スクリーンショット_2018-06-01_18

社会の成立過程を問うということ[連載]第4回 映画『渇き。』

どうも、クイズマスターです。連載4回目となる今回は、2014年に公開された中島哲也監督による映画『渇き。』を扱いたいと思います。今回は、長編ということで、2回に分けてお届けしたいと思います。なお、僕の映画エッセイでは、ネタバレをしますので、ご了承ください(その理由については、初回の記事にて)。

(C) 2014「渇き。」製作委員会

はじめに

いきなりですが、核心的なことから述べたいと思います。この映画をご覧になられた方は、中谷美紀演じる加奈子の中学時代の担任が、小松菜奈演じる加奈子を通じて、自分の娘が売春をさせられていたことが明らかにされたシーンを観た時、何を思いましたか。加奈子の誘いで娘が売春をさせられて可哀想、と思ったでしょうか。あるいは、その後のシーンで加奈子を殺してしまうのもある意味で仕方がない、と?

もし、そうだとしたら、この文章はあなたのために書かれています。というのも、僕の考えでは、担任が加奈子を殺したということに対して、批判的な立場を取るべきだと考えるからです。つまり、彼女が加奈子を殺すのってオカシイでしょ、と言うべきだと思っています。

ここでいう批判的な立場とは、彼女の殺人行為が反道徳であるだとか、犯罪を犯していることに対する批判に由来するものではありません。そうではなく、物語の機能的要素として彼女の行為が意味することに由来するものです。つまり、彼女の行為への批判は、映画の構造的な問題としてなされるものであり、一般的な社会通念に沿ってなされるものではありません。

とはいえ、すでにここまで読んでくださった方の中で、僕が述べようとしていることに対して違和感を感じていらっしゃる方も多いかと思います。実際、加奈子のような女の子が目の前に現れたとしたら、その異常性に恐怖感を抱かざるを得ないでしょう。ですが、映画を含めた様々な物語を一般的な通念に沿ってのみ理解するということは、様々な読み方を排することになるという点において、非常にナンセンスなことです。映画から読み取ることのできる別の可能性を探ることで、より良質な映画体験へと昇華することができるはずだからです。

なので、以上のような感想を抱いた方にこそ、この記事とこの記事の後編を熟読して頂きたいと思っています。決して損はさせません。

なぜ、加奈子はバケモノなのか?

作品中、周囲の人々から加奈子は「バケモノ」と呼ばれます。さらには、「愛する娘は、バケモノでした」というキャッチコピーが使用されていて、作品の内外を問わず、散々な言われようです。確かに、彼女は、同級生をシャブ漬けにさせたり、売春させたり、殺したりしていて、正真正銘のメチャクチャな女の子です。では、彼女がこれほどまでにメチャクチャなのはなぜなのでしょうか。まずはこれを明らかにしたいと思います。

実は、映画の中でちゃんと説明されています。というより、役所広司演じる藤島が元妻の連絡で加奈子の失踪を知り、加奈子の居場所を突き止めるために身辺調査を行うミステリー要素が物語の主軸なので、当然でしょう。なので、これをすでに分かっていらっしゃる方は、この部分を飛ばしていただいても構いません。ただ、複数の時間軸をかなり頻繁に行き来しながら物語が展開して行くので、一度見ただけで全貌を捉えることはかなり困難です。特に、冒頭部分は、観る人達を引き込むと同時に様々な伏線を撒いていて、頭が余計に混乱するため、以下の整理は有用なものになるかと思います。

まずは、加奈子にのみ焦点を当ててみましょう。回想シーンではいじめられっ子の「ボク」を通じて、中学時代の加奈子の姿が明らかにされますが、二人の会話の中に頻繁に登場する「緒方」がカギです。緒方と加奈子はとても仲が良かったらしく、彼女の部屋に二人が一緒に映った写真を父の藤島が発見しています。しかし、緒方はすでに自殺していました。

最大のポイントは、緒方が自殺した理由です。ヒントは、緒方をすごく好きで「もっともっと好きになりたくて」殺したという加奈子の告白と、緒方の復讐という松永の告白です。緒方の復讐とは、同じクラスの不良たちに緒方が拉致されて、同性愛者にレイプをされた結果、彼が自殺したということに対する加奈子の復讐ということです。普通に考えれば、前者の加奈子の告白をそのまま受け入れるべきでしょう。ですが、好きだから殺したという不可解な理由を述べていることを踏まえると、後者の松永の告白にそれらしさを見出せることは確かです。つまり、ここには断絶があります。だとすれば、その断絶をもたらしている加奈子の告白の謎について探る必要がありそうです。

