無力感からの希望がDNAになる
破壊の学校で知り合ったみっちーの故郷「球磨村」の凄まじい画像が送られてきた
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同じ球磨村を故郷にもつ知人の方の顔も浮かんだ
それから1ヶ月もしないうちに、わたしの住む鹿屋市も肝付川が決壊寸前、自宅のすぐ近く友人の住むアパート周辺は内水氾濫で水没した。
最近の雨は尋常じゃない振り方をすることがある。
その度に思い起こされる祖母との会話。
「帰る実家があることは本当に幸せ。ばあちゃんは帰るところがなくて辛かった。寂しかった。」
「なんでなかったの?」
「山津波で流された」
「山津波って何?」
「雨がどっさり降って山が崩れて流れてきたのよ」
「ばあちゃんだけ助かったの?」
「ばあちゃんはじいちゃんちに嫁に来てたからね。延岡に嫁さんにいた妹と2人助かった」
「そうか。寂しいね」
そんな会話を雨がひどくなるたびに交わしていた。
私が多分災害というワードに敏感なのはこの祖母との会話がベースにあると思う。
記憶と言う名のDNA。
1.どんな災害だったのだろう?
どんな災禍だったのかという疑問をずっと持っていた
でも資料や映像があるのは肝属川水系ばかり
内之浦はかなりの被害だったと聞くが資料がすくなく特に岸良の資料はなかった
だから、内之浦に勤務するようになってから、雨季になると高齢の方々から話題にして話を聞いた。
⒉山が鳴いた
「初めてあんな雨が降ったのよ。家から外をみると道がかわになっちょった」
「山が鳴いた。なんか起こるちおもた」
「あっちゅうまにに川から水が出て屋根に登って助かったんだよ」
地域のお母さんたちは、それぞれ幼いときの記憶、女学生の時の記憶を思い起こしてお話して下さった。
私には特に「山が鳴いた。おとうしかった(恐ろしかった)」は印象的で当時4ー5歳だったお母さんの記憶だった。よっぽど怖かったのだろう。山を見ながらこんな風に感じたのよと当時にかえったように話してくれた。
そして下流に住んでいたばあちゃんの家族は家が流され命を落とした。
⒊どうやって復興したの?
実はここがあまり語られないことだった。皆小さかったからなのか…仕方がないかと思っていた。
しかし、市町村合併し初めてモデル事業で地域で災害ワークショップを行ったとき初めて復興の時の話題が聞けた。
地域の方とDIGという危ない場所や要援護者の方を地図にプロットしていくワークショップの中で、当時振興会長をされていたお父さんが初めて久保田川は今の川の走行ではなくてもっと町寄りだったんだと教えてくれたのだ。
その走行を災害により変わったところをいかし、人的に変えたと教えてくれた。
実は、肝付川もこの反乱の後走行を変える大規模な工事が行われて、その工事に携わったお父さんお母さんの話も聞いていた。
大きな川だけでなく、このちいさな岸良地区でも同じように治水が行われたのだということを学んだ。
復興しながら戦争の時期に入って行ったことも、資料や記憶が曖昧なことに拍車をかけたのかもしれないと聞いた。
戦争末期は太平洋に面した岸良は空襲を何度か受けている
目の前で人が撃たれた記憶を持つ方、観音様を担いて逃げたという方
だからこそ相次いで自然でも戦争でも荒地となった場所を見たときに無力感に苛まれなかったのか?疑問が湧いた。
ばあちゃんに聞いてみると生きることに必死だったと話した。「生きてれば腹は減るのよ」と笑ったばあちゃんの顔が何かを物語っていた。
⒋初めての資料に出会う
同じ頃偶然にもこの水害の時の資料に初めて出会った。
長く内之浦や岸良小中学校で教職につき町の助役として活躍された方の追悼集をつくられた娘さんから岸良にゆかりのある子だからと頂いた本の中に詳細な記録が載っていたのだ。
その方の息子さんは実は私の中学校の恩師で叔母の同級生。それにも縁を感じていたがまさか長年追ってきた災害の記録がここに載っているとは思わなかった。
そのかたはこの風水害の後の救護本部係長をされていたのだそうで写真や史実が残っていた
その中にあった記載に一番被害が酷かった地域は実は死者行方不明者がいなかったという記載があった。山津波を過去繰り返した地域であったため言い伝えがあったのだそう。
「くゎんすんたん(谷)が鳴る時は家財持ち出し等の欲を捨て早く避難せよ」
地域のお母さんたちやばあちゃんの記憶と繋がった瞬間だった。
⒌コロナ禍の中で
東日本大震災からまもなく10年
支援活動に伺わせていただいく時、町長が「あの昭和13年の大水害の際東北から米がこの肝付町にも届けられ助けてもらっている。今度は恩返しの番です」と挨拶された。
それを聞き私もまた震えた。世代を超えての支え合いなのだと。祖母はすでに他界していたがお役に立てるように頑張ってくるねと墓前に伝えた。
さまざまな人の記憶は、語り継がれ想いのDNAとなり繋がれて行くのだと思った。
無力感の中から希望を見出し語り継ぎ、未来の糧にして行く強さはある意味人のDNAに組み込まれているのかもしれないと思う。
先日、球磨村のマダムたちが何かできることはないかと炊き出しをされている話を聞き、人の強さとたおやかさを感じ聞いた私たちの方が力をもらった。
多分無力感に苛まれるような風景が今でもそこにはあるはず。
でもばあちゃんが言っていたように「お腹は空くからね」と笑える強さが人にはあり、でも同じような思いはさせたくないから語り継ぐ。みんな今を重ね明日を作っているのだ。
今日、奥田浩美さんがブログでマザーテレサの言葉を紹介されていた
Yesterday is gone
Tomorrow has not yet come
We have only today
Let us begin
まさにこれ!
コロナ禍も含め、闇の中に希望を見つける力が私たちの中にはDNAとしてあるはず
なぜなら闇の中の光を見出してきた命から、繋がってきた命なのだから。
2020年12月31日無観客でも紅白をやり切る姿にもDNAを感じながら2021年を迎えようとしている
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