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親和欲求と生きること

欲がなくなってしまったら、人と会うことで得られる安心感や気持ちよさすらも求める必要などないという結論になるのだろうか。もしそうだとしてもそうじゃないとしても、人と会いたいと思うこと、人と暮らしたいと思うこと、人と居合わせたいと思うこと、話をしていたい、そばにいてほしい、手を握っていてほしい、ときどきは寝ているそばに一緒にいてほしい、このような気持ちを総じて親和欲求という言葉をつくっておこう。この親和欲求とはなんなのか。

人は一人では生きていけないというのは、今の世の中の仕組みでは事実として出現する。それを勝手に道徳にするのは自由だが道徳では決してない。事実である。我々はあらゆる食材を自分でこしらえる世の中に生きていない。働いてお金を得ることは他との関係を結んで生きていくことの契約であり、他との関係なしにお金は何ら機能しない。そして他との関係は、直接的にしろ間接的にしろ、絶対に自分以外の人間が存在する。お金なしで生きていけない世の中は他(人間)との関係性と絶対に切り離して生きていくことができない事実に取り込まれるということである。

だから、人はそもそも物心ついてしまったあとで、自分の食事をとってきて、自分だけで用意できて、住む場所を見つけられて、安全に眠ることができれば、他の人と関わり、居合せ、または共に暮らすことなどしなくても良いということになる。それでも生存は可能なのだ。ロビンソン・クルーソー、ヘンリー・D・ソローなどのように独りで暮らすことは実際にできる。お金という他との関係性から切り離されれば、人間と共にいなくてもいい。むしろ動物、例えば猫や犬、馬や羊、あるいは植物に囲まれてベニシアやターシャテューダの空間のように暮らしても構わないのだ。それなのになぜ、我々は人と会うことを選ぶのだ。そのように設計されていること以上の意味づけがあるのだろうか?

生きることが人と関わることに含まれている時期は、赤子のときだろう。悲しいことに赤子は触れてもらわないと死亡してしまうというデータがある。皮膚への接触なしに子どもを育てることはできないのだ。親和欲求はその名残りだろうか?生存することが、食事と排泄と睡眠だけで語られるのならば、親和欲求はある一定の時期がくれば必要なくなるのだろうか? 生殖は親和欲求だろうか?生殖行為が親和欲求を強く満たすとしても、それだけなら異性としか会う必要がなくなってしまう。それは違うだろう。だから、食事排泄睡眠、そして生殖とは独立して、我々は親和欲求を持っている、そういうことにしよう。そして先にあげた赤ちゃんの事例のようにそれは場合によっては生死を分けるということなのだ。

さて、それならば親和欲求とはつまりは安全、安心ということだろうか?危険を避けたい我々の、太古からの知恵であり、一緒にいるというのはつまりは安全と安心に対する欲求であると捉えることもできる。しかし、この世界は完全と安心がかなり保障されている。とくに日本という国では世界的にもトップクラスでの安全な国だと言えるだろう。例えば若い女性が一人で暮らすこともできる、夜中に歩くこともできなくもない。急に殺されることも、発砲されることも刃物で斬り殺されることもほとんどない。メディアの報道は偏向されているから、あたかもそのような事件がたくさん起きているように見えることはあるが、それは事実を正確に反映したものではないだろう。凶悪な事件はどんどん減っているのが事実だ。これほどまでに、安心安全な国に住んでいてもなお、やはり親和欲求が失われることはない。人とは会いたいし、近くにいてほしいと思うのだ。つまりは、安心安全ということでもなさそうだ。それとすらも独立しているのが親和欲求なのかもしれない。そうすると、親和欲求とは今まで確認してきたさまざまな欲求からは独立して存在している欲求だと言えるだろう。親和欲求は、食事、排泄、睡眠、生殖、そして安全、このような欲求とは独立して存在していると。

さて、前提がわかった。この人間が住まう世界には内と外がある。親和欲求を内と外という概念を使って説明するならば、外の存在が内に入ることの安心感である。つまり、身体的な安心感で言えば“触れ(ふれ)”である。触れによって人は外の存在の熱や気持ちを内側に取り込むことができる。この取り込みは、自己という存在の輪郭を形成すると同時に、“私は物質ではない”という気と念を受け取る。親和欲求を渇望する寂しい人間は、“私”が物質化することへの寂しさである。物質化することにより人は凝固する。自らのうちで熱を生産しているはずなのに、人はその内側の熱では、物質化し、凝固し、さみしくなる。なぜならここではたらく熱は、文字通り熱力学的な熱であり、カロリーであり、“温度”でしかないからだ。気と念は温かさであると同時に優しさである。我々は人間であることを切望すればするほど、温かさと優しさが必要になる。他者の温もりである。親和欲求は触れによる温かさと優しさを受け取りたいという切なる欲求である。もちろんこれは必ずしも手を握ることやハグすることだけでなくても構わない。人と直接会うということがこの温もりと優しさを受け取るということだ。もし、時代がこのことを制限したり拒否したり蹂躙することがあっても、我々は他者の温もりを求めなければ、自己は輪郭を失いながら、凝固し、私の身体は肉塊へと墜落してしまうだろう。だから、新生児に触れがなければ死亡してしまう、このことは至極当然である。認知症患者のハンドセラピーが症状を大きく改善するのも、至極自然なことである。喧嘩をしている夫婦が手を握りあうと、相手を罵倒することが減り、自然にお互いの意見を聞くようになる、それも、至極自然なことである。