現実を夢のように生きる加奈子

先ほど触れた部分で、加奈子は緒方を「殺した」と告白していましたが、緒方は自殺していたわけで、彼女が実際に殺したわけではありません。この告白を真摯に捉えるとすれば、間接的にそのように仕向けたと考えることができます。それはつまり、不良たちに緒方を拉致するようにわざと仕向けた、と。一見、この推論には無理があるように見えますが、ボクが同じことをされているということから信憑性があると言えるのではないかと思います。さらに付け加えると、実業家のチョウと関わりを持っていた彼女は、不良たちとチョウに繋がりがあることを知っていたからこそ、これを仕組むことができたとも推測することもできます。そう考えると、松永の告白が、加奈子の正体を知らないが故の単なる勘違いだと説明がつきます。

問題は、「もっともっと好きになりたくて」殺したということの意味です。同じシーンの中の彼女の発言に注目してみましょう。

加奈子「私、落下中なんだ。穴が深すぎて、ずっとずっと落ち続ける。ヤバいのあたし、ときどき消えたくなるの」
ボク「君はなんなんだ、目的は、ボクに近づいて、めちゃくちゃにすること?」
加奈子「ああ、その子は別の子なの。私、ずっと夢を見ているみたいなんだ。もうめちゃくちゃ。夢だから、何をしても自由。キスしても、殺しても。時々、その夢に迷い込む子もいるけど、でもみんなすぐに逃げ出しちゃう。自由って怖いから」

一つ目の発言では、加奈子の愛読書『不思議の国のアリス』の比喩を用いて、自分の境遇を語っています。二つ目の発言では、普段の自分が別の女の子であると言っています。以上から分かることは、彼女は現実を夢のように生きているということです。では、なぜ彼女は、そのようなことをしているのか?

僕が思うに、彼女は「ダブルバインド」的なコミュニケーションが支配する家族の中で育ったがゆえに、コミュニケーションの文脈に反応しないようになってしまったと考えています。詳しく説明すると、ダブルバインドとは、ベイトソンという人が作った概念で、言葉内のメッセージと言葉外のメッセージとが矛盾しているコミュニケーション環境に置かれている時の状態を指します。例えば、「あなたのことを愛しているわ」と話しかけられた子供に対して、憎悪の言葉をかけられたり、暴力を振るわれたりする、あるいはその逆パターンのような家庭環境が典型的です。ベイトソンによると、ダブルバインドに長く晒されると、言葉外のメッセージに反応しなくなり、統合失調症へと到り得ることが明らかにされています。先ほどの例で言えば、「あなたのことを愛しているわ」と述べた母親に近づくと、憎悪の言葉や暴力を受けることを分かっているので、そこで生じる混乱を解消するために、言葉内のメッセージにのみ反応するようにするわけです。

このように述べると、何が問題なのか分かりづらいかと思いますが、加奈子の言動を想像して頂ければよく分かるはずです。相手にいきなりキスをする、暴力を振るおうとする父・藤島に「大好きだよ」と囁く、これらはまさに文脈を一切無視した言動です。これは逆に言うと、我々がコミュニケーションをとる時には、文脈に依存しているということです。そして、父・藤島が加奈子に暴力を振るっていたシーンが、加奈子がコミュニケーションの文脈に反応しなくなった所為を示しています。妻に対しても暴力を働いているところを見ると、藤島は間違いなくDVをしていたのでしょう。

となれば、コミュニケーションの文脈に反応しないことと、現実を夢のように生きていることとの関係性は明らかですね。すなわち、非自然的な状態としてのコミュニケーションの文脈に反応しないことを、理解可能な認知的枠組みに当てはめた結果、現実を夢のように生きるようになったのだ、と。逆に言えば、現実を夢のように生きることでしか、目の前の悲惨な現実とは無関係に、加奈子が加奈子であり続けることはできなかったと言えるでしょう。彼女の愛読書が現実離れした世界観の中で物語が展開される『不思議の国のアリス』であったことが象徴的です。彼女が現実を夢のように生きるようになったのには、ある種の必然性があったと言わざるを得ません。

