完全版 合言葉は「過去の生を再生すること」
最近、僕はある本を読んでいて、以下のような記述を目にした。
現実主義者を信仰に導くのは、奇跡ではない。真の現実主義者は、もし信仰を持っていなければ、奇跡をも信じない力と能力を自己の内に見出すであろうし、仮に反駁しえぬ事実として奇跡が目の前に現れたとしても、その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。また、もし事実を認めるとしたら、ごく自然な、これまで自分が知らなかったにすぎぬ事実として認めるに違いない。現実主義者にあっては、信仰が奇跡から生まれるのではなく、奇跡が信仰から生まれるのである。現実主義者がいったん信じたなら、まさしく自己の現実主義によって必ず奇跡をも認めるはずである。
この文章は、ドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』からの引用である。最近読み始めたばかりで、上中下巻のうち、上巻の100ページにさえ達していないのだけれど、僕はこの文章に強く惹かれた。この文章でドフトエフスキーが示していることは、ここ最近、僕が抱えている悩みを切り開くように感じられたからだ。
長らく僕を悩ましていたのは、具体的な次元では、自分を含めたあらゆることに現実感を感じられないということであり、抽象的な次元では、生きること全般への虚無に陥っていたということである。ひとことで言うと、現実世界で行動する上で準拠する価値判断が宙吊りになっていた。
かつての僕は、これに対する解決策を見出すことで必死だった。少しでも早く、価値判断を取り戻し、それに依拠した行動を取ることによって、再び理想を追求しようと考えていたからだ。この姿勢は、おおよそ半年ほど続いていた。この間、僕は社会学者の宮台真司を中心に現代思想系の人たちの著作を貪るように読んでいた。しかし、いくら頭を働かせても、価値判断が取り戻されることはなかった。段々と希望が失われ、絶望が全面化していった。そのことに耐え切れなくなり、その絶望を回避するべく、生きること全般への虚無に陥ったというわけだ。
今思えば、虚無に陥ってしまった理由は明快だ。自身の知的能力を超え出るようなこと、すなわち全体性を把握することによる価値判断の確立を目指していたからだ。そんなことが現代思想を断片的に身に付けているに過ぎない僕がたったの半年で達成出来たとしたら、もはや現代思想は学問として完成していると言っていいだろう。しかし、当然のことながら、実際の現代思想は、未完成なのだ。
これらについて無自覚であっただけでなく、希望と絶望に紐付いた感情の起伏こそが何かを信じることを支えていると思い込んでいた。例えば、ある人が弁護士になる意義を信じることによって、法学部に入学するために必死で勉強していたとしよう。当然、彼は、法学部に入学することを必要不可欠なことだと考えて、そのための勉強に専念しようとする。彼のこの行動の前提には、「自分もそれなりに努力すれば、弁護士になることができる」という希望が信じられていることが容易に見い出せるだろう。
他方で、「どうせ自分は、弁護士になることができない」という絶望が信じられている場合は、行動の意欲が湧いてこない。しかし、「弁護士になることができない」という絶望は、自分の目指すべき理想として、弁護士になることが設定されているからこそ、感受される。つまり、希望も絶望も、何らかの理想が措定された結果、はじめて生じる感情なのだ。とするなら、希望と絶望の消失は、措定された理想が機能不全に陥っていることを示している。
以上の推論を元に、希望を見出せず、絶望が全面化した先にその絶望を回避するということは、信じることを放棄することと同義であると僕は考えた。絶望さえできない僕は、もはや信じることを放棄している、と。信じることを放棄するとは、理想の追求を放棄することだ。そのような状態に陥ることは、僕自身の死を意味した。極めて狭隘な見方かもしれないが、僕にはそう信じ込むしかなかったのだ。
しかし、ドフトエフスキーの文章を読んだ僕は、そこに見出される真理らしきものを感じるとともに、かつての僕の考え方に懐疑の念を抱いた。すなわち、信じるということは、時として、感情の起伏を伴わないことがあるのではないか、と。
先ほど述べたように、僕が何かを信じることの根拠には、多くの場合、現代思想の言説が要請されることが多い。というのも、それらに依拠することにより、自己決定における不安を埋め合わせているからだ。とはいえ、これは僕だけに当てはまることではない。人間は誰しも、自分が行なっていることが正しいかどうか不安だ。だから、自分を肯定してくれる他人を欲する。一般的には、その対象が日常生活に内在する他人に当たるのだろうが、僕の場合、それが日常生活に内在しない思想家とそれを支える真理への信仰に当たるというわけだ。
