快楽と欲望について(私的メモ)
〈快楽と欲望の関係性〉
社会学者の上野千鶴子氏は欲望と快楽を別個に考えます。つまり、欲望の主体であることと快の状態にあることとは必ずしも結びつきが無いと言うのです。
彼女の定義によると、欲望の主体であるということは自らの欲望をコントロールしぬくということであり、快楽とは欲望の客体になることによって受動的に与えられるものです。だからこそ、欲望の主体であるからといって快楽は必ずしも保証されないのです。
また、快楽が発生するためには条件があります。自分がコントロールしぬけないという自己放棄+危険や不安をもたらさないという安心感の二つです。考えてみれば当たり前ですね。レイプが快楽にならない理由はここにあります。
私がマゾヒズムに注目しているのは快楽にこのような構造があるからです。相手をコントロールするという時、そこには快楽は発生し難いのです。
アーティストの横尾忠則はインドに訪れた時の経験を元に旅のあり方について以下のように指摘していたと記憶しています。
インドでは物事は予定通りに進まない。最初はイライラするけれど、次第にそれも馬鹿らしくなってきて、周囲のペースに全てを任せ切ってしまう。しかし、そこから全てが始まる。僕が思うに、本当の旅というのものは偶然性に身を委ねるということからしか始まらないのだ。
快楽の問題について考える時、この指摘はとても重要だと思われます。そこには偶然性に身を委ねるという契機が含まれているからです。
しかし、AVを見ていればよく分かることですが、男性が女性を貶めるような表現は頻繁に登場します。快楽の条件に照らし合わせて見た時、このような表現を通じて擬似的な快楽を得ることはできません。では、なぜこのような表現が存在するのでしょうか。
〈エロスと反エロス〉
ここで参考になるのが人類学者の田中雅一氏による「エロス/反エロス」という整理です。
反エロスとは身体が当人にとって監獄と感じられるような、意識が身体の虜と感じられるような状況を指します。そこでは私を保護し快適にしてくれるはずの衣服や家具、家屋が、自分を抹殺するための道具と化します。それだけではありません。自身の身体すら、痛みの源に変わるのです。体が痛いのではなく、体までもが私を痛めます。それは快楽ではなく痛みが支配する世界です。
「快楽をもたらすエロス/痛みをもたらす反エロス」という対立がここでは掲げられているわけですが、後者の方に注目しましょう。
痛みをもたらす反エロスという時、自傷行為や被虐行為などがすぐに思い浮かびますが、エロスと反エロスの境界線はどこにあるのでしょう。というのも、快楽の条件である「危険や不安をもたらさないという安心感」は常に書き換えられることによって成立するものである以上、コントロールからの逸脱が痛みに転化することが常にあり得るからです。
あるいはまた、痛み=快楽というような状態が成立することもあり得ます。このことを「エロス/反エロス」という図式ではどのように説明できるでしょうか。困難を感じずにはいられません。反エロスとは別の言い回しで、エロス的なものとは異なる快楽の形態を想定することはできないのでしょうか。
可能です。フロイトの「エロス/タナトス」図式を使えば良いのです。死の欲動とも訳されるタナトスにはある種の快楽を認めることができます。
〈快楽の良し悪し〉
しかし、よくよく考えて見ると、タナトス的なものも上記の快楽の条件を前提にしているとも言えます。実際に死んでしまってはどうにもならないからです。
では、痛み=快楽であるような状態に良し悪しをつけることはできるのでしょうか。あるいは、それは単に好みの問題なのでしょうか。
逆から考えて見ましょう。欲望の主体にとって、タナトス的なものはどのように映っているのでしょうか。
ここでようやくAVの話に戻ります。つまり、男性が女性を貶めるような表現においては、痛み=快楽を付与するような欲望の主体が描かれていると言えるわけです。
このことをどのように考えるかは私にとって割と重大な問題ですし、他の人にとっても同様だと思われます。というのも、これは関係の非対称性そのものの快楽をどのように考えるかという問題につながっていると言えるからです。
相互の主体が固定化されているような状態では、能動受動の区別に関係なく、関係そのものの非対称性に身を委ねる快楽が作動しています。そこには主体の往還があり得ません。あり得るとしても、それは限定付きです。そこにはインタラクションはありません。
インタラクションの無い非対称的な関係に没することの受動的な快楽。そのような快楽を果たしてエロス的と言えるのでしょうか。言えないように思います。
もっと言うならば、そのような関係から脱することこそが最もコントロールしぬけない状態と言えるのではないでしょうか。そのような関係おいては自らの所作までもが思わぬ動きをし始めるからです。
とした時、考えるべきはそのような状態が成立するような関係そのもののであり、そのような関係を成立させる空間あるいは共同性であると思われます。次回はこのことについて深掘りしていくつもりです。
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