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充溢

コップから水が溢れて、下へこぼれるように何かに感情が満たされる経験は、涙として出現する。これはある種不思議な体験である。感情は具体的な物体として存在するわけではない気がする。感情は何か非物質的なもののような気がする。それにも関わらず、心の器が充溢するとき、それは涙としてこぼれていくのだから。なぜか?これは感情が物質でしかないということか?それとも涙は実は単なる物質ではないということか?前者に向かえば何かしら科学的な、ある種面白さの欠ける結論が出てきそうな気がする。涙という水分が流れていく経験が実は生理学的なものとして記述されるあまりにも単純な経験だったとしたら、詩や哲学はいらないのかもしれない。このように見えるものと見えないものとの境に出現する存在について記述すること自体のもつ、人間の温かな可能性は、肉体を制限から解放する可能性である。肉体の制限とはつまり物体であるということである。しかしながら、今の世の中は肉体を物体から解放するように見えて、さらなる強固な柔軟性のない器へと入れ替えているように思う。それは私が常々否定的に扱う、「安易なスピリチュアル」である。私はスピリチュアルを否定したいわけではない。むしろ、ここにこそその可能性があるかもしれない。しかし、安易なスピリチュアルはその可能性を固着させてしまうのだ。だから、感情の充溢によって涙が出るというこの、不思議であるが自然に生じる体験を記述することで、見えるものと見えないものの架け橋へ気づく手がかりを得たいと思うのだ。

なぜ泣くのだろうか。科学的な話をしているわけではない。科学はwhyという問いをhowにすり替えることで偽装する。だからここでは科学は役に立たない。泣くとき、それは感情の充溢であると先ほど書いた。感情の充溢とはどのような状態であろうか?

感情の充溢は、体験への感受性なくしては起こらない。体験それ自体に感情が付随するのではなく、体験にあるエキスを、我々が感受するから、感情となるのである。体験を体験として消化して味わうこと。それが充溢への大事な一歩である。

充溢は、本当に充溢が起こるとき、感情は単一ではない。悲しいだけ、ではないし、嬉しいだけではない。心が複雑のまま強い強度をもって、単一の感情という意味ではなく、一つのものとして体験する。それは感情を言語にすると分かれてしまう。しかし、充溢が起こるとき、それは一つのものとして、つまりOnenessとして体験される。分割はできないが、言葉にしようとすると、悲しくもあり、嬉しくもあり、切なさもある、というような表現しかできなくなってしまう。これが充溢したときの感情の立ち現れ方だ。Onenessがこぼれ落ちるとき、それは涙となって出現する。しかし、Onenessの体験はさらに複雑だ。ここからはさらに説明が難しくなるが、「自分が他者に対して感じる感情」、だけではなく、「他者が自分に対して感じる感情」も同時に体験することになる。つまりこの後者の感情は、自分を出発点としていない。他者が出発点である。他者から出発する感情は自分のオリジナルの感情ではない。自分からの出発ではない感情すらも体験するのがOnenessである。まとめると、言葉で分割できない感情と自己と他者が分割できない感情を体験する、それがOnenessである。通常離れているはずの、分かれているはずの感情が分かれることなく、本来の豊かな実在として立ち現れるのだ。そのとき、人は心の器が充溢し、涙を流す。

涙としてこぼれ落ちるOnenessの断片は、外に向けられる。つまり、涙を流すという身体反応として、顔に現れる、泣き顔として。顔はそれ自体他者に向けられ続けることを宿命とする身体部位である。この身体部位が泣き顔という状態を呈するとき、自己の「顔」はなおさら他者に差し出される。恥ずかしくて、見られたくない顔、それでも充溢によって目や頬は赤くなり、声は漏れてしまう。他者はそれを受け取る。いや、受け取らねばならないのだ。もしこのこぼれ落ちる涙を受け取らないならば、それは他者が人間として生きているという事実と奇跡に無関心であるということである。充溢の体験を我々は見逃してはならない。充溢の体験は赤らむ顔に現れる。

この世界にある感情は必ずしも自分の内面だけで体験するものではない。自分の内面と外側がかち合うこと、それは世界が私に話しかけてくるということである。Onenessというのは、そういう体験なのだ。涙を流すとき、そしてそれが他者に顔として差し出されるとき、言葉によって分けられていた世界はつながりを取り戻していく。その浄化の水として、涙は、物質を超えた物質として、他者の面前に差し出されるのだ。だから泣くことは厭わなくていい。この世界が語りかけてくることで自己が揺さぶられるとき、それは人間が祝福されていることの一番わかりやすい一つの表現だからである。

そして私は涙を流す。この心の器が充溢したのだ。それは特別なことが起きたわけではないが、あらゆることが特別であり奇跡であることに気づいたということである。突発的な出来事や特殊な経験などによっても人は充溢を経験するだろう。しかし、それだけではない。ただこの世界に生きているということ、そのこと自体の奇跡に気づくこと、ただそれだけでも心を充溢させるためには十分なことなのだ。ここで気づく人がいるだろう。体験をすることが重要なのではなくて、体験一つ一つの仔細な気づきが充溢をもたらすのだと。心の器に滴る水は、気づきから生まれる感覚と感情のことだ。あらゆることは認識することから始まる。涙を流すという経験は、豊かな気づきが始まりとなって現れる。感受性が豊かになるとは、この世界を解像度高くより精緻に見ることができるということだ。泣かなければいけないわけではない。しかし、充溢は一つの美しい体験である。私は最近涙が止まらなくなった。この世界で誰かと邂逅することが、一つの奇跡のように感じられた。これは精緻に世界を見なければ、奇跡にはならない。奇跡は日常に、常に"溢れている"。なぜこの人が隣にいてくれるのかについて説明する手立てを、人は持っていない。けれどもその事実を知ることはできるし感受することができるのだ。

この邂逅。邂逅とは出会いのことである。しかし、何かが溶け合うことでもあるのだ。この世界での出会いとは溶け合うことである。溶けるとは、しこりや苦しみがほどけていくことだ、そして、固まっていた氷が解けて水となるように、涙を流すことだ。他者はそれを受け取る。だから目から、"顔"から涙が伝う。その光景は他者に向けて差し出される"優しい赤"である。

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