ところで、何かを信じることの根拠(=信じることを支える認知的枠組み)は、原理的には、書き換え可能である。それゆえ、原理的には、上述した僕の認識(=「希望と絶望に紐付いた感情の起伏こそが何かを信じることを支えている」という認識)を書き換えることも可能である。現代思想に限らず、学問における普遍的真理が漸進的な普遍化のプロセスを内在させていることは、このことを証している。
それを書き換えるためには、今ある認知的枠組みが書き換え可能であるということが期待できる状況が前提として存在しなければならない。それゆえ、それが期待できない状況下では、何かを信じることはできず、虚無に陥る。このことから僕の辿ってきた道を別の形で確認することができるだろう。
一方で、今ある認知的枠組みが書き換え可能であるということが期待できる状況下にあったとしても、一時的な価値判断の不在に対してとるべき態度が不明瞭であれば、同じように絶望していたことだろう。なぜなら、僕が追求していた信じることの内実は、信じることを支える認知的枠組みだからだ。言い換えると、何かを信じることの根拠を対象にしていたのだ。
加えて、僕はこれをできる限り、洗練させたかったので、ある程度の期間が必要だった。そのように考えたならば、いずれにせよ一時的な価値判断の不在に対して向き合わなければ、そのことに絶望する状況に追い込まれざるを得なかっただろうと考えられる。
したがって、とにかく僕は以下の問いに取り組まねばならない。すなわち、価値判断の不在に対してどのような態度を取れば、そのことに絶望し、虚無に陥ることを防ぐことが出来るのだろうか。
最初に提示したドフトエフスキーの文章の核心は、「現実主義者にあっては、信仰が奇跡から生まれるのではなく、奇跡が信仰から生まれるのである。」という部分だと僕は思う。この文章が意味するところを明らかにすることで、虚無への対処法についてのヒントが得られると直感するので、以下ではそれに取り組みたいと思う。
まず、この文章の中で、奇跡と信仰が対置されていることに注目したい。これだけを見ると、宗教的な色彩を帯びた言葉に思われるかもしれないが、実は、僕たちの日常世界にも合致する部分が含まれている。
僕たちは、何らかの体験をしたとき、何らかの心境の変化を得る。例えば、発展途上国における食糧危機を描いた映画を見て、その国で生活する人たちと比較して、自分が物質的に恵まれた世界に生きているということをはじめて自覚する。そのことによって、ある人がご飯を残さずに食べることを心掛けるようになったとすれば、その映画はその人にとって衝撃的な体験だったと言えよう。加えて、その背景には、心境の変化に止まらない信念の変化があったと言えよう。先ほどの話と接続すると、何かを信じることを支える認知的枠組みが書き換えられたということだ。そうでなければ、日常生活の中での行動規範に反映されるはずがないからだ。
しかし、その一方で、同じ映画を見ていたにも関わらず、信念が変化しなかった人もいるだろう。それは一体何故なのか。両者を分かつ要因は何なのか。この答えをドフトエフスキーは教えてくれている。
ある人が食糧危機を描いたある映画を衝撃的な体験として受け取り、そのことによって信念の変化が生じたのはなぜか?それは、その人間にあらかじめその映画を衝撃的な体験として受け取ることができる信念があったからではないだろうか。
具体的に考えてみよう。映画の各シーンを精緻に分析し、映画全体のモチーフやメッセージを読み取ろう、という習慣が身についてる者と、そうでない者とでは、映画鑑賞に関して明らかに異なった経験の積み重ねがあると推測することができる。それゆえ、両者を比較した時に、受け取ることのできる情報の量と質の両側面に大きな差があるはずだ。
他にも、世界情勢についての関心があるだとか、食べものについての関心があるだとか、当人が自覚し得ないことも含めて様々な複合的な要因が受け取ることのできる情報の量と質を作用すると考えられる。それはつまり、自分が生きてきた中で得られた経験の積み重ねによって、受け取ることのできる情報の量と質が決定づけられているということだ。ここでは、ある体験の受け取り方に影響を及ぼしているという点において、自分が生きてきた中で得られた経験の積み重ねを広義の信念と解釈しておこうと思う。したがって、ある体験が衝撃的な体験として受け取られ、そのことによって信念の変化が生じるのは、受け取り手があらかじめ有している(広義の)信念がその体験の中で受け取り得る情報の量と質に大きな影響を与えるからだ。
