映画『暁闇』からの連想(私的メモ)
舞台はとある高校です。主要な登場人物は3人、うち二人が女子です。一人目の女子は渋谷で援助交際をする毎日。二人目の女子はクズ親の喧騒に巻き込まれる毎日。そんな二人の共通点はネット上にアップされているとある音楽を聞いているということです。それをきっかけに二人は仲良くなります。岩井俊二の『リリィシュシュ〜』のごとき展開です。さらに面白いのはその音楽を作っているのが同じクラスの男子であるということ。もちろんその男子はそのことを皆に言いふらしたりはしません。その男子には毎日一緒に登下校している彼女がいますが、渋々付き合っているという感じのイマイチな関係です(その彼女は勝手にウキウキ)。
とあるきっかけで3人が出会います。舞台は屋上です。アジール=避難所としての屋上。しかし、その関係性は長続きしません。ポスターの宣伝文句はこのことをはっきりと言語化されています。 「失くしたものをこんなに愛せるとは思わなかった でも何を、何を失くしたんだろう」瘡蓋に覆われた傷口が疼きます。かくも辛いのはなぜなのか。失くした何かを忘れなければ社会を生きられないからです。
失った何かを忘れてしまうことについての悲しみ。それはある時当然訪れます。そのような瞬間が私にもありました。そこでの内的体験は凄まじいものでした。何物にも代え難い経験です。この経験こそが今の私を基礎付けています。
とあるシーンにおいて、地味な国語の教師が登場します。一部の生徒達がその教師に向けてホッチキスを投げます。そのホッチキスは先生の顔に直撃して先生は血を流します。驚愕です。しかし先生は怒りません。何事も無かったかのように連絡事項を伝えます。まるでそれがありふれた日常であるかのような自然さで次のシーンへと接続されます。このことをどう考えるべきでしょうか。
補助線を引きます。その先生は上述した女子と援助交際をしています。とはいえセックスはしません。女子の背中にもたれかかっておずおずと泣くのみです。さらに驚くべきはその先生の息子が上述した男子であるということです。関係性の濃密さに注目しなければなりません。やや出来過ぎの感が否めませんが60分の映画にしては上出来です。
学校の教室は主要登場人物達にとっては耐え難い空間です。そこで心が安まることなどあり得ません。上記の出来事はそのことを印象付けるものとして描かれています。相米慎二が『台風クラブ』で示唆している通りです。「みんなのいる教室は狂っている」と。
では、狂っている教室にみんなはなぜ居続けるのか。理由は二つ。一つ目は、すでに居場所を得ているから。二つ目は、そこ以外に居場所があり得ないから。前者が大多数でしょう。教師にホッチキスを投げつける生徒達、投げつけられる教師は後者に分類されます。
宮台に言わせれば内在系と超越系です。しかしそのような区別もまた図式的なものでしかあり得ません。現実はさらに複雑です。そのことを自覚できる者のみが狂っている教室の内側に潜む外部へと触知することができます。この映画の凄いところはそこまでを描いているということです。
ラストシーン。くだらない会話を続ける二人の女子を前にして泣き崩れる女子。屋上があったビルを見失ったからです。目の前にいる二人の女子は事情が分かりません。彼女たちは抱き合います。泣き崩れる女子と二人の女子は非対称です。非対称でしかあり得ないからです。ここにこそ外部が存在します。
失った何かを忘れてしまった時、人は世界の非対称性に開かれる以外に道は無いのです。そこに善悪が介入する余地はありません。「これで良かったのだ…」と自分自身の経験をリマインドさせられませした。
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