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問題共有体~対立・融和・誕生~
この世界で人が出会い、集うとき、幸福を感じるとき、この出会いがずっと良好な関係で続けばいいと、僕らは願う。切に願う。しかしそうならずに対立して、嫌ったり、離れたり、合わないことで、出会うことをやめることになる。対立というこの悲しく切ない人間の弱さ。人が集まれば必ず問題が起こる。会社などで起こる人間関係上の問題、上の人が決めることに対しての不満、問題行動、枚挙にいとまがない。人を集めることは問題が起こることを内包している。この社会では家族、職場、それから個人的な関係などの人の集まりをそれぞれ持って人は生活をしている。どれもコミュニティといっていいだろう。コミュニティを作らなければ、人は生きていけない。けれどもコミュニティがあればそこには絶対に対立が生じ、互いの心身を著しくすり減らしてしまうことにもなる。生きることは、問題共有体であるということでもある。コミュニティに限らず、人が何人か集まれば、もうすでに問題共有体である。いや、2人ですら、もうすでに。悲しいことだ。それを乗り越えたい。どうすれば。だから理想を語りたい。治療としての問題共有体を。
以前、共感と理解という他者への向き合い方を僕はエッセイとして記述した。おさらいすると、共感とは同じであることや、一致していることを喜ぶことであり、理解とは違いを認め合い、干渉しない心地よさを互いに保つということ、違うことを楽しむことであると述べた。共感は同と関わり、理解は異と関わるということ。
しかし、共感が同と関わるとしても、それは全く同一ということでは決してないだろう。自分と全く同じ人間がもう一人いたとしよう(一卵性双生児という意味ではない)。そこに共感は生まれるだろうか? そのような経験をしたことがないのでわからないが、おそらく生まれないだろうし、もし生まれたとしてもその感情は豊かさを伴わないだろう。人はそれぞれ違う。こんなにたくさんの人が生まれているのに、この世界に同じ存在は一人としていない。このように設計されている生殖という機能は、多様性の核である。性とは他者を受け入れることであり、他者を生み出すことである。生殖があるから、違いが全てとなっており、だからこそ、共感を感じたとき、人は喜びを覚える。大事なことはまず違うということが、絶対的な前提にあるから、喜びを覚えるのだ。初めから全くの同一である世界に、同一を確かめる行為など、何の喜びも何の感動もない。
一方理解は、自分という不完全性を補うためには違いが必要であるということを確かめ、それを上手に利用するために必要な感情である。我々はすべて不完全である。我々をすべて寄せ集めれば、完全な存在に近づいていくかもしれない。少なくとも一人が持てるものよりも二人が持てるもの、三人が持てるもののほうがより完全に近づいていく気がする。しかし我々は、一つにはならない。一つ一つであり続けるのだ。一つ一つであり続ける存在が、どちらかに取り込まれることなく、手を取り合うことは、違いを違いとして認めつつ、個体としての主体性を維持して、助け合うことだ。それは理解という接続が必要なのだ。
対話とは、共感-理解-融和という現象である。そもそも違う者同士が、共通のものに気づき、違う者同士が、それぞれの差異を活かしながら助け合う。そしてその体験は、融和する感覚である。身体が文字通り融和するわけではないが、呼吸が深くなり、身体の緊張が解けて開かれていく。距離は近くなり、溶け合うような感覚がしてくる。これが対話である。対話は単に他者を受け入れるための心理学的、コミュニケーション的テクニックではない。身体と心を通した、融和の"実際的体験"である。そこには、うまくいけば"快楽"が伴う。誤解を恐れずに言おう。それは性行為に似ている。