(C) 2014「渇き。」製作委員会

夢を現実のように生きる父・藤島

せっかくなので、もう一人の人物にも触れておきましょう。父・藤島についてです。繰り返しになりますが、藤島による謎追求こそがこの物語の主軸なので、こちらにも注目すべきでしょう。アル中で、何らか精神疾患を患っていると示唆される父・藤島は、必死の思いで加奈子を探そうとします。確かに、親であれば、子供が失踪したら必死の思いで探すかもしれません。ですが、降り積もった雪の奥底に埋められた加奈子を掘り返そうとするラストシーンの彼は、もはや執念とも言うべきこだわりを加奈子に抱いていることが伺えます。彼をそれほどまでに掻き立てる動機はどこにあるのでしょう。

少し話がズレますが、彼は加奈子の親ではないのです。正確に言うと、数ヶ月前に、妻とは離婚していて、家族としての関係性を断ち切っています。というのも、妻の父親から訴えられたらしく、財産・家・親権の全てが妻に譲渡されることが決まっていたのです。アル中は元々として、精神疾患を患うに至った理由は、これに由来するのかもしれません。

このような状況の中で、加奈子失踪の知らせを元妻から受けます。DVをしていたような夫に対して、奥さんもなぜまた連絡をするのか、と思ったりもしますが、加奈子が薬物を所持していたため、致し方ない部分もあるかもしれません。加奈子を探す間も、元夫婦は話す度に怒鳴りあっていましたが、彼女に暴力も加えていたような関係性であり、親権もすでに剥奪されているというのに、なぜ彼は元妻の知らせを受けて、加奈子を探し出したりしたのか。このような意味においても、彼の加奈子へのこだわりを確認することができます。

ヒントは、家族に関する会話が藤島と誰かの間でなされる度に、彼の主観映像として登場するCMのような家族のイメージです。イメージを膨らんで頭の中の世界に入るとすぐに、何らかのきっかけで現実に引き戻されます。もう一つのヒントは、彼が元妻に放った「俺が家族を愛して何がおかしい?」というセリフ。DVまでしておいて、こんなことを平気で言う彼は、加奈子とは対称的に、夢を現実のように生きているのではないでしょうか。だからこそ、現実の妻に会うと、夢との期待外れが生じて、彼は暴力を振るうのだと思います。これは、加奈子を殺そうとしたシーンも同じように理解することができます。すなわち、現実の加奈子がコミュニケーションの文脈に反応できないがゆえに、父を父として見做さないという点において、彼にとっての理想の娘と現実の加奈子とが非常に乖離しているからこそ、加奈子を殺そうとしたのだ、と。

このように考えてみると、親子であるにも関わらず、藤島と加奈子は、極めて対称的な生き方だと言えるかも知れません。一方は現実を夢のように生き、他方は夢を現実のように生きる。一方は笑い声を上げ、他方は怒鳴り声を上げる。一方は愛の言葉を発し、他方は憎悪の言葉を発する。一方は人を惹きつけ、他方は人を遠ざける。どう考えても、藤島と加奈子のこの対立は意図されたものと考える他ありません。したがって、以下の文章では、この対立の意味について少し別の視点から考えることによって、藤島が加奈子に異常にこだわっていた理由を明らかにしようと思います。

(C) 2014「渇き。」製作委員会

脱社会的人間

先ほど、ベイトソンのダブルバインド理論について紹介をしましたが、彼と同じ文脈上で主張する人がいました。それは、社会学者のG.H.ミードという人です。彼は、コミュニケーションが成立するためには、相手のメッセージの意味をそのまま理解するということとは別に、みんながどのように理解するかどうかに沿って相手のメッセージを理解することが必要だと指摘しました。そして、後者の理解ができるためには、役割取得が必要だと指摘します。つまり、子供の「ごっこ遊び」を通じて、みんながどのように理解するかを知ることが必要だというのです。

この点において、コミュニケーションは分脈に依存するというベイトソンのダブルバインド理論の指摘と一致します。この時、役割取得のプロセスが上手く機能しないと、みんながどのように理解するかを前提に展開されるコミュニケーションができなくなり、コミュニケーションへの信頼性が喪失します。加奈子の「まともって何?」というセリフが象徴的です。この文脈で捉え直すと、加奈子は、家庭内においてダブルバインドの環境下に長く晒された結果、役割取得のプロセスが上手く機能せず、コミュニケーションへの信頼性が喪失してしまったのだと捉えることができます。