整理しておくと、衝撃的な体験とは、何かを信じることを支える認知的枠組みを書き換える出来事一般のことであり、信念とは、何かを信じることを支える認知的枠組みだと定義できるだろう。
念のため補足しておくと、ある体験が衝撃的な体験として受け取られないという場合、その原因は必ずしも受け取り手に問題があるとは言い切れない。受け取り手の有する信念の中で、ある体験が平凡な体験として位置付けられる場合だ。これを、受け取り手の能力不足と見なすこともできるが、その逆もあり得る。つまり、体験を与える側よりも受け取る側の方がより優れた信念を持っていると見なすことができるということだ。ここには、優れた信念とは何か、というややこしい問題が関係してくる。だが、それを抜きにしても、ある体験が衝撃的な体験として受け取られるのは、(当人が自覚し得ない作用因があるという意味で)完全に予測し得ない極めて稀なことであり、それは、奇跡と呼ぶに足る出来事ではないかと思う。
すなわち、衝撃的な体験とは、奇跡のことなのだ。
それでは、以下のことが言えるのではないだろうか。前述したように、僕は、何かを信じることを支える認知的枠組みを書き換えるためには、今ある認知的枠組みが書き換え可能であるということが期待できる状況が前提として存在しなければならない、と述べた。加えて、それが期待できない状況下では、何かを信じることはできず、虚無に陥る、とも述べた。本当にそうだろうか?
これまでの話を敷衍すると、何かを信じることを支える認知的枠組みを書き換える出来事一般を指す衝撃的な体験=奇跡は、受け取り手があらかじめ有している何かを信じることを支える認知的枠組み=信念から生まれると言うことができる。これを動的に捉えるならば、信念から生まれた奇跡によって、新たな信念が形成され、その新たな信念に別の新たな奇跡が生じる、という風に記述することができるだろう。だとすれば、今ある認知的枠組みが書き換え可能であるということが期待できない状況下では、何かを信じることができないとして、そのことが何かを信じることの不可能性を示唆していると見なし、虚無に陥ることは、妥当な判断だと言えないのではないか。なぜなら、奇跡と信念の関係性を動的に捉えたとき、「今ある認知的枠組みが書き換え可能であるということが期待できない状況下では、何かを信じることはできず、虚無に陥る」という信念に対して立ち現れる奇跡というものが原理的には存在し得るからだ。別の言い方をすると、そのような否定的な意味を有する信念も何らかの奇跡によって構築された以上、原理的には、奇跡が必ず存在し得ると言えるはずだ。
この推論に基づき、以下のような新たな信念を僕は仮説として提示してみたい。すなわち、今ある認知的枠組みが書き換え可能であるということが期待できない状況下とは、信じることを支える認知的な枠組みが十全に機能していなかっただけに過ぎず、何かを信じることができないということを意味しないのではないか。言い換えると、信じることを支える認知的枠組みを機能させることができたとすれば、何かを信じることが出来るということだ。以上の仮説により、何かを信じることを可能にする前提についてより適切な認識を確保することができた。これは多大な進歩だと言えるだろう。
しかしながら、これでゴールインするのはやや焦燥だろう。以上に加えて、信じることを支える認知的枠組みを機能させることを可能にする前提について、適切とまでは言わなくとも、大まかな全体像を捉えておく必要がある。というのも、僕はすでに、信じることを支える認知的枠組みを機能させるべく、およそ半年間奮闘して、有益な結果が得られず、最終的に虚無に陥ったからだ。それゆえ、もう一段階前の前提について触れなければ、再び虚無に陥ることは不可避なのだ。では、信じることを支える認知的枠組みを機能させることを可能にする前提とは一体なんだろうか。
読んでいる方はすでにお気づきかもしれないが、以下の話では、すべからく抽象的な話にならざるを得ない。実際には、今しがた提示した問いに対して、知的刺激を享受出来る環境に身を置くとか、私的なメンターを確保するとか、決断主義的に現実世界に飛び出すとか、解決のための方法がいくつかあるのだろう。冷静に考えてみれば、これらの方法は、熟考(あるいは、即断?)に値する方法だと僕も思う。だが、残念なことに、虚無という怪物を一度でも自己の体内に招き入れてしまった人間には、熟考に値する具体的な方法をどれだけ提示されたとしても、それを行使することに対する懐疑の念を抱かざるを得ないという側面がある。そこには、自身の生そのものに対する懐疑が裏面として現出しているからだ。
