哲学カフェと弱さについて
僕は薬剤師だが、哲学プラクティショナー(哲学実践者)というもう一つの肩書を名乗ることにした。哲学カフェの司会進行役をする機会が少しずつ出てきて、今まではずっと参加者であったものにやっと主体的にかかわることができるようになったからだ。だからこれを機に、責任感とワクワク感を自分の中でちゃんと維持できるように、肩書をしっかり置こうと自分で決めた。これから薬局という場所で哲学カフェをやっていく身としても。
哲学カフェでは、自分と相手は違うということを前提にする。だから、反論はするけれども自分の考えを押し付けるのは基本的にやめようねということになっている。理解と共感は違う。共感はできなくても理解はできるよねということをしっかりと胸に刻みながら司会進行をすることになる。
コミュニケーションを行われ方という点でざっくりと区切ると大きく二つに区切られる。伝達モードと生成モードである。伝達モードとは、教師が生徒に教えるようなコミュニケーションのあり方である。基本的に方向は教師から生徒へということで決まっている。もちろん逆向きも起こりうるが基本的には一方向的である。一方、生成モードでは、発話者と聞き手に双方向性が生まれ、それが絶えず入れ替わる中で、コミュニケーションが行われていく。生成モードでは、伝達する内容などは決まっていないため、そこで発話する人々が会話を作っていき、言いたかったことを互いに発見していくようなコミュニケーションとなる。これがまさに哲学カフェが目指すコミュニケーションだ。上の話に戻って生成モードから伝達モードをみると、自分の考えを述べ、相手を変えさせようとするようなコミュニケーションのあり方は押しつけであり、生成的ではないため、ここでは適さないコミュニケーションのなされ方となる。だから哲学カフェではなるべく生成的なコミュニケーションが円滑に進むように司会進行役のみならず参加者全員が協力をする。
ここまではっきり言って当たり前の、常識的なお話である。別にこの話はいろんなところで言われていることだ。僕がこれから話したいのは、そうはいっても、人は他人の意見で傷ついたり、意見したくなってしまったり、耳をふさぎたくなってしまったりしてしまうよねという、「弱さ」について話したいのだ。
そのために僕の個人的なエピソードや考え方をここに開陳しなきゃいけない。僕は会社勤めをして2年目なのだが、勤めていてすごくしんどくなって、まぁ何とかうまくやっていることがある。「話が合わない」「聞いたことのない話をポジティブにとらえられる人が少ない」というようなことだ。僕は今まで経営者、フリーランス、大学の先生、芸術家、というような人とばかり話してきたので、いわゆる勤め人の考え方をほとんど知らずに生きてきた。それが勤め人の世界に入ると、まず一番にしんどいと思ったのは、話が合わないということだった。このことに関しては自分のしんどい気持ちを吐露した記事があるので、ぜひそちらを読んでみてほしい。
結局僕は自分の興味関心が受け入れられないつらさをずっと抱えていた。そしてそれは聞いてもらうことを要求した。難しすぎてわからないとか、自分の関心があるものを受け入れられない体験は自分を深く傷つけた。深く傷つくということは、結局押し付けたい、自分の考えにも少しは耳を傾けて従ってほしいという気持ちの表れである。要するに自分の弱さ、孤独ということの耐えられなさである。人間いろんな考えがあるよね。いろんな人がいるよね、あなたと私は違うからお互いに理解しあって受け入れあいましょう、認め合いましょう、というこの非常に人間としての基本的態度、これはもちろん哲学カフェでも重要視されるコミュニケーションのあり方。大事なのはわかっていくても、傷つく自分がいる以上、僕はこのあり方を自分の血肉とはまだまだ全然できていないということの何よりの証左である。
だからこそ、僕は哲学カフェをやっているのだ。自分の弱さを武器にするということ。自分は依存的で不寛容な人間であるということに嫌というほど自覚的であるからこそ、このような取り組みを行っているのだ。僕が哲学カフェをやりたいと言っていた動機は、自分にある弱さ、なのだ。それに最近気づいた。それは、7月に僕が薬局の従業員向けに開いた哲学カフェ「分かり合うってどういう状態?」(まさに、生成モード的コミュニケーションとはどういうありかたなのかという哲学カフェのメタ的視点を導入した素晴らしいテーマ!!ちなみに僕が出したテーマではないが、、)ということでやった。そこで自分の弱さを思い知った。なぜなら、こんな哲学カフェという営みをずっと関心持って勉強したり出向いたりしている人間よりもずっと参加者が「大人」で、共感と理解をしっかり分けたコミュニケーションを自然にやっていることを発見したからだ。まぁテーマがテーマなので、余計にそういうことを自覚させられる感覚があった。
「いや、僕の話も難しいとかよくわからないとか言わないでさ、わかろうと思って聞いてくれよ!!」という気持ちと、「そういうのを押し付けるのは暴力的だから控えなきゃいけないな…」という気持ちと、その間でジレンマを抱え燻り続ける感じが、自分の中に過去ずっとあったことを改めて認識したのだった。
その弱さをずっと抱えて発散もしないでいると、僕は鬱っぽくなってしまう。だから、自分と考えを結構共有している人と話すときの意見が受け入れられる気持ちの良い感覚、やはり僕はそっちのほうが好きだという気持ちもある。そっちのほうが強いかもしれない。考え方が違うことを認めよう、受け入れようということは言うのは簡単。でも行うのは、僕にとってはなかなか難しい。やはり傷ついてしまう自分は必ず存在しているから。でもそれでもコミュニケーションを学ぶために僕はこの隘路を通りたいと思っているのだ。今の世の中、苦手なことを努力するよりも、得意なことをしっかり伸ばそうという考えがある。言ってることはよくわかる。でも僕はあえて自分の苦手なことに挑戦したいと思う。それは自分の「弱さ」を武器にするということだ。傷つきやすさや依存的な自分という「弱さ」を克服するなんてことはきっとできないだろうけど、うまく付き合っていくことはできると思う。得意なことじゃなくて、実は苦手なことのほうが、人より自覚的である以上、大きな収穫になると思っている。
「僕は自分と違う意見を簡単に理解して受け入れられるほど、強い人間でも聞き分けのいい人間でもありません。でも、だからこそ哲学対話をしたいのです。」というのが、僕の動機の根っこにあるのだ。