世界体験に関する雑記(私的メモ)
岡本太郎の『沖縄文化論』という本の中で、柳田国男が収集した民話の一つ「山の人生」が紹介されています。
亡き妻のことを思いながら、山奥で子供たちと暮らす男の話です。その男は炭を作っていて、里に降りてはそれを売りに出かけるわけですが、それが全く売れませんん。そのため、米も買うこともできず、子供達も日に日に衰弱していきます。そんなある時、子供たちが「自分たちを殺してくれ」と言って、男に斧を渡して地面に寝そべったそうです。そんな子供たちの振る舞いを見ていた男は「(頭が)くらくらして、前後の考えもなく」子供たち殺しちゃうんですよね。
これが大まかなストーリーなのですが、岡本太郎はこの民話を絶賛してるんですね。「人間生命の、ぎりぎりの美しさ。それは一見惨めの極みだが、透明な生命の流れだ」と。そして、沖縄にはそのような「痛切な生命のやさしさ」が生き残っているということを言うわけです。
私がここで注目したいのは、岡本が言う「残酷である美しさ、強さ、そして無邪気さ」です。彼は残酷さの中に生命の根源性を見出しているわけですが、私にとってもこれは非常に惹きつけられる感覚です。
他方で、宮台真司も似たような指摘をしています。核心部分だけを用します。
相手が自分を知らなかったように、自分も相手を知らない。だからテロは間違っている。けれどテロは実行されねばならない。失われた対称性が回復される必要があるからである──。対称性の回復は人類普遍の「血讐の摂理」です。とはいえ全てのテロは間違いです。だからテロの実行者は死なねばなりません。それゆえ、二度目の決断で血讐を遂げたものの、間違った血讐の責任を取ります。自分も相手も等しく間違っているので、諸共爆砕するのです。
この文章では『女は二度決断する』という映画について言及されています。テロによって家族を失った女性がテロリストたちに報復をする際、自作の爆弾で自分諸共爆死するというのが大まかなストーリーです。
この映画を観た時、私は非常に感動しました。なぜか。その女性というのが極めて一般的な感性の持ち主だったからです。そのような人が、テロで家族を失ったことをきっかけに復讐の想いに駆られ、段々と変貌していく様は極めて自然な展開でした。いかなる違和感も抱かなかったのです。この体験は私にとって大きな変化をもたらしました。合理性と非合理性の境界などはあるようでないようなものだということがはっきりと分かったのです。
世界がシステムに覆われれば覆われるほど、他でもありえたという感覚は人々に広まっていきます。これは極めて示唆的です。90年代における宮台真司や大澤真幸の仕事はこのような観点から見直さなければなりません。
映画監督の中島哲也やアニメ作家の磯光雄は共通して「痛みこそが手がかりだ」ということを主張します。世界=システムであるとすれば、そのようなことを主張する必要はありません。システムの要請に従って生きるのみです。とはいえ、西洋の伝統的な思考では、世界=システムという考え方は割と一般化しており、その外部へと向かうことが目指されます。これらを踏まえた上で、そのような構図を無効化するような内的体験として「痛み」を持ってくること。これが重要なわけです。植島啓司が言うように、人間のランダム性は夢・憑依体験・狂気に宿ります。痛みへと肉薄するためには狂気的であろうとすることが有効なのです。
最近読んだアニメ作家の今敏の漫画『海帰線』はそのようなことを示唆していました。そこで描かれていたのは集合的無意識が作り出す神秘体験です。河瀬直美の映画然り、すでに共同性を失っている私にとってこの物語は昔話に過ぎません。しかし、だからこそ、取り出せる何かがあるのです。西洋が東洋を眼差した時のように。このような意味において、私は未だ60年代的な感性の中に閉じ込められているわけです。ポストモダン人類学などと言う前に、構造主義を真面目にやらなきゃいけないなと思いますね。
noteでのメディア活動は、採算を取れるかどうかに関わらず継続していくつもりです。これからもたくさん記事を掲載していきますので、ご期待下さい。