一側面に過ぎない懐疑の念を人生の問題として捉えることは、馬鹿げているのかもしれない。一般には、これを学習性無力感として捉え、それを克服するように対処すれば済む程度の問題なのだろう。そのような問題の取り組み方に対して、僕は何ら否定的な見解も持っていないし、むしろ肯定している。
しかしながら、ほんの少しの懐疑の念をとても大きな問題として捉えてしまわざるを得ない偏執的な人間が一部存在する。本論から少し脱線するけれども、僕もやはり、多少そのような偏執的な部分を有する人間なのだと思う。普通の感覚からすれば、僕はバカな人間としか映らないかもしれない。
けれども、ある時点において、そのような偏執的な人間たちが大きな問題として捉えたことが、場所や時代を超えて、多くの人が突き当たらざるを得ない問題であるようなことが往々にしてある。虚無という怪物がまさにそれだ。
もちろん、だからと言って、僕が述べていることに普遍的価値があると言いたいわけではない。僕の自己認識としては、この文章で僕が述べていることは、ドフトエフスキーを筆頭に遠い昔からすでに誰かが語り尽くしてきたことだろう。その意味では、僕の話は彼らの焼き直しにすぎない。
では、僕はなぜこの文章を書いているのか。それは、多くの人たちが突き当たらざるを得ない問題に対して、僕が取り組んだ思考過程を残すことで、他者に何らかの体験を与え得る可能性を強く信じてるからだ。これを言うと、本論の問題が別の形で解決されてしまうので、ほんとうは明らかにすべきではないのかもしれない。けれども、僕を含めたほとんどの人間は、実際には、単一的なものに支えられているのではなく、複合的なものに支えられているのだ。そうでなければ、一度、虚無に飲み込まれてしまった僕のような人間がこのような文章を書こうという動機さえ湧いてこないだろう。
計らずとも、この文章の執筆動機を語ってしまったわけだが、前述した問いの解答とも関係する部分があると言えるので、この話を頭の片隅に置いて本論に戻っていただければと思う。
さて、話を戻して、信じることを支える認知的枠組みを機能させることを可能にする前提についての考察を進めていとと思う。前述したように、ここでは、解決のための具体的な方法を述べるのではなく、抽象的な話をしなければならない。それこそが、先ほど述べたような形で現出する虚無という怪物に対して、対抗可能な唯一の武器ではないかと思うからだ。
これに対して、いきなりではあるが、以下の仮説を提示しようと思う。すなわち、何かを信じることを支える認知的枠組みを書き換えることが可能だと期待されるかどうかに関わらず、信仰=信じることそれ自体は常に可能になり得るのではないか、と。詳しくは追って説明していくので、とりあえず、読み進めて頂きたい。
最初に言葉遣いについて、はっきりしておこう。この仮説の中では、二つの似通った用語を使った。「信仰=信じること」と「何かを信じること」の二つである。「何かを信じること」とは、文字通り、「何か」という具体的対象に対して信じることを意味する。例えば、映画の各シーンを精緻に分析し、映画全体のモチーフやメッセージを読み取ろう、という習慣が身についてる者にとって、「あらゆる映画表現には、意味がある」と信じることがその「何か」に当たり、それに基づいて「何かを信じること」がなされていると分析できるだろう。
ところで、今ある認知的枠組みが書き換え可能であるということが期待できない状況下とは、信じることを支える認知的な枠組みが十全に機能していなかっただけに過ぎないと考えた場合、信じることを支える認知的な枠組みを改変するために、その前提を改変するべく確かめ、前提の前提を改変するべく確かめ...という形で永久的な自己言及がなされ得る。先ほど僕が、以下の話は抽象的にならざるを得ない、と述べたのはこれに起因する。
この永久的な自己言及の営みは、前提をどんどん辿っていくことにより、具体的な対象を伴った「何かを信じること」との間接性をどんどん広げていく。その間接性が広がれば広がるほど、「何かを信じること」が不可能であるかのように感じられるという事態が生じてしまう。これを一般的な感覚で示すとすれば、日常生活において、環境保全のために環境資源の破壊を防ぐような行動(例えば、スーパーではエコバックを使うとか、二酸化炭素の排出量を減らすとか)を取ることに対して、その多大な間接性ゆえに多くの人にはその意義を感じられない、ということと照らし合わせてみれば概ね理解できよう。
