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哲学カフェ『社会における人間とは?』

第12回哲学カフェ『社会における人間とは?』
2024年4月20日(土) 18時半から20時半
@奉還町4丁目ラウンジカド

前置きの文章

前回は現実とは何か?というテーマでやりました、現実そのものに対する話だけでなく、現実とどのように向き合っていくかということに関してそれぞれ話が出てきました。そのなかでいかに社会の中で人間は生きているのかということを考えてみたくなりました。さて、人間とは社会的動物だと言われます。社会とは人間が作り出したものかもしれませんが、一人一人の人間の力を大きく超えてしまっているような気もします。それともそんなのは共同幻想でしかなくて、やはり個々の生き方こそが全てなのでしょうか。社会に適応するという言い方もしますが、何をもったら適応的なのか、そもそも適応しなければならないのか?人間が社会で生きるとはどういうことなのか、様々な関係をたぐりながら考えてみましょう。



参加後の記録


問い:社会における人間とは?(Tさん)


【話す前】
「社会における人間」に対して抽象的なイメージしか湧かなかった。具体的には、人と人とが関わることは楽しい、といった具合にだ。社会という言葉が広義であり、どの社会の話に対してなのかということで考えがまとまりにくかったのだと思う。

【話した後】
結論、楽しいということは変わらなかった。自分自身の中にある好きなことをして楽しく生きることが大切だという考えは変わらなかった。だが、顕著に変わったことは社会を生きることへの認識だ。主に二つの認識を得た。一つは感謝の意識だ。他の意見を聴いていて、ピースのように人と人とが支え合っている状況や仮面を被りお客さんを接客するときなどに、自分はそういうことをするのが苦手だが、他の人のおかげで成り立っていたりすることが多々あるのだと気づいた。その気づかないような仮面をかぶっている人の行為を認識することで自然と感謝につながると思った。二つ目に不条理とそれに対する反抗とケアだ。生きていると不条理に襲われることは多々ある、それに対してある程度の余裕と不条理が蔓延っていることを知っていること、合理性を求めすぎないことを持っていればある程度の対応はできる。また別の対応として反抗することで不条理に立ち向かうことができる。たが、それらの対策虚しく圧倒的な不条理に追い詰められることで心が折れてしまうこともある。そのような状況下で支えてくれたり助けてくれる人と関わることで自分の心をケアでき、そこから社会が生まれる。
これら二つの認識を無意識から意識下に持ってこれたことが今回を通して得たものだ。


ファシリコメント:
今回は「社会における人間」という壮大なテーマで行いました。最初「楽しい」という意見が出たのはとても面白かったという印象で、社会に対するよくない部分がクローズアップされやすい昨今のなかで敢えて「楽しい」という言葉がとても新鮮でした。社会に出るという言葉は社会人、つまりは勤める人というような印象になりがちですが、社会とはそもそもコミュニティ、集まり、国家などいろんな括り方がある言葉です。漠然とした社会という言葉の使い分けがまず重要になりました。世の中と社会はどうかという話。世の中の方が範囲が広く、社会という言葉の方がいろんな使い方をされ、狭いコミュニティを指す場合もあることもわかりました(車社会、学校社会などなど)。
それから社会という言葉と大きな関わりがある“社会人“という言葉にも様々な話が巡りました。まず社会人という言葉はほとんどの場合、勤めている人に対して使われます。しかしながら“社会“という本来の意味とはズレた不思議な言葉ではないかという話も出ました【言葉の違和感】。それが故だと思うのですが「私は社会人という言葉が嫌いである」という強い意見もありました。さらにこの関連のなかで仮面をかぶって素の自分とは違う形で仕事をしている自分、それから役割という言葉も出ました。それぞれの立場でそれぞれの役割を演じている自分。人といるときには仮面をかぶっているが、人といないときでも「仮面」ではなくても「役割」を遂行している自分に気づく人もいました【他との関係性による役割→仮面?】【生活上における役割】。そして仮面や役割によって社会生活を円滑に進めようというする人々、つまりは社会に適応しようとすることによってうまく回らせている個人個人に対する感謝や敬意というところに繋がっていくのもきれいですね。その一方で、社会には適応がうまくいかずに心身を壊してしまう方もたくさん見受けられるという負の現実もあることも忘れてならないと感じます。

社会に出るということが、“社会人“という言葉にも象徴されるように勤めるということに収束してしまっていることで、勤めていない人の感じる後ろめたさや社会の役に立ってないのではないかという感覚、それから育児や家事などのアンペイドワークは社会活動とは別のものとして扱われ、あまり賞賛されてこなかった歴史に関しても話されました。そのような一連の話があったあとで、「社会人という言葉を使うならば、学生も社会人、子育て中の親も社会人、勤めている人も社会人、退職後のご年配の方も社会人」という発想が自然だろうという話が出ました。まさに社会という言葉の本質を手繰ればそのような言葉が出てもおかしくない、納得の発言でした【社会人という言葉の敷衍化】

他にも様々でましたが、以下後半の終わりの方に出てきた「不条理」という言葉です。学校の話が途中に出てきました。学校は社会に適応するためにあるのかもしれないが、逆に抑圧や監獄のような場所に成り果てている危険性を指摘する人もいました。ただ、この不条理という言葉が場にもたらされて、学校で起きる様々な問題や、本当に必要なのかよくわからないルール(校則)を遵守しなければならない環境というのは、この世界で生きる上での“不条理を耐える練習“なのかもしれないという話にもなっていきました【不条理を学ぶ場としての“学校“】。さてここで、もう一つ重要な問いがもたらされました。不条理のなすがままになっても良いのだろうか?ということです。そこで、抵抗とケアというとても大事な言葉が現れました。前回の哲学カフェで現実について語ったこととも関わりがありそうで、現実はコントロールができないものである【現実の不可抗力性】という話が出たのを思い返します。それもある種不条理という言葉と関わっていると思いますが、そこに「抵抗する力」という話が出たのはとても興味深かったように感じます。現実の不可抗力性に対しての抵抗というのは、完全な受け身ではなく主体的に社会と関わるためには大切なことなのかもしれません。しかしながらその不条理が度を超えてくることもこの世界には存在します。そこでケアという概念も少しだけですが持ち出されました。この問いはまた新たなテーマとして考える必要がありそうですね。

ファシリの私が個人的に考えるには、勤めるなかで学生だった頃とかなり大きく考えが変わっていったようにも思います。そのことを少し書きますと、学生の頃はやりたいことをしたいんだという気持ちが強かった方ですが、やりたいことの中にもやりたくないことが無数にあり、それがどんなに嫌でもやらなければならない現実があります。それも含めて社会で人間が生きるということなのだと感じています。僕が尊敬する解剖学者の養老孟司先生は、「やりたくないこととかめんどくさいことは好きになる、楽しむより他ないんですよ」と言われていたし、これまた尊敬する生物学者の池田清彦先生は「本当に自分がやりたいことをするためにはやりたくないことをたくさんしなきゃいけないんですよ」とも言われていました。今でもしんどいなと思う業務が重なるとその言葉を思い出しながらやっているなぁと。どんな境遇であれ、社会で楽しく生きていけるようにこれからも模索できたらと思っています。

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