しかし対話の手前、人は対立している。すべてにおいてではないが、対立している。対立は対話を通して、共感-理解-融和となる。そして、ここで生じるのは、当然のことであるが、"変化"である。変化とは、自己と他者の身体感覚が、粗雑な表面、ざらざら感から解放され、なめらかでやわらかく溶け合う感覚になることである。この感覚が強い快感をもたらすのだが、しかしながらこの変化を起こす営みは当然一筋縄ではいかない。つながっていたはずの糸はちぎれ、ねじれ、絡まるからだ。関係は、途切れたり、ぶつかったり、痛く苦しい思いをしながら徐々に表面の粗雑性をそぎ落とし、落ち着くところに向かっていく。その過程で出てくるものは、非常につらい、過去の経験や満たされなさ、いらだち、悲しみ、妬み、落ち込み、壊れる感覚である。しかし、これは会話とは違う。会話は、循環するしんどさである。実はこのしんどさは、本当はしんどくなど決してない。ただしんどさの表面を筆でなぞってそれで終わるだけの簡素なおしゃべりである。対話は全く違う。対話は非常につらい過去に果敢に向かっていく。互いの心の深いレベルへと、掘り下げられていく。まさに"穴掘り"である。その過程で出てくるたくさんのガラクタ、それはそれで重要なものであるが、その一つ一つの処理は、苦い。対立の根っこにある、痛みは、過去に経験した辛さを治癒できていない痛みである。その痛みは、特に他者を前に明確に露呈する。むしろ人は他者を前にして、つまりは対話という場においてはじめて、治療がなされなければならないことを自覚するといってもいいだろう。その過程は苦そのものであるが、変化していく中で徐々に粗雑だった表面はなめらかさを取り戻していくのだ。共感-理解-融和という美しい目的へと、向かっていく。
当然、いつでも対話はなされるわけではない。対話は、"きっかけ"によって中動態的に進行する。決して、能動的に(自分の強い意志によって)、あるいは受動的に(強制されて仕方なく)、なされるものは対話にはならない。きっかけは対話の着火点になりうる。着火されれば、それは、無理に消されない限り、自然に燃え始める。当然過去の体験はぼろぼろと出てきて、ネガティブな経験は表面へどんどんと出現してくる。それが、きっかけである。一見恐ろしいことが起きているだろう。けれども、それは変化である。変化の後には、美しい融和が待っている。
融和したあと、それは誕生を迎える。誕生は以下のような構造を持っている。複雑であるが、記述する。それは"わたしたち"というあり方である。
わたしとあなた、一人称と二人称であるが、合わさるとわたしたちとなる。しかし、わたしたち=わたし+あなたではない。わたしたちとは、わたしとあなたが合わさって生じる別のものである。つまりは、わたしとあなたが一緒になるということはわたしたちという別の存在が誕生することなのだ。
もちろん、わたしたちはわたしとあなたで構成されているため、個々がなくなり完全に溶け合って合一して、わたしたちとなるわけではない。個々は変わらず存在し続ける。わたしとあなたという個人が混ざり合って、融合したり、ハイブリットになったりするということではないからだ。先ほど書いた、溶け合う体験や融和と矛盾するように感じられるかもしれないが、溶け合う体験は一つに合一することではない。溶け合う感覚はそれぞれに感じており、全く同じ感覚を味わっているわけではない。それぞれに溶け合う感覚を、それぞれが感じるように体験している。体験自体は個々人のものである。ここは注意が必要だ。けれどもだからこそ、どちらかが欠けてしまっても、"わたしたち"は残り続けるのかもしれない。
わたしたちはわたしのもつ精子とあなたのもつ卵が融合し、受精卵となり、胎児となることではない。わたしとあなたそのものが、あたかも生殖細胞のように機能し、わたしたちという子を誕生させると言ってもいい。もちろん、わたし=精子でもなければ、あなた=卵でもない。少し複雑だが、これがわたしたちというあり方なのだ。当然、“わたしたち”は成長をする。しかしやはり最初のうちは赤ちゃんだから、本当に大切にやさしくしなければならないのだ。関係性とは、一つの誕生である。まさに“わたしたち”としての、新たな存在の誕生である。
これが対話によって生じる誕生の記述である。人は生殖行為だけではなくても、何かの生命体、つまりは“わたしたち”という誕生を経験できるということだ。
しかしここで今まで曖昧になっていたことが発見される。問題共有体は、2人なのか、3人以上なのかという区分けである。直感的に、2人と3人以上は全く違う様態を呈する気がする。2人であることと、3人以上であることは、確かにどちらも対立→対話による変化→共感-理解-融和→→誕生という流れを迎えるだろう。しかしその感覚は、おそらく違うものになりうるだろう。どちらが優れているというわけでもない、それぞれに違うだろう。問いは「問題共有体が2人であること、3人以上であることの差異とは何か?」ということである。このことを分析することは、まだ自分の能力では遠く及ばない。極めて重要な問いとして、私の内面に預けようと思う。