このようなプロセスを経て、「何かを信じること」が不可能であるかのように感じられることを納得させるために虚無が召喚される。ここには、「何か」をより厳密に確立せんとすればするほど、「何か」がどんどん遠ざかっていくというパラドックスが存在する。だからこそ、解決のための方法に対して、さらには自己の生に対して懐疑の念を抱かざるを得ない。しかし、ここではまだ虚無に飲み込まれているわけではない。
であるならば、別の方法を考えなければならない。「何かを信じること」を目指さずして、「何かを信じること」を可能にする方法を。しかし、そんな方法があり得るのだろうか。まるで、答えのない意地悪な問いのようにしか見えないではないか。こんな馬鹿馬鹿しいことなんて、やってられない。頭がおかしくなりそうだ...かくして、この問いを立てた時点で、僕は虚無という怪物に飲み込まれてしまった。僕は、怪物に飲み込まれてしまわねば生きていけないのかもしれない。このようなことを考えていた矢先に、僕はドフトエフスキーの言葉に出会った。
現実主義者にあっては、信仰が奇跡から生まれるのではなく、奇跡が信仰から生まれるのである。
ここでドフトエフスキーは、あまりにもきっぱりと「信仰」という言葉を述べている。まるで、今しがた僕が示してきた解答不能な問いがこの「信仰」には含意されていないかのようだ。とするなら、「信仰」に対するドフトエフスキーの意味合いと「何かを信じること」に対する僕のそれとがズレていることが推測できる。では、そのズレの所為はどこにあるのか?
こんな風に考えたとすれば、どうだろうか。ドフトエフスキーが言うところの「信仰」とは、「何か」という具体的対象を持たない「信じること」を意味している、と。
そもそも、あらゆる人間は、具体的対象としての「何か」を信じるという体験をする。それがたとえ、否定的な観念を伴うものだとしても、それは一種の「何か」を信じることなのだ。それゆえ、僕たちは、具体的対象としての「何か」を伴わない「信仰」という形を想像することができない。
しかし、様々な経験を通じて、「信仰」を支える「何か」が様々な形式を取ることに次第に気がつく。例えば、「信仰」という言葉に親和性の高い宗教をとってみても、キリスト教、イスラム教、仏教等々の多数の宗教がある。他にも、哲学という形の「信仰」も存在する。これに加えて、日常生活の行動規範として機能している広義の「信仰」をも含めると、より多数の「信仰」の形式に遭遇することができるだろう。
とするなら、形式の違いがあれど、僕たち人間が「信じること」を求めざるを得ないということに共通性を見出せるのではないだろうか。つまり、あらゆる「何かを信じること」の共通性を抽象化させたものとして、「信じること=信仰」への志向性を抽出できるのではないだろうか。その意味で、「信じること=信仰」への志向性は常に可能になり得ると言えると思う。加えて、たとえ今の「何かを信じること」が不可能であったとしても、別の「何かを信じること」が不可能だとは限らないこともこれを証している。このように考えたならば、ドフトエフスキーの文章を容易に理解することができるだろう。
さて、ここまでの話を対象化してそのプロセスを記述すると、「信仰=信じることそれ自体は常に可能になり得る」という奇跡を取り込んだ新たな信念によって、永久的な自己言及の営みを包括的に扱っていると言えよう。これはつまり、永久的な自己言及の営みの中で生じる虚無をも新たな信念の中に取り込んでいるということだ。
かくして、以下の仮説が導出できる。すなわち、信じることを放棄することと同義に当たると考えていた虚無に陥ることは、実際にはそうではなく、信じることは常に可能になり得るがゆえに、何かを信じることの潜在的な可能性を備えている、と。したがって、たとえ虚無という怪物に飲み込まれていたとしても、信じることそれ自体は常に可能になり得るがゆえに、信じることを支える認知的な枠組の改変を行い、「何かを信じること」を確立せんとすることには、常に大きな意味がある。
都合の良い解釈だ、と思われるかもしれない。しかし、以上の結論こそがドフトエフスキーの指摘が正当なものだと言えるのではないだろか。虚無に陥ることは信じることの放棄に当たると考えていた僕がドフトエフスキーの文章の中に信じることそれ自体は常に可能になり得るという奇跡を現に発見し、新たな信念を確立したのだから。さらに言えば、彼の文章の中に奇跡を見出すことがあらかじめ運命付けられていたかのように感じられることもこのことを示唆しているように思える。
