誰かの悪口はそのまま自分がやってることの解説である可能性

人は自分で自分自身を観ることができません
よほど注意深く、常に自分を観察する習慣づけができている人以外は、自分が今この瞬間に何をしているのか?をわかってはいないということです
自分がしているつもりのことと、実際になされていることは、たいていの場合において、ズレています

どこからどう観ても怒ってるんだけどな…

「怒ってなどいない」と言ってる人がどこからどう観ても怒ってるようにしか見えなかったり、「別にあなたを責めてるわけじゃない」と言ってる人にめちゃくちゃ責め立てられている、みたいなことは、よくあることなのではないかとおもいます
だけど、そういう人たちに、客観的にはどう観えてるのか?を教えたところで、怒ってなどいないし、責めてるわけじゃないって言い張るし、酷いときなど「そんなふうに観えるのは、あなただけだ」とか言われてしまうことすらあるわけです

それくらい、人というのは、自分がしていることに気づけないものなのだとおもいます

今、あなたもそれと同じことしてるし!

例えば
Aさんという人が「Bさんはいつも他人の気持ちを考えないで文句ばかり言ってる。言われた人がどんな気持ちになるのかちゃんと考えて話すべきだよね」ということを話している場合
Bさんがいつもしてることとして話していることそのままのことを、まさに今Aさん自身がしているわけで
果たしてAさんはBさんや聴き手がどんな気持ちになるのかちゃんと考えているのでしょうか?言われた人がどんな気持ちになるかをちゃんと考えて話すべきなのは、Aさんも同じなのでは?
というようなことは、よくあることなのではないかとおもいます

こういう場合、本人(Aさん)は、自分のしていることにはまったく気づいていないし、気づいてもらおうとしても不可能な場合が多かったりします
なぜなら、Aさんは自分はいつも人の気持ちを考えて発言していると思い込んでいるし(だからこそ、そうする【べきだ】と発言できるわけで)、まさか自分がBさんと同じことをしているなんて認めたくないからです
そしてこのことは、人間というものは、自分がいつも振る舞っているようにしか他者の振る舞いを見ることができないということをよく現しているようにもおもいます

同じ事象でも人それぞれ見え方が違う

よほど注意深く常に自分を観察する習慣づけができている人以外は、自分がどのように物ごとを捉えているかについて常時意識的にはなっていないので、大体の場合において、いつも自分が振る舞うようにしか他者の言動を捉えることができません
そして、ほとんどの人は意見や価値観の違いを煩わしいものと感じたり、価値観が同じ人でないと分かり合えないと判断しやすいため、同じような意見や価値観の人と一緒にいることが多く、それ故、似たような捉えかたをする人ばかりと交流しているので、自分の捉え方が当たり前だと思っていたり、正しいと思い込んだりしがちです
しかし、決してそうであるとは限らないのです

自分とは違う捉えかたをする人に出逢ったときに、自分の捉えかたが正しいとするのではなく、どれだけその違いに対して純粋に興味関心をもって心を開いてゆけるか、理解を深めてゆけるかが、視野を拡げ世界を拡げることにつながるのではないかとおもいます

そして先に書いたように、誰かのことを描写するときに
それはもしかしたら自分自身もやっていることなのではないか?という視点で自分自身を見つめ直すことは、ときには苦しい感情を伴うこともありますが、必ず平和で優しい世界につながる道を歩むことであると
わたしは信じています


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