「10年一区切り」って云うけれど、自分の仕事や自分の生活もその都度、区切りを迎え、変容してきました。その一番最近の10年の中で何が変わったのでしょうか?

写真をたくさん撮りました。山田町での経験が、今の自分の仕事の大きな礎になっています。自分なりに目で見えたものを再現する事ができるようになりました。それが大きな自信になりました。

かなりの確率で正しい時間に正しい場所にいる事ができるようになりました。それは、技術とか理論の問題じゃなくなりました。相変わらず、色々な方法論は試していますが、つまるところ写真は「そこじゃないな。」と感じられるようになりました。

企画と意図、そして自分がオープンである事。人に対して。場所に対して。知らない事を認める事。自分が判ってない人間である事を認識する事。そんな感じです。

技術と理論はいわゆる自分にとっての工具みたいなものでしかないんです。


オッチャンです。名前は割愛します。

そもそもこのオッチャンと避難所で知り合ったこと。それが全ての始まりでした。息子さんをその日に亡くしたばかりでした。奥さんとは殆どやりとりがなく独り身になったも同然の人でした。

悲しい目をした人でした。

酒ばかり飲んで威勢のいいふりをしてる人でした。

彼の仮設住宅に寝泊まりしていました。乗り合い漁船たたき上げの凄腕漁師でしたから、朝はアッと云うまに魚の煮付けを作ってくれました。美味かった!とてつもなく美味かった。エロビデオの箱の中に札束を仕舞い込んで時々人に見せて楽しんでるような人でした。

結局オッチャンは酒で死にました。土に還ったのです。

最後は人づてに「盛岡の病院でね、一人っきりで。」


そんな話しかありませんでした。



レノさんです。

震災を契機に都会から移住してきた人です。山田の女性と結婚しました。町の復興、特に心の復興に尽力した人です。自然体の生き方と無二の優しさを備えた友人です。


カメ爺です。

数年前大病をしました。もうダメだと思ってました。死んじゃうんだと皆が思ってました。薬の副作用がまたひどかった。半狂乱になっていた時期、誰一人近づけず奥さんと二人でリハビリを続けました。そしてこの写真の日、見事復活し自分の船を海に下ろしました。今は更に元気です。信じられない執念。信じられないエネルギーです。

私が大きな問題を抱え悩んでいる時、カメ爺はいつも的確な言葉を投げてくれます。そして救われる気持ちにしてくれます。オッチャンの死の時も。親父の亡くなった時も。実家を処分する時も。会社を辞め独立する時も。

言ってみれば親代わりのような友達です。


2019年3月、山田線が復活しました。やっと走った山田線もその年の台風で、またしてもダメージを受けました。山田町や多くの苦難を受けた人や町、その象徴のような存在です。


そして、今回のコロナです。

全く行く事ができなくなりました。

山田町に東京ナンバーの車が走っていたら、皆さんパニックになります。それほど安全で都会から遠い町です。


そして10年が過ぎました。


時間は大きな問題ではありません。


ただ、町の人たちに会いたい。

美味い魚を一緒に食べたい。

自分の写真の転換点である町で写真を撮りたい。

気がついたら山田町は自分の写真を再調整するブルペンみたいな場所になっていました。

不思議なこともあるものです。


山田町にも巨大な堤防ができました。国の云う復興は土木です。それしか想起できないのでしょう。

いつまでたっても重機がいる町になってしまいました。





仕事でも東北に関わる事ができるようになりました。



そしてまた山田に行けば、きっとこんな風景が待っています。

みんなが「お帰り〜。」と言ってくれます。


そう、ボランティアに行ったら抱えきれないほど沢山の事を教えてもらえたのです。今も続いているのです。

山田に帰って教えてもらい、それを生かして東京で仕事をしているのです。


大感謝です!!


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