ここまでの話で、原理的には、信じることそれ自体は常に可能になり得るということが分かったのだが、虚無に陥ることを防ぐことが出来たと言えるだろうか。というのも、僕を含めたほとんどの人間は、原理的なことよりも実践的なことに引きづられがちなので、現実世界に身を置いたとき、信じることそれ自体は常に可能になり得るという事実を頭では分かっていても、それを保持できなくなるかもしれないからだ。原理的に考えれば、そんな状況であっても、信じることそれ自体は常に可能になり得るのだが、何が起きるかは分からない。それに、原理的な事実は、実践的な事実との照応関係を保持しなければ、机上の空論と化してしまう。だから、僕はもう一つの問いに向き合う必要がある。すなわち、信じることそれ自体は常に可能になり得るという事実を、いかにして実践的に信じ続けることできるのだろうか。
おそらく、これは状況に応じて、答え方が異なるのではないか、と僕は思う。実践的な事実は、現実世界での出来事なので、常に変動する不確定要素だからだ。とするなら、答え方についての原則といったものを事前に用意しておくことが最善の対処策だと思われる。しかし、その間接性たるや気が遠くなってしまう。加えて、僕の知的能力を反省する限り、その原則を常に行動に反映させる努力ができるほどの思考の余裕を日常的に保持することは極めて困難だ。僕だけでなく、多くの人も同じであろう。
したがって、僕はここで提起した問題について考えることを強い意思に基づき中断したいと思う。それゆえ、思考の積極的中断こそが信じることそれ自体は常に可能になり得るということを支えることになる。もちろん、思考の積極的中断も入れ替え可能な根拠付けに過ぎない。だが、今の僕にとって、これは最も強度のある根拠付けだと断言できるので、理想的な形ではないにせよ、信じることそれ自体は常に可能になり得るという事実を実践的に信じ続けることできると考える。
以上のことを明らかにするために、思考の積極的中断の背後にある考え方(=「思考の積極的中断」を信じる根拠)を示そうと思う。その手がかりは、理想を追求する中で生じた希望と絶望だ。
両者の特徴をひとことで言い表すとすれば、複雑で計算不可能な感情の起伏である。これに対し、単純で計算可能な感情の起伏が人間には存在する。とはいえ、これは外見上から観察できる諸要素の中に見出せる特徴のことであって、ほんとうの意味では、あらゆる感情の起伏は、複雑で計算不可能なのだろう。だから、正確には、単純で計算可能であるかのように見える感情の起伏と言うべきかもしれない。しかし、とりわけ希望と絶望に代表される感情は、現実世界の予期せぬ出来事や準拠する価値判断の揺らぎによって、複雑で計算不可能な外見性を有すると言えよう。しかし、先の理由に沿って、感情それ自体をこのように定義しても良いかもしれない。
それはさておき、合理的に考えたとき、ある時点における複雑で計算不可能な感情の起伏はブラックボックスとしてしか認識できない。ある時は希望が見出され、ある時は絶望が見出される。ある時は強度のある感情が見出され、ある時は強度のない感情が見出される。しかも、その完全な原因を辿ることは不可能だ。もちろん、後付けとして一部の原因を辿ることはできるけれども、要素還元主義的に構成された原因だけでは説明し得ない部分が必ず残ってしまう。つまり、ある時点における複雑で計算不可能な感情の起伏をどれだけ再帰的に把握しようと試みたとしても、完全に理解可能なものとして捉えることは困難というわけだ。それゆえ、複雑で計算不可能な感情の起伏は、ある一時的な感情にのみ由来する静的なものではなく、自分が生きる全ての時間の中で生じる感情に由来する動的なものだと考えた方がより適切ではないだろうか。言い換えると、複雑で計算不可能な感情の起伏は、自己の生そのものに由来すると考えられるのではないだろうか。
これに対して、一時的な感情の起伏に由来した動機付けというものもあり得るだろう。実際、先ほど述べたこの文章の執筆動機は、一時的な感情の起伏によって支えられている。僕の執筆動機が単一的なものにのみ支えられているのではなく、複合的なものに支えられているとは、このことに由来する。
ところで、僕たちの生は、常に根本的な偶有性に晒されている。よくある話だけれど、今の自分が存在する原因を人間のレベルで辿っていくと、両親の出会い、その両親の両親の出会い...といういくつもの偶然が重なり合った結果であることが分かる。あるいは、それを自分のレベルで辿っていくと、様々な人生の分かれ目を意識的にせよ、無意識的にせよ、その都度選択した結果であることが分かる。