親和欲求という人間の極めて重要な欲求は、生死を左右し、精神状態を左右する。もう一度言うが、これは食事や排泄、睡眠と同じような重要さと強度をもって、我々あらゆる人間に備わる大事な欲である。この欲を無視すれば心を蝕まれ、最悪命を落とすことになるのだから。そしてこの時代には、虚しい現実がある。この虚しさは、親和欲求を満たせない慢性的空虚感という寂しさを浮き彫りにした現実である。触れのない世界に住まう人々は触れを渇望し、他者に危害を加える形で、その触れを切望してしまう。あらゆる欲が渇望によって問題を起こすように、親和欲求も同じように問題を起こす種となる。この世界のあらゆる人間が触れを望んでいる。どんなに触れられたくないような雰囲気を醸す人間であってもなお、人は触れを望んでいる。そして、その触れを満たそうと誘惑する、視覚的聴覚的情報、そのようなコンテンツはこの世界に溢れている。渇望は代替することによって、さらに渇望を強くする。食欲を満たそうと望んで食事の写真を見ても飢えは癒えない。飢えは“丁寧に”食べることでしか、癒えない。ならばどうすればいいのか?

離れ小島のようにそれぞれがそれぞれに個として、つまりは孤として、独立する我々は、親和欲求という極めて大切な欲求を蔑ろにされながら社会設計されてきた。そして、その欲求をかきたてはしても決して満たすことができないコンテンツに囲まれることによって、満たされていると勘違いさせる世界に住まうことを強いられる環境にいる。特に“都会”と呼ばれる場所はそうである。金銭によって他とつながることが、最善であるとされる世の中に生きてきた。このことの解決策は、離れ小島として住まうことではない。同じ島で暮らすことである。同じ島で暮らすなかで、手を握って助け合うことである。至極当たり前のことである。人が生きるということは、そのような弱さと寂しさの積極的享受である。それは情けないことではなくて、生きるということがそれを含んでいるということだ。

この社会設計の欠陥は、親和欲求を考慮に入れなかったことである。人は他者とともに暮らしたい。そして他者の温もりと優しさがなければ、人は凝固し、自己の輪郭を失い肉塊として墜落するのだ。この寂しさの彼方に、暴力がある。この暴力は、他ならぬ親和欲求のやり場のなさである。やり場のなさによって起こる様々な暴力によって傷つけられる人が無数にいる一方で、その暴力を行使する当事者は、親和欲求を満たすことのできない世の中の冷たさによっても深く傷ついている。手を握って、「大丈夫だから」と言ってくれる他者を人は切望している。この事実からシステムを設計することが、親和欲求と生きることである。それは老若男女問わずそうであるということを忘れてはならない。女性同士は身体的接触も多く、コミュニケーションも活発である。男性同士でそのようなコミュニケーションを行うことは少ないがしかし、親和欲求はあらゆる人間にある。この世界の男性、特に高齢の男性の親和欲求はこの社会でほとんど"ないこと"になっている。ないはずがない。人間なのだから。社会的に孤立した人間、誰とも話す相手がつくれない人間、それでも親和欲求は存在する。欲求が置き去りにされること、それは存在の痛みとなるだろう。存在していること自体の痛み、「なぜ自分は存在しているのだ、必要とされてないのに。」という感覚。人はそもそも他との関係性によって存在している。食事という他がなければ人間の身体は命の継続を許されない。他を自己とすることによって命が継続される。しかしその継続される命、自分が存在しているということ、それは欲求が同時的に発生する場となる。このままでは、欲求が宙吊りである。存在の痛みは瞬間的な強い痛みではない。内側で持続的に感じる慢性的な痛みである。この世界では、特に僕らが住まう日本では、持続的で慢性的な、存在の痛みが個々人の内側で充満している。このような社会に住んでいる。

存在の痛みは、もちろん世の中のシステムがつくり出したものではない。親和欲求が満たされることで、存在の痛みが癒えるわけでもない。逆に孤高を極めて、一人で暮らすことを意志することでなくなるものでもない。ましてや"死ぬことで"、楽になることでも決してない。命ある存在として生まれ、いずれは命が消える存在として、恒久に存在し続ける痛みである。しかし、その痛みが無くならないことは、軽減できないということではない。親和欲求は、存在の痛みに対して、手当てを望むことである。そもそも人はほかならぬこの私の苦しみに対して手を差し出してくれと発すること自体を躊躇う。あらゆる人間の痛みを脇において、ほかならぬこの私を主張することは、傲慢であるという認識がある。けれどもこれは、決して烏滸がましいことでは"ない"。痛んでいるこの私に手当をしてほしいと望むこと、それを他者にお願いすることは、決して、傍若無人であることでは"ない"。それは、優しさにふれたいと願う、存在の権利である。人は悲しいほどに、他の存在を求め、ただ他の存在がそばにいるという事実それだけに安心する。あらゆる安心は存在が先行するのだ。

他者は誰でもよいわけではない。しかし誰でも他者になることができる。存在の痛みを分かつ他者は、誰でもよいわけではない。しかしその痛みをとる他者になることは、誰でも可能である。ここに必要なのは"歴史"である。歴史なしに他は他者にならない。歴史は、出会った年数ではない。歴史は今この瞬間の出会いから、記憶を創造する営みである。過去は、現在から構築され始める。この過去は、まさに創作であるが、事実よりも現実に近い創作である。この創作によって、今この瞬間の出会いが、過去に歴史をつくり出す。この人間の邂逅という時間の創造こそが、他を他者とする体験的地盤である。このような地盤が形成されることによってのみ、存在の痛みに手が当てられ、それは落ち着きをみせるのだ。

あらゆる人間は親和欲求を抱えている。親和欲求は存在の痛み、持続的で慢性的な痛みへの手当を望む。それは他者によってのみ癒される。この事実は、欲求を単純で素朴な身体的満足として記述されることへの人間的抵抗であり、人間的な切なさと関係している。しかしそれでも、それは個が融和する経験ができる人間の豊かさである。

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