社会学者の宮台真司は、コミュニケーションへの信頼性が喪失してしまった人間を「脱社会的人間」と呼んでいます。彼によると、脱社会的存在は、コミュニケーションの可能性を信頼できない「底が抜けた存在」と定義されています。「底が抜けた存在」という表現が意味するのは、その当人にとって、社会の中で生きることの必然性が感じられていないということです。だからこそ、加奈子は、どんなことでも平気でやります。彼女にとって、自分の行動が社会の規範に適っているかどうかは、どうでも良いことなのです。

ところで、宮台真司が脱社会的存在について論じていた背景には、酒鬼薔薇聖斗事件に代表されるような動機不可解な少年犯罪がある時期から目立ってきたことがあり、彼らを説明するために脱社会的存在という概念が提出されていました。宮台も自身の著作において、ベイトソンとミードの議論を引用しています。

ここでは、加奈子のような人間=脱社会的存在が生まれた社会的な背景を明らかにするために、彼の議論を敷衍しようと思います。すなわち、郊外化と情報化に伴い人々の流動性が高まった結果、目の前にいる他者の入れ替え可能性が前景化してしまい、他者との関係性が総じて希薄になっている、と。このような社会的な背景ゆえに、脱社会化とまでは行かずとも、他者とのコミュニケーションに飢えている人たちが現在でも多数います。その代表格が引きこもりです。

そのような人たちがコミュニケーションへの信頼性を喪失する危機にある場合、それを食い止めることは二つの意味で困難です。一つは、濃密な関係性が無い以上、そのような状況にあることを知る回路がないからです。もう一つは、そのような状況を知ることができたとしても、以上のような理解に依拠した適切な対処法を知る人間は数少ないからです。

かくして、少年少女たちが脱社会化をします。父親からDVを受けていた加奈子に、頼れる他者がいなかったことは想像に難くありません。とするなら、加奈子が脱社会化をした=少年少女たちが脱社会化したのは、自分たちが暮らしている社会がどのような経緯で変化して、どのような問題が生じているかということに対して、多くの人々が鈍感であることに由来すると断言できるでしょう。

藤島が加奈子に異常にこだわる理由

さて、以上の議論を踏まえて、父親・藤島について考えてみましょう。すでに見てきたように、藤島のDVこそが加奈子を脱社会的存在へと導いたのでした。そんな藤島が脱社会的存在である加奈子に対して異常にこだわることは、親としての愛情を考慮に入れたとしてもあり得ないはずです。この矛盾を解くためには、藤島にとってそれがあり得るものだということが示されていなければなりません。では、それは一体どこに?

気づかれた方もいらっしゃるかもしれませんが、この文章の中ですでにそれを言及しています。それは、妻の父親の手によって、これまでの生活の全てが奪われたということです。このことは、彼も加奈子と同じように、悲惨な現実が到来したことを意味します。悲惨な現実が到来した時、人はそれを乗り越えるための認知的枠組みを捏造します。さもなくば、現実の悲惨さを前にして、自分を保つことができません。

藤島にとっての捏造を示唆する決定的な部分は、夢の中の加奈子が何度も登場するシーンです。このシーンは、映画の冒頭の伏線に従って、精神疾患に由来する幻覚として位置付けるのが当然でしょう。つまり、彼は悲惨な現実を埋め合わせるために、精神疾患と理想の加奈子が登場する幻覚を患ったのだということです。すると、元妻との離婚に伴う法的制裁から精神疾患が生じたという仮説に筋が通り、藤島が加奈子に対して異常にこだわることがあり得るものだと見做すことができます。

したがって、藤島が加奈子に異常にこだわるのは、藤島が別の形で加奈子と同じ目にあったからなのです。それはつまり、藤島もまた、脱社会的存在への道に足を踏み入れたということになります。

前編記事は、ここまでです。後編記事では、別の議論を挟みながら、冒頭に述べたことについてお伝えします。

読んで頂きありがとうございました。それでは、また次回。

noteでのメディア活動は、採算を取れるかどうかに関わらず継続していくつもりです。これからもたくさん記事を掲載していきますので、ご期待下さい。