このことは、自分が自分であることは、別のあり得た生が存在し得るからこそ成り立っているという重要な示唆をもたらす。と同時に、僕たちは別のあり得た生を想起することができる。否、想起せざるを得ないのだろう。これまた、よくある話だけれど、もしあの時にあの子に告白をしていたら全く別の人生を歩んでいただろう、という反実仮想を後悔の念とともに想起する物語は一種の定番として定着している。これをもって、僕たちは別のあり得た生を想起することを欲していると考えるのは極めて自然な成り行きだと言えよう。
しかし、僕たちの生が常に根本的な偶有性に晒されているということは、自分が自分であることは偶有性に晒されているということを、あらゆる自己決定は偶有性に晒されているということを意味する。これをより推し進めると、主体的に選んだ自己決定でさえも環境的条件によって規定されていた、ということが白日の下に晒される。
以上の認識は、僕たち生はあらかじめ運命付けられている、あらゆる自己決定はあらかじめ運命付けられているという虚無と極めて親和性の高い認識を引き起こす。残念なことではあるけれど、これは、一つの真実だと僕は思う。そのように考えざるを得ない出来事というものがこの世界には多数存在するからだ。
それは、不条理と呼ぶにふさわしい出来事である。具体例として、学校でいじめにあった子供の場合を考えてみよう。もし、本人が何らかの特定できるいじめの原因が見出せたとすれば、ある意味で、本人は救われるかもしれない。その原因を克服するなりして、いじめの原因を払拭す出来る可能性が残されているからだ。しかし、何らかの特定できる原因が見出せなかったとすれば、つまり”なんとなく”といった理由でいじめの対象にされたとすれば、本人にはどうすることもできないだろう。これこそがまさに不条理である。そして、不条理を耐え抜くために、上述したような認識が要請され得ることは想像に難くない。
もちろん、実際には、様々な形をとって、不条理を耐え抜く(あるいは、埋め合わせる)試みが選択されるだろうから、必ずしもこの認識が生じうるとは言い切れない。しかし、長期的に不条理が持続した場合、上述したような認識に代表される断念とそれに伴う虚無の全面化が高い確率で生じ得ると言うことは出来ると僕は思う。このような意味で、先に述べたように、この認識が一つの真実であることを否定することはできない。
だが、その一方で、僕はもう一つの真実があると思う。それは、生の偶有性を規定する原因を可能な限り自覚し、それを自己の前提に据えることによって、今の生とは全く無関係な別の生への回路を開くことができる、という真実である。言い換えると、自己決定を規定する環境的条件を可能な限り自覚し、再帰的に自己決定し直すことによって、今の生に由来する可能性から、そこに由来しない別の生の可能性へと開くことができる、という真実である。
先ほどの例で説明しよう。”なんとなく”といった理由でいじめの対象にされた本人が、絶望を伴いながらそのことを徹底して自覚し、いじめを客観的な出来事として把握できたとしよう。つまり、自分がいじめられているのは、説明可能な理由などは存在しないと把握するということだ。言い換えると、自分がいじめられていることの偶有性を徹底して自覚するということだ。もちろん、そこに至るまでが大変なのだろうけれど、これを自覚できたとすれば、自己の生の偶有性が同時に浮上し、いじめをある種の運命として感受する姿勢が現れてくるはずだ。自分の中に原因を探ろうにも、そんなものはどこにも見つかりやしないからだ。これに付随して、自身の運命を呪う、といったことも起こり得るだろう。不条理を理解可能なものとして感受する上で、運命が持ち出せれることはこのように説明することができる。
自身に降りかかった不条理を運命だと感受したとして、死を積極的に選択するのでない限り、それとは別に、現実世界を生きていかなければならない。しかし、不条理を運命と感受した背景には、自己の生の偶有性を自覚しているので、少なくともその時点では、自己決定の意義が喪失している。何をやっても、どうせ上手くいきやしないのだ、などの形で。
にもかかわらず、実際には、多くの人たちは生きていくわけだ。なぜ、彼らは生きていけるのだろう。それは間違いなく、僕たちが多数の物語と接することによって、そのことを忘却するとともに、別のあり得た生を想起しているからだ。ここで言う物語とは、一般的な物語に限らず、僕たちが普段生活する場に支配する物語をも含めた広義の物語である。そのため、現実世界をも自分が登場する物語として捉えることができる。
その一方で、自分の登場しない全く別の物語に触れることを通じて、別のあり得た生を想起することができる。この体験は、時として、現実世界の行動に影響を及ぼすことがある。野球漫画を読んで、野球を始める、というような形である物語に啓発されて、現実世界の行動に移したという経験をした人はたくさんいるはずだ。つまり、ここでは、現実の再構成(リフレーミング)が行われているのだ。僕たちは物語を通じて、現実の再構成を絶えず行っている、と言えるだろう。この作業を通じて、様々な物語に裏打ちされた生の偶有性を規定する原因を自覚することができる。
もちろん、それが必ずしも良い認識を生むというわけではない。それこそ、他者と紐づいた尊厳を断ち切り、自己完結化した尊厳が形成され、主観性が過度に強大化してしまうこともある。しかし、これも含めて、一種の信念なのである。だからといって、僕たちが社会の中で生きている以上、あらゆる信念が許容されることはないだろう。しかし、原理的に考えるとこのように言わざるを得ない。それは、原理的な客観性が存在し得ないことをもって、証することが出来る。客観性とは、結局のところ、みんなが似たような主観性を有しているに過ぎないのだ。そのような意味で、各個人に照準させる価値判断を一元的に設定しない限り、あらゆる人間にはあらかじめ別の生の可能性を想起することは可能だと言えるのではないだろうか。
ここで注意しておきたいことは、別の生の可能性は、原理的には、今の生に由来しているということだ。なぜなら、それは、生の偶有性を自覚することを契機としているからだ。しかし、別の生の可能性へと開かれた生は、少なくとも、今の生に縛られていたかつてのような形では運命付けられていない。その意味で、僕たちは、一つの限定的な運命から自由になり得るのである。これを別の生の可能性と呼ばずして、何と呼べばよいのだろうか。
そして、この真実をもたらすのは、別のあり得た生を想起することであり、それを最も容易に喚起させるものが物語なのだ。だからこそ、僕たちは、別のあり得た生を想起する物語を欲するのではないだろうか。一つの限定的な運命から脱するために。
話を戻すと、様々な物語に裏打ちされた生の偶有性を規定する原因を自覚したとすれば、それを手がかりに自分のあり方をも再構成することができる。これをもって、僕たちは再帰的に自己決定し直すことが可能になり、別の生の可能性を開くことができるはずだ。ここで再び、ドフトエフスキーの言葉を参照しておきたい。
真の現実主義者は、もし信仰を持っていなければ、奇跡をも信じない力と能力を自己の内に見出すであろうし、仮に反駁しえぬ事実として奇跡が目の前に現れたとしても、その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。また、もし事実を認めるとしたら、ごく自然な、これまで自分が知らなかったにすぎぬ事実として認めるに違いない。
ドフトエフスキーがここで述べている真の現実主義者とは、上述したような形で自身の生を再構成し得るものとして捉え、再帰的に自己決定し直すことを決断した人間のことを意味するのではないだろうか。だからこそ、「奇跡をも信じない力と能力を自己の内に見出す」のであり、「その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じない」のではないか。つまり、自己を起点にした生のあり方をドフトエフスキーは(正確には、作品に登場する語り手が)唱えているのだ。
逆に言えば、何らかの具体的対象に依存した生のあり方は、ある意味で、その具体的対象に振り回されてしまう。果たして、そのような生が良き生と言えるだろうか。僕は言えないと思う。だからこそ、再帰的に自己決定し直すことをこそ決断するわけだ。
まとめをすると、僕たちの生は、あらかじめ運命付けられていると同時に、一つの限定的な運命から自由になり得るのであり、二つの次元が存在する。この両次元を峻別することによって、一時的にではあるかもしれないが、それなりの期間、虚無に陥ることを防ぐことができると思う。かくして、複雑で計算不可能な感情の起伏の中に見出された自己の生の可能性を手掛かりに、別の可能性へと開かれた自己の生が行動主体となり、自己決定を規定する環境的条件を可能な限り自覚し、再帰的に自己決定し直すということによって、思考の積極的中断が支えられていることが明らかになった。それゆえ、今の僕にとって、それは最も強度のある根拠付けだと断言できるわけだ。
最後に、これを読んでいる人と自分自身に向けて、励ましの言葉を残して置きたい。たとえ、感情の起伏が生じないような状態が長く続き、現実感を感じられないことが日常化したとしても、心配することはない。僕たちには、別のあり得た生を想起することを通じて、過去の生を忘却する力と再生する力とがあらかじめ備わっているからだ。過去の生を再生すること、これこそが僕たちが何かを信じるために必要不可欠の秘密の合言葉ではないだろうか?